動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学

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  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309246352

感想・レビュー・書評

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  • どうしてもてはやされているのかわからない1冊。

    接続せよというこれまでのドゥルーズ読解が多かったのにたいして、切断も大事ということを言い、中途半端を掲げる。
    ノリつつシラけ、シラけつつノる、という浅田彰の
    『構造と力』における主張を拡大したものと見ることができるが。。。

    中庸といったところで、何がじゃあ指標になるのかという点でぼかしているとすれば、それはそれまでのポモと変わらない。
    精神分析経由の概念で欲望と言うのであろうが。

    あとは、ニーチェと結婚概念の章において、クィアこそが一般で、そのあとにヘテロが特殊的に構築されたにすぎない、というのは、我田引水だろう。
    特殊の一般化が行われていると言わざるを得ない。

    著者は「一般」というものを、道徳的抑圧装置とみているので、「一般」という事柄の内実や価値を問うことができない。多くの人にとってどうしてそれが意味をもつにいたっているのか、という内実の一般的感覚が欠如しているかぎり、クィアであるところの救われるべき自分が抑圧されていると信じているかぎり、
    この「一般」つまり、多くの人にとってという水準は理解することができない。
    もちろん、惰性的に残っている一般もあるだろうが、
    多くの人にとって有意味とみなされているからこそ残存する、「一般」という感覚を手放してはならない。

    同一性批判が基調のポストモダンにあって、
    差異性を強調することが最重要であることからすると、
    このテクストは、ポモから寵愛を受けるだろうが、
    同一性の意味を、一般の意味を受け取り損ねてしまう。

    そのままでは、
    クィアであることが正義である
    という主張を導いてしまう。

  • ドゥルーズといえばやはり"接続"の哲学であり、そのダイナミクスが現代的というか派手というかウケが良い部分だと思う。しかし、ここではあらためてドゥルーズの源流から丹念に読み直していくことで、ドゥルーズを"切断"の哲学として読み解く。それは、それまでの逆を行くという話ではなく、ただ無尽蔵に接続されるだけではなく、それとは表裏としての切断が確かにあることを示す。そのうえで、その接続と切断の絶妙な程度こそが「動きすぎてはいけない」というタイトルに現れている。
    しかし、まあ、なんとも難しい。ドゥルーズだけでもしんどいのに、ヒュームやらスピノザやらベルグソンやら、テキストの引用・解釈の洪水で、いま自分が何を読んでるのかわからなくなるし、5分くらいで力尽きて眠くなる。たかだか「アンチ・オイディプス」と「千のプラトー」読みましたくらいでは歯が立たない。世の中にはこんな難しい本を書いたり読んだりできる人がたくさんいるんだから恐ろしい。

  • 読む前に分かりそうなものだけど、良くも悪くも哲学学的な本
    面白い箇所もあったものの、哲学学かぁと思いながら読んだので全く理解できない箇所も多々
    ドュルーズに当たろうとはあまり思わされなかった
    さすがに難解だったので2度3度繰り返し読めば徐々に面白く読むことができるようになるかも知れない

  •  「世界征服〜謀略のズヴィズダー〜」というアニメを観たときに、うわなんでこんなに面白いんやろう……腐り姫の時もそうやったけれど……つかこのアニメ……エロゲーやったらエンディングむかえる頃には全員やってるやん!十八禁で番外編出してくれ!と思いながら観ていた。
     とにかく新しい、面白いものがどんどん出てきて、ほんと情報社会ありがとう、日本ありがとうと思いたい。それはいつも「こうきたか!」「まじか!?」というリアクションを伴うものなのだ。
     もちろん、死ぬほどつまらん、展開の読める物語はある。だけど、それを裏切ってくれる天才らがいるのだ。ありがとう!!
     人の能力には限界があって、色々哲学やら思索してきたけれども、戦争は平和に容赦なし。差別もなくならず、文明だけが発達していっているが、何も問いを解けない中、こうした「新しく、面白いものが、考えもしなかった感動を与えてくれる」という予測不可能な快感、新しい問題提起、見事さ、無限の広がり、なんでこんな作品できたかわからんけど良い……が起こっていることが素晴らしい。そして、それこそが人間であり、世界であり、自然なことなのだろう。
     人も世界もそれぞれが特異で、いろんな解答や問題をやってる。正しい問いの解き方なんてなく、いろんなオリジナルで……ってな感じを味わわせてくれる作り手または観ている人間らに感謝申し上げたい……。

     そんな風なところから、この哲学書ははじまるように思う。

     感謝申し上げるとは言った。だけど別に、信者になったりするわけではない。
     この本はとにかく、最初から最後まで、どろどろに溶け合うとか、全体が一つにとか、混ざる事に対して慎重に警戒している。
    「リゾーム的な接続は、どこかで切断され、有限化されなければ、私たちは、かえって巨大なパラノイアのなかに閉じ込められる。」
    とか
    「あらゆる事物が関係しているという妄想」
    とか多くのつながりと、すべてはつながっているという悟りの境地的なものをまず否とする。ではどうするのか。
    「生成変化は、接続過剰のどんづまりからの解放でなければならない。それは、「節約」の勧めである。酒にもう一杯、あと一杯と溺れていき、どこで最後の一杯にするか。「接続の節約」である。」
    とのこと。まあ西部邁がよく述べている「平衡感覚」と似てるかもしれない。(ただし西部邁は若いときは国会議事堂に突入したり、年老いても小沢一郎を刺し殺すと動画で言ったり、バランスを取ろうということを言う好々爺でありつつそうやる人で、この矛盾を考えるのが大事である。)

     その「接続の節約」のための「節約例」として
    「知識人とは「どんなことにでも意見を持っている人々」
    であるとされる。けれどもドゥルーズ曰く、
    「「実に望ましい」のは「あれこれの論点についてどんな意見も見解ももたない」ことである。」
    として、問題に飲み込まれないような姿勢について述べている。

     とにかく何か一緒くたとか、これはこういうもんやから、に対する否が大事である。
    「微妙な違いやマイナーな差異のある事物や人々を粗雑に一緒くたにする「代表」「代理」「表象」への批判」
    がドゥルーズの批判であり、代理・表象されない差異それ自体の哲学を求めること。それが寛容なのだ。
     世界は、こういうもんやからと、悟れるようなものではなく、
    「世界にはいたるところに非意味的切断が走っている。渾然一体にはならず、別のしかたで(多様なめちゃくちゃさで)事物は、分かれなおすのである。」
    となっている。
     ようするに同化……一つになるとか、ドロドロに溶け合う、混ざり合う、液状化への否だと思う。

     荘子を取り上げて「胡蝶の夢」について、これは
    「絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容するという事態である」
    と述べ、いわゆる「悟りの境地」のような「何か真実在なる道の高みに上り、万物の区別を無みする意味」ではない。悟りっぽい、こう、自然と一つになりました的な、ベタな仙人の世界みたいなものに否をする。
     「動きすぎる」とは世界全体を「道」の糸によって万物斉同にすることであり(接続過剰)、逆に「動きすぎない」生成変化とは、区別=切断された個々の自己充足である。そんな「動きすぎる」と「動きすぎない」のスイッチについてを胡蝶の夢は述べているのだと言う。

     「動きすぎない」というのは、過剰に自己破壊し、無数の他者たちへ接続過剰になり、そしてついに世界が渾然一体になることの「阻止」であるという。
     非意味的切断のシャープな線で、接続過剰にブレーキをかける。そしてバランスを取る。
     「世界が一つになればええやん」みたいなものに対する再検討は、
    「接続/切断の範囲を調整するリアリズムであり、異なる有限性のあいだのネゴシエーションである」
    とのことで、みんなに同一化できない、やる気のない他者として再開する感じで、全世界からのドロップアウトのつもりで思考をはじめる……本当の思考はそこからなんだということ。何かの事件とかでショックを受けて思考するようなことをするなと述べているのが面白かった。
     ただし、そのリアリズムやネゴシエーションをどうしていくかは、どうしたらいいかの「方法の方法」はなかなかこの本からは見えてこない。正直安西祐一郎らのやるようないわゆる認知科学の「問題解決」が一番合理的のような気がする。

     では、ドロップアウトして一から考える、そんな思考する「私」とはどんなものなのだろうか。
     普通、いろんな自分があって、自分自身ができあがっていると考えるが、そうではなく「固有の存在をもたない微粒子が存在を構成している」という。部分は本質を持たず、しかし本質を作り出しているのだ。そして微粒子が作り上げる「何か」。その微粒子から、できあがったものの「あいだ」にあるのが「世界に対して接続過剰にならずブレーキをかけた結果」である。粒子や部分と、できあがった物のあいだに「事」「関係」があり、それは何にも依存しない非常に多様な感じかつブレーキである。人間は微少な自我のあつまりであり、かつブレーキによって、人らしくなっている。ブレーキをかけるので、常に何か足りないなあと、欲望がおさまらないが、これこそ正常であり、病気はこうした足りないものをなくしてしまうことなのだ。
     足りないものをなくすなんて、無欲の悟りの境地だが、これこそ、一番危険なことである。
     反戦とか人権とか、もしくは自分の心とか「大きなテーマ、本質」と、こんなケースとかこんな事例とかの「小さな部分」とのあいだにあるもの。それが動きすぎないためのブレーキであり、それは「部分をテーマに拡大」「テーマを部分に矮小」してしまうなどして炎上・混乱しないために重要である。なぜなら、部分は本質を目指していないしあんま関係ないし、本質もなんで自分がいるのかよくわからないからだ。

     そうしてきちんとブレーキして、接続を切断してまとまった問題をどうすればいいか。
     それは、何かほかの方法ややり方で色々実験してみるといいと言う。「これはなんだ!なんで俺はしんどいんだ。何が原因だ。搾取だ疎外だ」と叫んでもどうにもならない。硬直化をさけてユーモアを持とうじゃないかと述べる。
     ユーモアを持ちつつ、人と人はどうあるべきなのか。
    「在る存在者とその環世界は、他の存在者とその環世界と「共通概念」を形成しうるにしても、暗い底においては分裂しているのであり、それらを「なか」へと包摂する関係主義的な全体は存在しない。」
    のであり、ここでも包摂とか、何かした包み込んで全体みたいな感じを否。
     で「共不可能な世界の乱立を肯定する」のである。

     「私たちは、いくつもの非意味的暴力を自分の暗い底で体内化している。それゆえに書くのである。成功の予定なく、私の懐中電灯を、あなたの懐中電灯とクロスさせるために。」
    と結論する。

     最後に、ロビンソンが無人島にたどり着く話を書いている。
     無人島に、もし漂着したのなら、はじめは底なしの絶望、置いていかれた感覚、嫁さん寝取られてるんちゃうか、友達からは死んだと思われてるわ、そんな不安しかないが、そのうち、「ああすっきりした、これでええやん。人のしがらみからも解放や!」的な回復にいたってくる。
     そうして、ロビンソンの場合は、やがてフライデーという他者に出会う。
     フライデーは勝手に振る舞うのみで、自分の楽しみのためにロビンソンの好まない植物を育てたりする。
     それは無関心によってなされてしまう破壊であり、複数の世界のあいだの衣擦れである。
     フライデーは別の自分でもないし、自分を補ってくれるものでもない、導きでも、敵でもない。フライデーとは成功も失敗もないなかで実験していくしかない。何かしら混沌とした流れがあって、時間は過ぎゆくし、ロビンソンという存在を時代は置いていくが、そんなことは関係なく、何かをやっていく。何かが生み出されていく。そこには「よくわからん世間も何もない、でもフライデーはいる」という「ブレーキ」があるのだ。

     難しい本でした。
     知らんけど。

     ところで読んでてふと浮かんだのが実存主義だ。それもサルトルの。この哲学にとって、サルトルとかはどうなのだろうか。「実存主義とは何か」における、相手にまったく助言せずに話を聞くだけのあの姿勢。その割には演説したり政治運動したりの活動家。このサルトルは動きすぎない人なのだろうか。彼は接続過剰だったのだろうか、そうではないのだろうか。著者はため息をするだけだろうが、哲学や歴史や人類は動きすぎた結果ではないか……この本も出版社が接続過剰でオーバーヒートした結果ではないかとかいうツッコミもありそうだ。また、「動きすぎてはいけない」はやがて誰かが嫌な感じで史観として使いそうな気がする。
     こうして、どこまで応用するのかも、接続過剰にならず、読者がシャープにし続けないといけないのだろう。

  • うん…何を言っているのかサッパリでした。入門書ではないですね。

著者プロフィール

1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。
著書に『意味がない無意味』(河出書房新社、2018)、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』(青土社、2018)他

「2019年 『談 no.115』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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