風景と記憶

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (770ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309255163

作品紹介・あらすじ

原初の森に分け入り、生と死の川をわたり、聖なる山々に登る-人間は風景をどのように見、創りあげてきたか。これまでの歴史学の手法をすべて捨て去り、大いなる小説を読む感動を与える風景論の名著、ついに刊行。

感想・レビュー・書評

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  • 記録

  • 自然というものを再思考した。

  • 日本語版の表紙に使われている絵は、カスパール・ダヴィッド・フリードリヒの「山の十字架と教会」。針葉樹林を背に、岩の上に立つ木の十字架、そしてその背後に樹影と相似形をなすようにして建つゴシック寺院。いかにもドイツ浪漫派の色濃い神韻縹渺たる名品だが、サイモン・シャーマの衒学的博覧強記の筆にかかると、この北ドイツの針葉樹林が、大西洋を間にはさんだカリフォルニア州ヨセミテ渓谷のアメリカ杉と重なって見えてくるから不思議だ。

    よく黒々と聳える深い森を指して「伽藍、聖堂のような森」というが、何気なく使われるその常套句の下には「異郷の原始林、その樹木崇拝とはっきり森を思わせるゴシック聖堂とを繋ぐ、長く豊かな重要な歴史が横たわっている。北欧の樹木信仰から『生命の木』、木の十字架といったキリスト教図像を経て、常緑の針葉樹と復活の建築をはっきり同じものと見るカスパー・ダーフィット・フリードリッヒに至る線」があることを、豊富な図版、文献資料をもとに、証明してみせる。

    リトアニアから始まりゲルマンの森、シャーウッドの森と、連想ゲームさながら、森に係わる偉人、奇人、歴史から忘れ去られてしまった者まで掘り起こしては、その逸話の中に埋もれている記憶の古層を手繰り寄せる。証拠品のように持ち出される絵画もフリードリヒやターナーのようなよく知られた名作ばかりではない。古拙な木版画から古い写真まで、よくも探し集めたと感心させられる、そうした絵や写真を眺めながら、作者の話を聞いていくと、いつの間にかそこに浮かび上がるのは紛れもない一本の線である。

    森の中に八百万の神を見る多神教の民であるわれわれ日本人とはちがい、西洋では文化と自然は一が立てば他は立たずという関係にある、というのが前提だ。このままでいけば、多くの自然が失われていくであろう今、文化と自然が縒り合わさった紐帯の力を示すことによって、「ひとつのものを見る見方を、われわれが既に持っていながらどういうわけかそれと認められず、それとして賞味することもできないでいるものをいかにして再発見できるかを示そう」というのが、この書が書かれた動機である。

    森だけではない。2部では水、3部では岩山を採り上げ、「日常的な目線から遙か下に掘り下げていって、表面の下に広がる神話と記憶の鉱脈を再び掘り起こす」という方法論によって、ヨーロッパの国々から新大陸アメリカまで、縦横無尽に「神話と記憶の鉱脈」探索の旅に出る。ウォルター・ローリー卿の悲運のエルドラド探索行や、ラモン・ド・カルボニエールという稀代の山師の成り上がり物語といった、綺人、夢想の数々が惜しげもなく開陳される椀飯振舞い。百科全書や博物学的知識に目がない向きには垂涎の的という代物である。

    風景というのは自分の外にあるのではない。自分の中にある記憶をもとに外に投影されたものをわれわれが風景と再認しているに過ぎない。となれば、その記憶の元になったものは何か。例えば、パリはフォンテーヌ・ブローの森を歩くロマンティックな散策の喜びを発明したのはクロード・フランソワ・ドゥヌクール。兵役で傷めた足を引きずりながら物盗りの出没する物騒な森を歩いては、特徴のある木や洞窟に名を付け、矢印で道を示し、幾つもの散策路を拵えた。

    こうした奇癖奇行の人々があって風景の記憶が伝播する。彼らはなぜ、生涯を賭け、余人には計りがたい情熱を持って風景の記憶の守護者たらんとしたのだろうか。作者は、「彼らが情熱的になるのは、それらが時代の生のうつろさを癒してくれるものなのだと観じていたればこそであった」という。振り返ってみれば、現代のわれわれの関心の的になるものは、誰の手になるものか。「帝国が、国家が、自由が、企業が、独裁が―その支配的概念に何か自然の形式を与えようとして地誌を召喚、呪呼してきた」ものではなかったか。

    であればこそ、作者は歴史の闇の中に埋もれながらもぐらのように風景の記憶の鉱脈を掘り進んできた数多の先達を言祝がずにはいられない。声高に環境保全を言い立てるのもいいだろう。それもひとつのやり方だ。だが、風景の過去の伝統を知ることは、未来に向けての知恵を我がものとすることではないか。「美学史」を論じたものである。しかも大著。なのに、読後心に温かなものが宿る。二段組み738頁という大冊。読むのに覚悟はいるが、ペースをつかめば、あとはぐいぐいと読んでいける。

  • 風景研究の必読書でありながら、まずその価格に買い惜しみし、ようやくAmazonの中古で少し安く購入しても、その厚さに読み怖じした。会社での昼休みは、一人で落ち着いて何か作業をするのにもってこいの環境だが、論文執筆時はいろいろとやることが多い。家での読書は歯磨きなどのちょっとした時間の積み重ねなので、本書のような厚さだとかなり厳しい。ということで、論文執筆が落ち着いた頃に会社に持ち込んで、昼休みに読み進めていた。それでも、読み終わるまでに3ヶ月弱を費やしてしまった。とりあえず、目次を示しておこう。

    序論
    第1部 森
     プロローグ:迂回
     1章 リトアニアのバイソンの地にて
     2章 林道:森を抜ける道
     3章 緑林の自由
     4章 緑の十字架
    第2部 水
     5章 意識の流れ
     6章 血また流れる
    第3部 岩山
     7章 ディノクラテスとシャーマン:高さ、至福、そして崇「高」
     8章 垂直の帝国、脳髄の深淵
    第4部 森と水と岩山
     9章 再びのアルカディア

    本当は目次には節もついています。それも凝っていて、1章は3節、2章は4節、3章は5節、4章以降は6節で統一といった具合。やはり長文による歴史学のアラン・コルバンの目次立てと似ていますね。しかし、訳者解説で高山氏も書いているように、歴史記述のあり方はコルバンのようなアナール派とはちょっと違いますね。この手の本によくあるように、本書は一次資料に基づいたものというよりは大量な歴史学の成果を利用して、歴史物語を紡ぐといったスタイル。その物語の語り口がまさに小説のように滑らかで、時折著者自らの経験、あるいは家系を刷り込ませながら、遠い過去の出来事でもあたかも著者がその目で見たような臨場感で語られる。
    そして歴史書でありながら、非常に地理的な感覚も有しているのが本書の特徴である。私は現在、景観論と場所論を同時並行的に執筆しているが、本書は当然景観論に利用するために読んだわけだが、実のところは景観論では引用せずに、場所論で引用することとなった。というのも、その場所論のなかではなぜかかつての地誌学の歴史を辿ることになったのだが、大衆的な地誌所に関する記述が本書には豊富に含まれているのだ。私の文献調査では、ルネサンス期の地誌学は英国が中心なのだが、本書ではドイツの事例が詳しく論じられている。
    本書の中の地理的な要素は地誌学に関するものに限られない。第1部のテーマは森だが、イングランドの話からドイツの話、そして米国の話へと移行する。それは単なる地域史ということではなく、それぞれの地域で郷土愛やナショナリズム的感情と関わり合い、それぞれの地域の森の特徴と森に対して抱かれる理想とが異なってくる。同じテーマでさまざまな地域が取り上げられると同時に、さまざまな時代も縦横無尽に行き来される。当然ドイツでは19世紀の風景画家フリードリヒも登場するし、現代画家のキーファーも登場する。
    森とか山とかは風景論で欠かせないテーマだが、本書は水というテーマにも相当のページ数を割いていて面白い。やはり本書の事例は欧米が中心なのだが、自然を改変する人間の姿というのがどのテーマでも登場する。公園にある噴水などは現代ではかなり時代錯誤的な印象があるが、現代では電力を使って可能な水の人工的な操作は当然、電気が発明される以前から権力者の命によって技術者たちが取り組んだテーマである。
    岩山の第3部の冒頭の事例は米国にある、あの有名な4人の大統領の肖像が刻み込まれた崖の話だ。なんでも、4人の男性の隣に、スーザン・B・アンソニーという女性の肖像を掘り込んでもらうよう運動していたローズ・アーノルド・パウエルという女性のことが詳しく語られている。アンソニー女史とは公民権運動の指導者である。
    本書が言及する歴史書の類は当然私の知らないものばかりだが、言及される文献のなかには私の知っている地理学文献も少なくない。ということは相当広い領域の文献群によって、本書は成り立っているのだろう。訳者解説を読んでも、あの高山氏がいかに本書の翻訳に苦労したのか、そしてその作業の達成感を知ることができる。この本を自分の研究にどう活かすかということはともかく、読書の快楽を深く味わうことのできる作品であることは間違いない。
    ちなみに,本書のタイトル,「風景と記憶」というのは,決して本書のテーマの一つが記憶だということではない。もちろん,裏のテーマという意味ではそうなのだが,記憶は表立って論じられるわけではない。私の理解では,本書における風景とは,高山氏の言葉が帯にも引用されているように,「記憶の最高の喩としての風景」というように,かなり広義に用いられている。風景とは自然物に対する人間のかかわり合いのことであり,そのあり方は歴史とともに蓄積される。つまり,それは記憶となってその時代時代の人々の自然に対する態度を決定づけるというわけだ。

  • 人類は「木」や「土」をどのように表現してきたか。

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