文字移植 (河出文庫 た 15-1 BUNGEI Collection)

著者 :
  • 河出書房新社
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本棚登録 : 139
感想 : 17
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  • Amazon.co.jp ・本 (152ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309405865

感想・レビュー・書評

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  • 長編を読んでいてちょっと疲れて進まなくなってきたので気分転換も兼ねて短いものを間に挟もうとこの本を手にとった。短いながらも骨のある作品である。私も仕事で翻訳を行ったことがあるが、翻訳をするにあたっては
    ①原文でチョイスされている単語に対する忠実さ
    ②読み手にとってスムーズに理解できる言葉への置き換え
    これらの二者択一を余儀なくされる局面がある。読み手としては当然②が好ましいと感じるものだが、翻訳者の立場だと原文でその言葉が選ばれたことの含みを蔑ろにしたくない気持ちがある。やすやすと②を選ぶことには思いのほか勇気がいる。
    この作品ではひたすら逐語訳が続き、これが読み手にとっては読みづらいものなのだが、ただ、ここにはスムーズな訳文にした際に漏れ落ちる部分があることも事実なのだ。

  • 登録忘れてたののまとめて登録キャンペーンの一環です。

    つうかこれで出てくるアマゾンの書影に帯も写ってて、ええこれ「J分文学」て書いてますねえ。懐かしいですねえ。多和田さんて当時そういう「くくり」だったのですかね。最近になってがつんときたぼくは知りませんでした。ちょっとちゃうんちゃうかと思いますが、まあいいでしょう。

    移植と翻訳の違いについて考える。

    考えたってそうそう答えの出る問いではありませんけどね。
    しかし逐語訳て!やっちゃいけないってなってることをうまいこと折り合いつけて文章のなかに入れこんでしまっているこの力技、嫌いではありません。むしろ好きです。

    地の文と(主人公が翻訳者として仕事で訳した結果としての?)逐語訳が並ぶ様子は、みていて強烈な違和感を頭に叩き込まれます。逐語訳が違和感でしかないのは当たり前の感覚かもしれませんが、なぜか地の文についても違和感を抱くようになってしまうのはなぜなんでしょうか。なんというか、普通の文章なのに、なにかがちょっと過剰なのではないのか、と思ってしまうのですね。言い過ぎじゃね?とか盛ってね?ということですね。もしかしたら逐語訳がいちばん元の文章の意味を忠実に訳しているのではないのか、とすら錯覚してしまうほどです。それを意識的にやっているであろうこのひとの文章、うーん、やっぱりすごいです。

  • ‘[・・・]わたしは本当にそう[若い女性はあまりきれいではないと]思っていた。若い女性で生き生きとした人を見ることは珍しく大抵はまるで<いけにえ>のように辛そうに見える。あおざめた顔をして少し大きすぎる飾りを体のどこかにぶらさげていたり少し濃すぎる口紅をある日唐突に塗って来たりして他人の残酷な心を刺激する。肌が冷たそうで前夜泣き明かしたような隈が目の下にほんのり見えていて自分はやっぱり駄目だという引け目を見せることで他人の同情を買おうとしているように見えたり実際より無邪気に見せかけることで身を守ろうとしているらしいのが分かってしまったり。そんな無意識の仕草がわたしには美しいという感じとはほど遠い残酷な原則のように思え壮年の女性を見る度にわたしも早くあんな風になりたいと待ち遠しく思ってきた。’
    (pp. 96-97)

    別にこれ(↑)、代表的な箇所ではないんだけど。何となくここが心に残って。
    とっても興味深い作品。最後がちょっと、不消化だったけど(すっきりしない終わり方はむしろ歓迎なのだが、こういう形での不消化は私向きではないかも)。
    解説のこの(↓)部分に納得:

    ‘ベンヤミンの語る翻訳の逐語性は、たぶん翻訳の現場では到底実現されないだろう。ひとつには出版の公共性の問題がある。だが、小説ならば翻訳の逐語性を 小 説 と し て 生きることができる。主人公を翻訳者に仕立てて、意味をぶっこわすような逐語訳を書き記しつつ、翻訳それ自体をめぐる登場人物たちの運動を描くことができる。’

    ベンヤミンの「翻訳者の使命」、読まなければ。

  • 流よく分からない。でもこの作品が嫌いじゃない
    「ええ。原本が消失して翻訳しか残っていない本もあります。」
    「翻訳というのはそれ自体がひとつの言語のらようなものですから。何かバラバラと小石が降ってくるような感じがするんで分かるんです。」

  • これは翻訳についての物語であるとともに
    男性ではない女性についての物語である。

    もしくは、距離についてであり、渡ることについてである。

    島に行って翻訳の仕事をする主人公は
    優雅な身の上と言っても差し支えはない。
    ないけれども、とても憂鬱である。

    翻訳がうまく進まないし、
    嫌な感じのするバナナ園は近づいてくるような気がするし。
    マジックリアリズムのような空気を漂わせながらも、
    気配だけでそんなことは何も起きない。
    それには翻訳では足りないのである。彼らの秘蹟には届かない。

    本書のタイトルは初出時には「アルファベットの傷口」ということであり、
    「文字移植」と聞くよりいくらか生々しく感じる。
    「移植」は翻訳、あちらからこちらへ、ということについてを示唆するが
    「傷口」には境界の侵犯、そして個人的なもの、が喚起されるだろう。

    傷と、それに伴う痛みは常に個人的なものである。
    いかに翻訳してもあなたのものになることはない。バナナ園はプランテーションの歴史を持っていて
    直接的に現れないもののここにも傷ついたものがおり、
    当初はそこに連帯の意図を持って書いていたと思うけれど、そのような着地にはならなかったことを
    僕は彼女が誠実に書いたからこそだと思う。

    ところで、本編はとても良いのですが、
    解説がまったくフェミニズムの文脈に触れないのでびっくりした。
    まぁ、わからなさの方が本書には大事かもしれないけども。


    >>
    <ああドラゴン退治の伝説ですが。でもどうしてそんな話をわざわざ選んだんですか。まあ普遍的ではありますよね。>と編集者はあの日の電話の声の感じではあまり興味をもっていないようだった。<聖ゲオルグが登場してドラゴンを殺してお姫様を助けるわけでしょう。まあその英雄が実は臆病者だとか実はドラゴンが不在だとか現代風にしてあるんでしょうが。あるいは戦うのはお姫様だとか。そういう話はありそうですね。こう言うのも何ですがフェミニズムの時代ですかららねえ。>わたしはまるで侮辱でも受けたようにあわてて反駁した。<いいえ。そんなこと絶対にありません。本当に聖ゲオルグが出てきてドラゴンと戦うんですよ。お姫様だって現代風に書き換えてなんかありません。わたしそういう風に書き替えるだけで簡単に解決してしまうのは嫌いですから。だからこそわたしは書き替えることでなくて翻訳することを職業に選んだんじゃないですか。>(p.40-41)
    <<

    長い引用になってしまったが、思いの外核心の部分だと思う。これは現在位置を明確に示している。
    そして、このお話はここからの逃走であり、それが闘争である。

    余計なお世話に助けられることもあるし、いらない善意もある、
    そんなにいちいちかまってられやしない、ってのは女性に多くあるにせよ、人間にはあることだ。
    だから、やいやい言われても走れば、置いてけぼりにしていけばいい。
    最終的にはそんなシンプルな力強さがある。
    なんだか今改めて眺めるとスキゾキッズのラストを思い出すような気がする。

  • ドイツ語から日本語へ。火山島を訪れた翻訳者の“わたし”による使命と欲望と不安。仮に読みたい海外小説が逐語訳だと意味不明なので、適度に意訳された文章のほうが好ましい。でも行き過ぎると原語の魅力は犠牲になる。翻訳者は母語と外国語の裂け目で、追い詰められながら奇跡のバランスを取ろうとする。そんな内情が表現された小説。読み心地は良かったが、理解できたかと言われると悩ましい。難解な世界であった。

  • なかなか手に入らない本であるので、他の本の一部で読んだ。小説を書くという手段で言葉を出していくという作業とストーリーを組み合わせたものである。

  •  思ったより違和感なく読めた。もっとものすごい世界が広がっているのかと。
     解説を読むと、翻訳家の目線と言われれば、そうか、在るものを別の角度から見ているだけだから、そこまで奇妙なことにもならないのね。奇妙な話を書きたいからではなく、見えたものが奇妙に見えることもあるということかと納得する。

  • 難解でした。理解しようと途中まで四苦八苦読み進めましたが、言葉が織りなすイマジネーションに身をやつすことに切り替えました。不安定で圧迫される行き止まりの臨場感は三半器官を狂わす大変心地悪いものではあるのですが私は好きなんです。この不可解な文字という異物が。

  • カナリア諸島の島の1つが物語の舞台。そこの人々が話す言葉はスペイン語だ。そこで<わたし>は、ドイツ語で書かれた"Der Wundepunkt im Alphabet"を日本語に翻訳している。テーマの1つは言語及び思考であり、互いの言語構造が持つ齟齬である。<わたし>は締切の切迫感に追われ、また名指すことのできない諸々の状況や、訳のわからない人物たちとの遭遇に悩まされる。なにしろ、ドラゴン退治で名高い聖ゲオルクまでが登場する。しかも、彼は<わたし>に味方してくれないのだ。まさに多和田葉子の世界がここにある。

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著者プロフィール

1960年東京都生まれ。小説家、詩人、戯曲家。1982年よりドイツ在住。日本語とドイツ語で作品を発表。91年『かかとを失くして』で「群像新人文学賞」、93年『犬婿入り』で「芥川賞」を受賞する。ドイツでゲーテ・メダルや、日本人初となるクライスト賞を受賞する。主な著書に、『容疑者の夜行列車』『雪の練習生』『献灯使』『地球にちりばめられて』『星に仄めかされて』等がある。

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