- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309408026
作品紹介・あらすじ
ぼくは野球を知らなかった。ぼくの友だちもパパもママも先生さえも知らなかった。「野球を教わりたいんです」-"日本野球"創世の神髄が時空と国境を越えていま物語られる。一九八五年、阪神タイガースは本当に優勝したのだろうか?第一回三島由紀夫賞受賞の名作。
感想・レビュー・書評
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(2024/01/26 1.5h)
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当時の職場の先輩に「高橋源一郎が好き」と少し格好つけて話したら「あー、好きそうだね」と言われてどう受け取っていいか悩んだのを覚えている。当時読んだと思うがもう20年程が経っての再読。今の高橋源一郎よりこの頃の初期3部作の頃の高橋源一郎の方が好きだ。改めて文学ってなんなんだろう、と思わされる。
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真剣にふざけてる。しかし、タイトルが意味するものは分かる気がする。
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たぶん再読だと思うのだけれどほぼ記憶になかった。とはいえ高橋源一郎のこのテの話を記憶にしっかり留めるのは難しい。ので、初読のつもりで、でもきっと初読のときより大人になったので楽しく笑って読めました。
野球というスポーツがほぼ忘れ去られているパラレル日本。微かな記憶を語りつぐ者、その断片を頼りに野球を知ろうとする者、そしてかつて野球選手だった者たちのその後などがランダムに語られ、最終的に1985年の阪神タイガース優勝直前に選手たちが全員失踪した謎に巻き戻され収束する。
個人的には実家を出てから野球を見ることはほぼなくなり、現在の球団名や選手名などは全くもってチンプンカンプンなのだけど、この小説が書かれた頃はまだ実家にいたから、お約束のようにトラキチの関西のおっちゃんであるところの父の影響で、ランディ・バースや掛布、岡田、真弓といった名前にはなじみがあり、かろうじて理解できた。しかし作者が後書きで書いているように、野球を全く知らなくても、いやむしろ全く知らないほうが、真っ白な気持ちでこの小説を読めるんじゃないかと思う。
作中小説「テキサスガンマンズ対アングリーハングリーインディアンズ」(※ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドがバッテリーを組み、ならず者たちと野球をする。明日に向かって「撃て」ならぬ「打て」というところか)がなぜかツボにはまってゲラゲラ笑ったりしていたのだけど、優勝を前にして去って行った阪神タイガースの選手たちの気持ちを思うと、読後は寂寥感に襲われる。ざんざんふざけちらかしておきながら、読者を切なくさせる、高橋源一郎の魅力がたっぷり詰まっていた。 -
スーパーカートリオとキルケゴールが一話に同居できる珍しいお話し
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偽ルナールの野球博物誌
ライプニッツに倣いて
センチメンタル・ベースボール・ジャーニー
日本野球創世綺譚
鼻紙からの生還
愛のスタジアム
日本野球の行方
第1回三島由紀夫賞
著者:高橋源一郎(1961-、尾道市、小説家) -
最初から最後まで意味が分からない。異世界なのか、それとも未来なのか。一つだけ正しいのは、人々が知っている野球は存在していないという事だ。
全ての章に変な人が、長い言葉で野球を説明する。それはライプニッツや空想話でだ。長々と語られる言葉に、一つも意味がないのはわかる。だけどなぜか読まされてしまうのは、異質な文章力のなせる技だろう。
著者は、「素晴らしいアメリカ野球」という本に影響を受けて、この小説を書いた。その本の内容は、アメリカ野球について語りながら、その事を通じて、アメリカ文学を語るというアクロバティックなもの。現代は「素晴らしいアメリカ文学」。ということはこの小説も、現代としては「優雅で感傷的な日本文学」となる。小説ないの全ての野球という単語を、小説に変えても、いや、他の言葉に変えても成立するかもしれない。
だけど著者はこの小説で何を書きたかったのか。言葉で遊びたかっただけなのか。ポスト文学というものに詳しくないのだが、小説でしかできない芸術であり遊びだとは思った。
ほのぼのとしたタイトルとは似つかず、この小説を読んでいると、とてつもない不安に襲われた。様々な映像が(松本大洋の漫画のような)押し寄せて、それは見えざるものの恐怖ではなく、今見ているものが偽りなのではないか、壊れてしまうのではないかという恐怖だ。もしかして私の、私は、全ては野球なのか? 野球とはなんだ? 何も分からない。 -
2009年3月28日~29日。
この人の作品には常に寂しさが付きまとっていると思う。
すべてを読んだ訳ではないが、殆どの作品にそんなテイストがあったように思う。
この作品にもその寂しさはあった。
悲しみ、といってもいいのかも知れない。 -
今読んでも色あせない。
詩的な観点から日本野球を幽かにうつしだす名作。