意味がない無意味

著者 :
  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309248929

感想・レビュー・書評

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  •  P112のハッテン場を分析した文章があって、レオ・ベルサーニは、ゲイのハッテン場を【外面的な判断のみによって相手を選び、すぐさまセックスをして去っていく場所を、一般的な「社交性」にとってのゼロ地点のごとき場所として考察】しているという。
     自分を控えめにして、自分を普段より大人しく「以下」にして、クールにするのは、ファシズムへの防波堤であるとも述べている。言い過ぎやろとは思う。
     そして、この「以下」の性質は、存在することの快楽へとたぶん繋がっていて、(だって熱狂したら、存在の快楽みたいなのの味わい深さじゃなさそう。存在が消えていって一体化する感じになりそうだから)その快楽とは、諸々の事物へと向かい、そして離れるという絶え間ない動きへの誘惑性であるという。存在の快楽とは、つまりは「行って帰る」みたいなものである。小説が、異世界に行って、現実世界に帰るように、ハッテン場へは、クールに、日常世界なので一般客には迷惑をかけなようにして目立たず、それでいて、その人物がハッテン目的なのかどうか見抜き、好みかどうか決めて、目の合図などでお互い同意し、クールにハッテンする。そして、行為が終われば帰る。その流れは、射精に目的があるというよりは、動きそのもの、クールに動いてクールに去るのが、存在の快楽の、社交の、その原点であるという。なるほど、説得力はある。
     で、このクールさ。爆サイ見てもわかるが、いわゆる「冷笑系」とされる人々の感覚にも近い。というのも、冷笑系を批判するフェミニズムも、右派も、やはり熱狂と運動と、「こんな(韓国や男性による)ひどいことがあったー!」というハッシュタグを使った暴走と情報拡散にある。その反対に冷笑系は、粘り強く、徐々に相手を追い詰めていく。冷笑系運動家として、もっとも今話題をさらっているのは暇空だろう。そして、暇空が立ち向かっているのは、どう考えても権力者のなかの権力者である。究極の反体制のようなことをしているわけだ。もう一つあるのは、大学教授やフリーライターなどが、絶対にこの人物を認めたくないという欲望がどこから来るのかを自己分析しないといけないということだ。自分たちができなかったことを、暇空はどうやって成し遂げているのか? その分析なしには、今後も、政府にやられっぱなしではあろう。少なくとも、あの冷笑は、ファシズムへの抵抗になる。それは、右からの、左からの、フェミからの、もしくはホモソからのファシズムへの抵抗として、「冷笑家」は実によく「熱く戦える」こと、様々な党派の政治家(維新も自民も)を動かせるということを証明しているように思う。桜井智恵子は新自由主義への抵抗として「新自由主義経済や『我々』として巻きこんでくる社会をこれ以上支えない」ということを述べている(福音と世界 2023年2月号)が、それを実際に行えているのは、生き残りをかけて頑張る大学から金貰っている桜井でも、新自由主義批判という新自由主義にがっつりただ乗りするフリーライターでもなく、暇空らこと冷笑する人々の熱い戦いだ。人間を1つにまとめたり、運動に動員したり、わけわからん税金もらったりしている思想や権力への抵抗者は、皮肉にも桜井智恵子が最も嫌う人間によって為されているように思われる。(ただし、暇空は左右ではなく、個人で巨大な利権と戦う狂人という認識はブレてはいけないので、間違っても、人格的にも推奨されるべき人物として捉えてはならず、狂人が成し遂げたインパクトの範囲がいったいどれほどの波及を、イーロン以後の他の左派運動と比較して、及ぼしたのかを考えるべきだ)
     さて、本著の「意味のない無意味」だ。我々は有限な意味しか意味がわからないわけで、意味がある意味で生きている。でも、目の前のトマトは、無限に色んな情報を持っているので逆に意味がわからない。つまりは、無意味。「意味がある無意味」であり、トマトは突き詰めて考えれば謎の何かであると言える。では、意味のない無意味とは何か。それは、トマトの意味の増殖を止めるものである。意味のある無意味は、もっと何かを言いたくされるもの。意味のない無意味は、絶句させるものである。排水口の蓋になるものである。そして、著者はその意味がない無意味として<身体>について論じる。<身体>は即自的無意味である。身体は、無限の多義性を減算し、意味が有限化される。人間の身体が、この世の中の無限の意味を絞り込んだりすることそのものは、意味があるのかといえば、別に誰かに意味づけて決まるものでもないし、よくわからない。ずっと考え続けることで意味を追い続けるのとは異なり、身体を動かしたら結果はすぐに出る。無意味=意味にとらわれていつまでもなにもできないから脱出できることが身体だ。かつそれはどうしてですか? 身体がどうなって、どうしてこうしてですか? と問い詰めていっても、最終的には、「それをそうしたから」として言うしかない。陸上部に「なんで走ってるんですか」と言っても、「いや、走ってるから」と返すだろう。意味もないし、無意味である返答だが、不思議と納得(絶句)できるものだ。ハイキューでも、バレーなんて所詮部活だろ、という意味づけする男月島が、バレーの「意味のない無意味」に気付き、部活を超えて、点を取る面白さに気付く名場面がある。あの月島に対して、意味づけするというよりは、月島そのものは「意味のない無意味という生き生きとしたもの」を表現している。
    【相対主義を超えるとは、解釈の増殖を止めることだ。無限の多義性を止めることだ。<意味がある無意味>の消去だ】(P31)と著者は主張する。否定神学システムが<意味がある無意味>であり、<意味がない無意味>は「郵便的脱構築」である。
     さて本著において最も分かりやすく、それでいて良い論文はフランシスベーコンの論文だ。これは良い。
     小林秀雄は「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」ことを宣長などを通して哲学していたが、千葉はベーコンを通して、その作品は多義化を遮断し、<文字通りそれでしかないこと>から<文字通りそれでしかないこと>への移行があることを述べている。思考を停止する。しかもそれは多様で貧しく思考停止する。しかし、「豊かである」とは誰かによって「規定」されるものなので、「貧しい」くらいで丁度いいのだろう。ベーコンのあのおどろおどろしい絵にたいして、<文字通りそれでしかないこと>として興奮できることが、人間らしさであり、大事であって、ベーコンを見て、ベーコンはフェミニストだ/ホモソだと述べてどうすんの? というむかつきが著者から伝わってくるように思うが、たぶんこれは私自身を語っているだけなので、外れているかも知れない。後の論考は森村泰昌の「鼻」について述べたものがよかった。森村の「鼻」は、どんな変態をしてみても、森村を森村にするものである。そして、森村の「鼻」は森村を変態にする「こだわりの点」になるし、かつ、「こいつ森村やん。ただのコスプレやん」とバレる「弱点」でもある。それは森村の写真を楽しめるヒントになると思う。
     他はとくに読まなくても良いと思う。

  • 詳しくはわからないが、ラカンのあらゆる意味を吸い込むような対象aは男性器(あるいはそのブラックホール的な欠如?)に象徴されるらしい。それにかわる、「盛り上がり」「もっこり」という概念は、そうしたあからさまな男女二項対立の概念をズラす役割を果たしているらしい。
    ふと思い当たったのは、本書はあらゆるまどろっこしい恋愛小説というものを否定しているということ。そういったものを取り払った後に残る、事物それ自体の他者性(ハーマン)、物理の頼りなさと確率(メイヤスー )、そうした荒涼とした世界、けれども広々とした世界が問題になっている。
    だからこそ、即物的で極薄な、意味を否定したすえの無意味ではなく、いわば「チャラさ」の無意味さが意味を持ち始める。私たちが生きている意味は究極のところ完全に無意味なのであり、にもかかわらず何らかの意味を見出そうというのはいささか野暮ったい。同時に、完全に無意味にしてしまうのも野暮ったい。その意味での極薄なのだ。神も道徳も存在しないのに、存在そのものが、存在しているだけで祝福されている、そんな印象を受け、見当違いかもしれないが深く感動。
    まだ読んでいる途中なのに、自信ありげにこう書けるのは、本書は理論を潔癖なまでに演繹しながら批評しているところ。その点、数学の証明やパズルを読んでいるような感じがあり、同時に独自の数学を創造しているようなところがあり……去年読んだスピノザの「エチカ」への憧れを感じた。

  • 意味が収束しない=無限に多義的であることを意味がある無意味とし、我々は、意味が収束しないものを有限数の意味で解釈しているにすぎない。トマトの見方は、「赤いもの」「野菜」「球に近い」などなど受け取れる意味は無限に存在しているが、一旦トマトとして理解をしている。いわば、赤い野菜をトマトとして認識させるもの、多義的な意味を無意味に切断するもの、それこそを意味がない無意味としよう。千葉はその意味がない無意味が身体であるとする。

    この意味が収束しないことはラカン、フロイトの哲学でも語られ、我々人間は物自体、現実界と彼らが呼ぶ認識できない領域があって、それに対する解釈をしているに過ぎない、その解釈が千葉のいう意味がある無意味だと。
    東やメイヤスーもそのラカン、フロイト哲学を超えるために、「郵便的脱構築」や「思弁的唯物論」を展開する。その流れに千葉も乗っているように思われる。
    「物質界」「現実」という言葉を定義し、現実界の外側を想定する、それはまさに実際の現実のものであって、東やメイヤスーはその物質性故に手紙は届かない可能性がある、つまり意味が収束してしまうことを指摘する。

    それは、目的=シニフィエからそれていく言葉それ自体=シニフィアンの横溢(おういつ){引用 言語、形態、倒錯}であり、オタクのコスプレ化、ギャル男のギャル化の極端になった認知的習慣化{引用 あなたにギャル男を愛していないとは言わせないーー倒錯の強い定義}であり、人間の複数性{引用 思弁的実在論と無解釈的なもの}である。

    言語や他人、キャラと言った「他者=身体=形態」とは接近しながらも究極的には理解しえないものとして了解することが、行為をつくる。行為もまた身体であり、無限に降り続く意味の雨を、それが跳ね返す。

  • 九州産業大学図書館 蔵書検索(OPAC)へ↓
    https://leaf.kyusan-u.ac.jp/opac/volume/1378803

  • あーん難しいので挫折

  • 武蔵野大学図書館OPACへ⇒ https://opac.musashino-u.ac.jp/detail?bbid=1000153095

  • 「勉強の哲学」に続き、2冊目の千葉雅也氏。
    一応、通読するものの、難しすぎて理解は出来ず。でも思想の飛び立ち方はやっぱり面白くて、小さな問いからふわふわと飛び立ち、びっくりするようなところに着地を決める。頭いいんだな。

  • 「意味がない無意味」でいわゆる決意表明のような主張を投げかけ,続く文章はポストポストモダンのアウトラインであったり,芸術美術批評だったり,文化に対するエッセーや書評,あるいはラーメン偏愛まであって,哲学的な味付けをしながら(つまりは少しわかりにくい表現で)いろいろ述べられている.長野まゆみ氏や稲垣足穂が好きなので,その書評が面白かった.

  • 身体ー儀礼ー他者ー言語ー分身ー性。文章ごとに伸縮し、筆致を変える、ライティングスタイルに痺れる。『思弁的実在論』も読んでいたので、哲学パートの理解に助かった。ギャル男を哲学できるのは、千葉さんくらいだろうな。

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著者プロフィール

1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。
著書に『意味がない無意味』(河出書房新社、2018)、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』(青土社、2018)他

「2019年 『談 no.115』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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