動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学

著者 :
  • 河出書房新社
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本棚登録 : 474
レビュー : 28
  • Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309246352

感想・レビュー・書評

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  • ドゥルーズといえばやはり"接続"の哲学であり、そのダイナミクスが現代的というか派手というかウケが良い部分だと思う。しかし、ここではあらためてドゥルーズの源流から丹念に読み直していくことで、ドゥルーズを"切断"の哲学として読み解く。それは、それまでの逆を行くという話ではなく、ただ無尽蔵に接続されるだけではなく、それとは表裏としての切断が確かにあることを示す。そのうえで、その接続と切断の絶妙な程度こそが「動きすぎてはいけない」というタイトルに現れている。
    しかし、まあ、なんとも難しい。ドゥルーズだけでもしんどいのに、ヒュームやらスピノザやらベルグソンやら、テキストの引用・解釈の洪水で、いま自分が何を読んでるのかわからなくなるし、5分くらいで力尽きて眠くなる。たかだか「アンチ・オイディプス」と「千のプラトー」読みましたくらいでは歯が立たない。世の中にはこんな難しい本を書いたり読んだりできる人がたくさんいるんだから恐ろしい。

  • どうしてもてはやされているのかわからない1冊。

    接続せよというこれまでのドゥルーズ読解が多かったのにたいして、切断も大事ということを言い、中途半端を掲げる。
    ノリつつシラけ、シラけつつノる、という浅田彰の
    『構造と力』における主張を拡大したものと見ることができるが。。。

    中庸といったところで、何がじゃあ指標になるのかという点でぼかしているとすれば、それはそれまでのポモと変わらない。
    精神分析経由の概念で欲望と言うのであろうが。

    あとは、ニーチェと結婚概念の章において、クィアこそが一般で、そのあとにヘテロが特殊的に構築されたにすぎない、というのは、我田引水だろう。
    特殊の一般化が行われていると言わざるを得ない。

    著者は「一般」というものを、道徳的抑圧装置とみているので、「一般」という事柄の内実や価値を問うことができない。多くの人にとってどうしてそれが意味をもつにいたっているのか、という内実の一般的感覚が欠如しているかぎり、クィアであるところの救われるべき自分が抑圧されていると信じているかぎり、
    この「一般」つまり、多くの人にとってという水準は理解することができない。
    もちろん、惰性的に残っている一般もあるだろうが、
    多くの人にとって有意味とみなされているからこそ残存する、「一般」という感覚を手放してはならない。

    同一性批判が基調のポストモダンにあって、
    差異性を強調することが最重要であることからすると、
    このテクストは、ポモから寵愛を受けるだろうが、
    同一性の意味を、一般の意味を受け取り損ねてしまう。

    そのままでは、
    クィアであることが正義である
    という主張を導いてしまう。

  • 何とか読み終えました。
    難しかったのでレビューなんて書けるわけもなく。理解できていないのにすすめるのもおかしな話ですが、タイトルが何か気になるな、と思った方には読んでみてほしいです。

    ただ分からないなりに読み進めているとたまに「あ、なんか分かる」っていうところもあって、その感覚は久しく味わっていなかったものでした。本棚には自分が読んだ本だけでなく読めるようになりたいと思う本、将来ありたい姿を現すような本を並べなさいというようなことを岡田斗司夫さんがおっしゃっていましたが、まさにこれはそんな本だなと。分かりやすい本ばっかり選ぶのもよくない、たまにはこういう自分の知らない分野の本を手に取ってみようと思いました。

    …という自分の読書習慣に関する記述でしたw

  • 哲学

  • 私たちはデフォルト設定において狂っている。その上で、共に生活できるために、様々なしかたで関係の調整=理性化をする必要がある。しかし先行するのは、狂いの多様性なのである。 p47

    けれども、際限なくめちゃくちゃになれというわけではない。重要なのは、ドゥルーズ&ガタリが「慎重さ」を求めていることである。健康化された分裂症という準-案て安定状態に住まうには、身体がどこかに持っていかれる感じをサーフィンしながら、深すぎる狂気、さらに死との際において、それでも生き延びなければならない。快活なスキゾ・キッズとして跳梁するためには、CsOを暴走させすぎないやりくりが、できなければならない。やりすぎてはいけないのである。 p49

    ドゥルーズにとって動物と呼ばれる者は、環世界の外部に晒されて待ち伏せする者のことであったからだ。 p343


    【目次】
    序 切断論
    1.生成変化の原理
    2.関係の外在性 ―ドゥルーズのヒューム主義
    3.存在論的ファシズム
    4.『ニーチェと哲学』における<結婚存在論>の脱構築
    5.個体化の要請 ―『差異と反復』における分離の問題
    6.表面、深層、尿道 ―『意味の論理学』における器官なき身体の位置
    7.ルイス・ウルフソンの半端さ
    8.形態と否認 ―『感覚の論理』から『マゾッホ紹介』へ
    9.動物への生成変化
    エピローグ 海辺の弁護士

  • 巡り巡って、ようやく読了。
    一章読むごとに、調べ物をしたり別の記事や本にあたったり(休んだり、)していて、すごく時間をかけてしまった。

    ミルプラトーほかドゥルーズ のあらゆるテキストに出てくるワードが、段階によって、思想の変遷に注意しながら読み解かれていて、引用も思考の道具として生かされていてよいです。
    マイナー性の哲学で、多孔性、始まりも終わりもない中間地点、此性、知覚しえぬものになること、などなど魅惑的な発想を、「すべて」に陥らせないために、こんなに刺激を与えてくれる読解は他にないのではないでしょうか。
    「中途半端」という言葉で哲学しているところが、とても面白い。

    速度を変えながら柔軟に伸縮する、著者の思考と感性を必死に辿ることが楽しく、
    味わい深い野心と独創性あるつっこみに、読んでいて嬉しくなる!

    何かを書くとき、読むとき、そこに書き込まれている「性」に、もっと意識的でありたいと思わせられました。大学時代に魅了されたミルプラトーを、私はこんな風に読めていなかったと、始終、自分をバラしながら読みました。

    次回は一度さらっと通読してみたい。
    そして、何度でも読み直さなくては。

  • 自分なりに理解できたのは序論だけ。あまりに硬質な文章に途中で辟易してあとがきを読んだところ、元々が博士論文だったとのこと。
    とても素人が読める代物ではないという個人的な感想である。丸山真男の「タコツボ」の比喩を思い出した。こういう研究が日本の人文学にどのように資するのかは門外漢には想像もできない。
    だが、文庫化もされているということは、ある程度は哲学の専門知識もない人間が読んでも何かしら示唆を受けることはあると考えてのことなのであろう。ただ、個人的には他にも読む本がたくさんあるので、もうこういう本には手を出さないであろう。

  •  情報はこの世にあふれかえっている。わたしは疲れていたので腕を伸ばせば届いたはずのあっちの情報をつかみ損ね、こっちの情報を得て、わたしのなかに接続し、そして有意味をみた。疲れていなければつかんだはずのあっちの情報が気になるなら気づくべきだ、わたしは有限であると。わたしの有意味は無意味なのではないかと。わたしは無意味に切断されたのだと。

    『文化的な非意味的接続の希望から出発し、その非意味的切断も必要であると但し書きを付すのがポストモダン論であった。逆に、非意味的切断の不可避さから出発し、非意味的接続を、部分的にしか可能ではないという前提のもとで試行錯誤することが、ポストポストモダンの課題である。』38頁

  • 読んだ。難しかったです。

  • 切断論と銘打たれているが「中途半端さ」の主張もある。
    メルロ=ポンティがどこかで、すべてが云々というのは神学的で、哲学は何がよくて何がよくないかの選別を行うものだというようなことを言っていたけど、それに近い主張ではないかと思う。

    「接続的」に見ると一つの出来事が「すべて」につながっていくということでメルポンの言うような神学的になってしまう。筆者はそういう見方に対して批判的で、ドゥルーズの「哲学」はそういうことを主張しているのではないでしょうということ。「すべて」のように何でもつなげてしまう考え方を批判していて、その意味では逃げればいいとか、切断すればいいとかというのはあまり適切ではない。それよりもむしろ、それぞれのものはすべて中途半端なんだから、その中途半端さを捉えましょうと。
    じゃあ、その中途半端さを人が積極的・能動的に捉えようとするとき、その人はどういう「存在」でなければならないか。その問いに対する答えが「切断」。つまり、私たちはもともとバラバラな存在で、その中で微妙につながっている。バラバラの存在が、実存においては中途半端につながって(切断されて)いる。

    こういう対立構造(すべてvs中途半端)は、ドゥルーズがよく言う「抽象的vs具体的」の対立にも重なるところだと思う。ドゥルーズは基本的にあまり人のことを否定的には言わない人だけど、否定するときに「それは抽象的だ」という文句を用いることがよくある。ドゥルーズは具体的であることにかなりこだわっていた。じゃあ具体的である具体的に何かを把握しようとするとき、同時にその何かが「全的」に接続されたものだと意識できるだろうか。おそらく無理だ。接続されているなら、それ以上どう理解を深めることができるのか。
    具体的に何かを把握しようとするなら、その何かに足りているものと足りていないものが何かをはっきりさせる(=中途半端さを明確にする)ことが必要だろう。

    だから、中途半端さを認めることは、そこにいるその人自身をそのまま理解するうえで大切なことだし、それが他者との「差異」を理解するということである。

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著者プロフィール

千葉雅也(ちば まさや)
1978年、栃木県生まれの研究者。専攻は哲学、表象文化論。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。代表作に2013年第4回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作『動きすぎてはいけない』、ベストセラーになった『勉強の哲学』などがある。『アメリカ紀行』などエッセイも執筆。『新潮』2019年9月号に、初小説「デッドライン」を掲載。

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