- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309273143
作品紹介・あらすじ
社会に対して芸術のできる"働き"とは何か?現代演劇の旗手、チェルフィッチュの岡田利規が書き下ろす、演劇の根源的な幹を抱きながら、新しい場所に辿り着くための方法。
感想・レビュー・書評
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取っ掛かりがあればそれをなんで?って追求していくことの多さたるや。ここまで考えて作っているなんてとても途方も無い気がした。しかもそれっていうのは観客が気づく可能性がとても薄いし、わかってもその場限りの肯定くらいで終わる。まあでも大抵作り手の考えなんてのは観客にダイレクトに伝わることはなくて、むしろあるなんて暴力的で良くないか。何かを表現したいって欲求よりも単に面白いからっていうような感じになっていくのかも。歳を重ねる内or評価されている演出家は。
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近年読んだ演劇論の中で最高のもの
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遡ることについて、考える。
この本の持ついちばん大きな仕掛けのせいで(おかげで)、いろいろなことを考えた(もしくは混乱しつつ考えなおさせられた)。しょうじき、あと1回は読まねばならないな、と思っている。できれば、チェルフィッチュの演劇をなにか観たあとで。
ぼくはチェルフィッチュについてとても熱心な観客、とまでではいかないが、とても気になっている人間、くらいの位置にはいると思う。生で観たのは『現在地』のみ、DVDで『三月の5日間』を観た。著者の本、文章はわりと読んでいるはず。
たまたま最新作である『現在地』と初期の作品であり代表作であるといえる『三月の5日間』を観ているので、煽ったような言い方をすれば「その間にいったい何があったのか」知りたいと思っていたぼくにはちょうど良いタイミングでの本だった。
そして、最初に書いたように、その体裁にはいろいろと考えさせられた。遡行。基本的に著者は現在に立って、一番近い過去から一番遠い過去に向けて遡っていくのである。その理由は最初に宣言されているのだけれど、こちらとしては、ついいつもの癖で、「生い立ちからの成長物語」のような気分で読んでしまう。そして時々気づく。違う、と。でも違わないような気もする、とも。
今の自分の視点ではじめから順番に語れば、「あのころの自分はあんな恥ずかしいことを言っていたけれど、今は違う。その過去を乗り越えて私は成長してきているのだ。もうずっと右肩上がりなのだ」という語りを作り出しやすい。というより、意識せずにそういう方向に偏っていってしまうのでは、と思う。それで、ぼくはそんな気分でこの本を読んでしまっているから変なことになる。過去のほうがよいことになってしまう。で、違う。と思う。と同時に違わないな、とも思う。
そう思う理由のひとつは、著者がおおもとでは変わっていないということと(よい意味でね)、その瞬間その瞬間くだしてきた決断に、(そのおおもとの部分に対して正直だという意味で)筋が通っていたからだ、と思う。過去を上書きすることによって、その集積でより高いところに手が届く、というよりも、目指しているところはぼんやりとだがだいたいわかっていて、その場所がどういうところなのか、アプローチの方法を変えることによって、多面体の別の一面に光が当たり、少しずつわかっていくこと、という方が表現として正しいような気がするのだ(もちろん、過去の経験がなければ別のアプローチ方法を見つけることができなかったという感覚も著者は捨ててはいない。そういう意味ではものすごくおおらかなひとに「成長している」のだなと読んでて思ったりもしたが)。
で、別の話になるが(なるのかな、ならないか)、文章の構成には大いに混乱させられた。これもよい意味で。さきほど現在に立って一番近い過去から遠い過去へとたどっていく形をとっている、と書いたが、それを全編にわたって行うことなどできるわけはなく(だってそうすると本当に読めなくなるはず)、章立てや段落ごとに、小さく小さく過去を仕切りなおすのである。そのまとまりの並び順を普通とは逆にするということである。だから、全体としては近い過去から遠い過去へと向かっているけれど、細部は、過去の各エピソード自体は遠い過去から近い過去へと向かっている。そしてその合間合間に「過去の著者が過去に立ってそれよりも過去のことや、それから未来のこと(両方とも現在の著者やぼくたちは知っていること)」を語る文章が挿入される。もう大混乱である。著者が何を乗り越え何を得たのか、何が目的で何が果たされなかったのか、何が悔やまれているのか。普通の回顧録のような読み方をしていたために、そうなってしまったのだが。
ただ、そのお陰で、その中にあるはずの、揺らがないものについて、ぼくはなんとなくだが、あるのだな、と思ったのである。さきほどの話につなげるとすれば、おそらく著者はおおもとでは変わっていないのでは、ということだろうか。これもまた無理矢理なつなげ方になるが、ある頃からさかんに言われだした「以前/以後」の切断線の引き方について、著者が疑問を投げかけているのでは(とおおげさな推測を許されるのならば)思ったのである。そんなものは、あるが、あるのはあるが、それがすべてではないだろう、と。
何にも見返さないまま、だらだら書いてしまった。今日はこのくらいにしといてやろう。 -
筆者の舞台は一度も観たことがない。彼の小説を読んで面白く、タイトルは忘れたが文庫化されたものと、文芸誌に載っていた『ゾウガメのソニックライフ』と、なんだっけ、アメリカのカンパニーかどこかとコラボした自伝的な戯曲を読んだくらい。けれども今のところハズレがないからいずれ舞台を観てみたいと思っていたら本書が刊行されて即購入。
いわば創作日記みたいな体裁になっている。
とても刺激的だった。岡田利規への入り口が小説からだったせいもあり、彼は音楽や身体操作(演技)や美術や、さまざまなジャンルを意識しながら創作しているということが遅ればせに改めてわかった。
小説というジャンルを過小評価するわけではないけれども、彼の場合、作品を小説化するということは、あまりに多くの物を斬り捨てるのと同義な印象を受ける。その小説が大江健三郎賞を受賞したというのはちょっと皮肉。