城 夢想と現実のモニュメント―渋澤龍彦コレクション   河出文庫 (河出文庫 し 1-38 澁澤龍彦コレクション)

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  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309406428

感想・レビュー・書評

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  • 前半は安土桃山城で、後半がサドのラコスト城。澁澤さんが信長好きとは意外でした。

    会津城/千代田城/多宝塔/ストゥーパ/ラマ塔/天壇の祈年殿/サン・タンジェロ城/偶櫓/望楼/鉄砲狭間/天守閣/姫路城/本丸/菱の門/「い」の門「ろ」の門「は」の門/石庭/安土城/さざえ堂/ヴァチカン宮殿/シャンポール城/螺旋階段/乾隆帝の円命園/楼門/三重塔/地球儀/ばさら/蘭奢待/髑髏盃/馬揃/甲鉄船/岐阜城/安土城天守/盆山/松江城/島原城/名古屋城/小田原城/金沢城/山形城/新宮城/平戸城/カステル・デル・モンテ/ブラッチャーノ城/アングイラーラ/彦根城/天秤櫓/兜について

    カステロフィリア/ヴァンセンヌ/バスティーユ/城砦監獄/シリング城/ラコストの城/レジデンツ宮/リンダーホフ/ノイシュヴァンシュタイン/ヘレンキームゼー/ホーエンシュヴァンガウ/ベルク城/ファルケンシュタイン城/フォントヒルの八角塔/ティフォージュの城/シャントセの城/マシュクールの城/エルゼベート・バートリの城/『さかしま』の密室/ウェヌスの丘のポルノトピア/『超男性』のリュランスの城/ボルヘスの寓話の宮殿/アヴィニョンの法王宮殿/カルヴェ美術館/サン=トロフィーム僧院/タラスクについて/サディズムの実験室/機械仕掛の肘掛椅子/サドと頭蓋骨

    姫路城/五層の天守閣/天守櫓/猪苗代城/刑部大神の祠/巨人ミンスキーの城/オトラント城/ゴシック・ロマンスの城/カルパティアの城/ピラネージュの牢獄/ヴァンセンヌ/バスティーユ/スフィンクス/ピラミッド/前方後円墳/リパールの象の記念塔/法成寺/安土城/北山第/金閣/天鏡閣/相国寺の七重塔/五重塔/若狭神宮寺/本堂/猿の彫刻/促進型のパースペクティヴ/サン・サティロ聖堂/テアトロ・オリンピコ/スパーダ宮殿/ヴァティカン宮殿/スカラ・レジア/さざえ堂/洞窟/カステル・デル・モンテ

  • 澁澤龍彦「オブジェを求めて」の巻末に広告がのってて、気になり。最近この手のきっかけが多い。ユリイカの空中庭園特集の広告からisの失われた書物特集、開高健「パニック・裸の王様」の表紙裏から「歩く影たち」など。◆わりとざっくりと、澁澤龍彦が城をめぐりあるいたり、書物のなかから思い起こしたりしつつ、大好きな信長を語ったり、サド侯爵を語ったり、といった体裁の一冊。安土城をみた帰りに、あやしげなバーに入ったら、おそろしく太った女の子三人に鴨だとばかりに囲まれて、注文もしないおつまみやらサラダやらが並んで、これから茶漬けを食べにいかない?と誘われ、ほうほうの体で逃げ出してきて、「そうだよなあ。やっぱり廃墟の方がいいよ。幻の城がいちばんだよ。」と著者がつぶやくシーンはユーモラスこの上ない。◆「おそらく城とは、何よりもまず、専制君主の夢想のための場所なのだ。しかし、この場合、専制君主は必ずしも現実の専制君主である必要はあるまい、というのが私の意見である。」(p.84)著者もその掉尾につらなる、と。巻末の龍子夫人のエッセイも味わい深く。それまで出不精で旅にでたがらなかった著者が42歳で一念発起、夫人とヨーロッパ旅行へ、三島由紀夫らがお見送りに、その年の冬に三島は割腹自殺をとげ、あれは別れを告げにきていたのだと思ったり、方向音痴、時間音痴、お金音痴で、ホテルのなかで迷ったり、その国の紙幣を節目しても、こっちのお札のほうがきれいだねえ、なんて言ってて、ひとり旅はとても無理だったろう、と。

  • 新書文庫

  • 安土城址を訪ねて信長に思いを馳せたかと思えば日本と西洋の城の違いを曲線と直線で論じてみたり、マルキ・ド・サドやルドヴィヒ二世の閉ざされた城について論じたりと国や時間を越えた本。
    この人の世界は本当に美しくて偏執的だと思う。

  •  世には多種多様な「フィリア(愛好家)」が存在するもので、「カステロフィリア(城砦愛好家)」も、その中の一つである。本書『城 夢想と現実のモニュメント』の著者、澁澤龍彦氏は城に限らず、世の中のあらゆるものに好奇のまなざしを向け、様々な特徴あるカタチに惹かれる人であったが、彼にとって、「城」はとりわけ愛好するに足るモニュメントであったようである。

     本書は三部に分かれている。
    各部は大まかなテーマを保有しつつ、数多くの建築物や、その建築物に込められる思想や構造的特徴などを、ふんだんに紹介している。その為、本書の頁を繰るとそれはもう、澁澤氏の知の世界を否応なく引きずり回されるような気分に、我々はなってしまうであろう。

     第一部では、東洋と西洋における、あるいは日本文化とそれ以外の異文化における建築プランの違いから説き起こしつつ、織田信長の安土城について検証している。この建築プランの違いを、著者は特に西洋のもの、もしくは日本建築以外に見受けられるものを「円形プラン」と呼びならわしている。したがって、日本建築によく見られるものは「直線プラン」とか「直方体プラン」とでも呼べばしっくりくると思うのだが、著者の検証によると、日本建築以外のものには「円形プラン」によって建てられたものが非常に多いということなのだ。

     たとえば、イスラム建築におけるドーム(丸屋根)や、イタリア・ルネサンス期の円形を基調とした都市計画、ローマのサン・タンジェロ城など。そのほかにも色々な例が挙げられているのだが、それに比べると、日本においては「円形プラン」で築かれたものは極めて少ないらしい。無論、西洋文明が怒涛のように流入した明治期以降の建築物になら、「円形プラン」は容易に発見できるかもしれないが。

     織田信長が生きていた時代、城といえば効率的な戦闘を目的とした山城が主流であった。しかし、この稀代の美貌の武将は、安土城という絢爛豪華というも陳腐なほどの、美麗で豪壮な城を民衆の前に誇示することになる。安土の山の上に立っているので、まだ完全な平城とはいえないかもしれないが、信長のこの安土城が、後世、天守閣を持った華麗な平城が主流となっていく上での一大転換点になっていることは明らかである。「円形プラン」に慣れていた宣教師達は、初めてこの安土城を見た時、度肝を抜かれたに違いない。ルイス・フロイスが『日本史』の中で書いているが、その安土城の絶賛と観察の仕方は、日本の城をある程度見慣れている我々日本人とは、少し異なり、諸手を挙げてという感じで、かの城を評価しているのである。その美しい安土城も、建てられて三年ほどで毀(こぼ)たれてしまったから、今となっては見学することもかなわないのが残念でならない。現存していれば、ひょっとすると我々だって、宣教師達のように、その偉容に驚かされるかもしれないのだが。

     澁澤氏は、織田信長の安土城における様々な派手な演出から、彼の「ばさら」趣味についても言及している。信長の演出好き、あるいは祭好きについては、イタリア・ルネサンス期の僭主たち、もしくは室町時代の「ばさら」を競った大名たちを思わせるということである。そして何よりも織田信長は、シリア出身の古代ローマ皇帝、十四歳で即位し、そのあまりの放埓ぶりに十八歳で暗殺された、あの美少年皇帝ヘリオガバルスに似ているとされる。ヘリオガバルスの行状や為人(ひととなり)については、アントナン・アルトーが、その著書『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』の中で述べているので、これはまた別の機会に書評を書きたいと思っているが、とにかく、あらゆる秩序を破壊し、己の美的感覚に適い、権力意志を充足させる世界を構築し、最終的には己自身を神として人々に認めさせたいというような、涜聖的な行為にまでひた走りに走ったという点で、彼ら二人は酷似していると私自身も思うのである。

     第二部では、マルキ・ド・サド侯爵、狂王ルドヴィヒ二世、フランス貴族ジル・ド・レーといったカステロフィリアの紹介から始まって、主にその中のマルキ・ド・サド侯爵の城について述べられている。
    サド侯爵の城は、南仏プロヴァンスのラコストにある。ある、といっても既に廃墟になっている。澁澤氏は、サド研究を始めてから二十数年後にやっと、ラコスト訪問の機会が得られたらしく、プロヴァンス地方やスペインのロケーションが詳細に語られながら、サド侯爵の城を探訪する情景が描かれている。

     著者はこの第二部で、サド侯爵の著作『ソドム百二十日』に出てくるシリング城の中に、彼が実際住んだラコストの城の反映を見ることは出来ないだろうか、と論ずる。信長の安土城が毀損されて、その在りし日の姿が幻となっているように、サド侯爵の城もまた、廃墟となっており、その城の内部構造がどのようなものであったか、正体不明であるからだ。しかし、安土城と異なるのは、侯爵自身の著作が残されている点である。この著作に、侯爵が住んだラコスト城の内部構造なり、外観なり、城に対する思い入れなりの反映が見て取れるかもしれないと思うのは自然なことであろう。

     『ソドム百二十日』によると、シリング城には上等な家具、生活を便利にする一切の調度品がそろっていて、美しく飾り立てられた集会の間と呼ばれる所があり、そこでは、みだらな集会が開かれているとか、昼間でも薄暗く、むんむんするほど温かく、水入らずの秘め事や秘密の快楽に用いられる部屋があるとか、とにかくとんでもない事が細かく説明されているらしい。澁澤氏は、この『ソドム百二十日』におけるシリング城の内部空間に関する記述を詳細に挙げた上で、小説の世界ででもなければ、とても信じられないという人もいるだろうが、サド侯爵のラコストの城自体も、記録によれば、部屋が全四十二室(守衛と厩舎を加えれば四十四室)のあったのであり、少し手を加えれば、『ソドム百二十日』のシリング城のような快楽と愉悦の為だけに特化した部屋を作り出すことは容易であっただろうと言う。
    私はまだ『ソドム百二十日』に手を出していないのだが、いつかは読んでしまう危険性が高まってきてしまった。

     第三部は、城が持つ構造について。
    ここでは主に、城という建築物が持つ「垂直構造」に関する考察が展開されている。引き合いに出されているのは、姫路城で、その天守閣のてっぺんに祀られている「オサカベさん」をからめて論じられているのが興味深い。

     「オサカベさん」というのは、広辞苑によると「姫路城の守護神、刑部(おさかべ)大明神の正体と伝える老狐」とある。「刑部狐」もしくは「於佐賀部狐」と書くらしい。ただ「オサカベさん」については諸説あるようで、狐であるという言い伝えのほかに、築城の際に人柱として生き埋めにされた女性の霊という見解もあるのだそうだ。姫路城の下に本当に人柱が埋まっているのかどうかは、私は不勉強なため分からないのだが、女性の霊、あるいは女神とした場合は「オサカベ姫」と呼ばれるらしい。

     その「オサカベさん」が女性として登場しているらしき書物『老媼茶話(ろうおうさわ)』において、南方熊楠が注目したエピソードというのを、澁澤氏は挙げている。すなわち、姫路城城主の松平大和守義俊の児小姓(ちごごしょう)森田図書(もりたずしょ)が、朋輩と賭けをし、灯りをともしたぼんぼりを持って、天守閣に登る。そこには十二単の気高い女性が、書を読みながら端座しており、「何故ここに参ったか」と図書に聞く。図書が朋輩と賭けをしたことを告げると、「では、印を取らせる」と言って、その十二単の女性は、甲(かぶと)の錣(しころ)を彼に寄越す。図書はそれを頂いて天守閣を下りようとするが、途中で大入道が現れ、彼のぼんぼりを吹き消したので、灯りがなく困った彼は再度、天守閣に登る。すると、十二単の女性が「何故また来たか」と問うので、かくかくしかじかと火を消されてしまったことを告げると、その女性は彼のぼんぼりに火を点けて帰してくれたのだった。後日、図書が殿の御前でこの体験を語り、錣(しころ)を御覧に入れたところ、「それは我が鎧の錣である」との大和守の言葉があり、鎧櫃(よろいびつ)に納めてあるものを確認すると、錣だけがなかった。図書はその後、士(さむらい)大将となった。以上のようなエピソードである。

     ここで見て取れるのは、城における「垂直構造」の中で、日本の場合は「上昇イメージ」があるということである。図書が何度も天守の上へと登ったように、そして我々が観光などで城を見に行ったりすると、自然と上方の天守閣を見上げ、そこに登りたがるように、日本の城には「上昇」という方向性が加わっているのだ。反対に、澁澤氏はここで再度、サド伯爵の著作の中から『悪徳の栄え』を例に出し、その中に登場する巨人ミンスキーの城について語っているのだが、西洋の城には「下降イメージ」が伴っていると言う。巨人であり食人鬼であるミンスキーの、あるいはサド伯爵が描く数々の城は、地底へと伸びる階段や回廊を伝っていくことで、秘密の地下室へと到達するのである。そこは単に地中に空間があるということだけではなく、錬金術や化学(科学)実験、サバトなどが行われる一大洞窟(グロッタ)の様相を呈しているのである。西洋の古城においては、そこに住む者の権力は地下の空間に向かい、そこから発せられているといってもいいかもしれない。

     今回、ここに書いたものは、『城 夢想と現実のモニュメント』に提示されているものの、ほんの一端に過ぎない。本書は、文庫本で一八九頁とさほど厚くないのだが、その中に書かれている幾多の建造物、人名、地名、書籍名などは、あたかも散りばめられたかのようであり、我々を感性を刺激し圧倒する。

     城というモニュメントは、それを建立した権力者の夢想の場であり、権力の凝集装置である。権力者達は、城という空間に一旦凝集された己が力を、城外の世界へと改めて溢れ出させ、その外の世界を支配する。しかもその支配は、最早、城主自らがわざわざ城の外に出て采配を振ったり、戦に明け暮れしなくとも可能となる性質のものである。城そのものが、城主の権力や権威を代表し、演出し、行使するからである。

     城はいつしか城主と一体となる。城主はその城に抱かれて夢想する。天下を統一する夢を、快楽の究極を実現する夢を、己が支配によって富み栄える町々を、恐怖におののく民衆を…。そしていつしか城は、城主と、彼の夢想を呑み込み、滅んでいくのである。

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