志ん生の右手: 落語は物語を捨てられるか (河出文庫 や 19-1)
- 河出書房新社 (2007年1月6日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (357ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309408309
感想・レビュー・書評
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井上ひさしとてんぷくトリオのコントの評など興味深かった。
新劇は判らないことを判らないまま書けば受けるが、コントは具体的であるほど受ける。
非日常的な舞台設定の人物を日常に引き摺り下ろす処に面白さがあるという指摘などだ。
他にも松旭斎天一、天勝のショー的奇術芸の興亡から、アダチ龍光の語る奇術の出現の件も面白い。
更に、マルセ太郎や色川武大、園朝と春団治比較など面白い話題があったが、
一番興味深く読んだのが、タイトルにある「落語は物語を捨てられるか」だった。
落語とは、平たく言って、落語家が物語を語る芸だが、二人の演者が同じネタ(物語)を続けたら、
2度目の物語は同じお客様に受けるのか否か・・・。
そもそも今の落語は物語に頼り過ぎてやしないか、滑稽な物語の語り手に化していないか、
という考察だった。
1948年の戸坂康二氏の著書では、
落語紹介アナウンスは「次は文楽さんのはなしです」でいいのだと記されているそうだ。
本来 自由奔放、口から出まかせ、言葉を巧みに操る演者の語り口を聞かせる芸なのではないか、
志ん生が面白いのは、人名を間違えても筋が飛んでも、語り口が面白かったからだと思う。
ラジオの人気DJ然り。高田純次然り、柳沢慎吾然り、勝俣州和然り・・・。
マチャアキ、小野ヤスシなど一昔前のTVタレントや、さだまさしなどのフォーク歌手も
みなしゃべりが巧く、諧謔センスが素晴らしいですね。
ハッキリ言ってこれが出来る人にとっては、物語もギャグも飾りに過ぎないんでしょう。強い!
などと、いろいろと思いを馳せる評でした。
落語、演劇・演芸の評論家 矢野 誠一が'70~’80に真面目に書いた随筆を収録。
話題は、落語から浪曲、舞台、コントまで、著者の活動範囲全般にわたる。
出版には小沢昭一さんが一枚噛んでるようで。巻末には小三治の解説付き。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
Ⅰ
落語は物語を捨てられるか
落語の演技
落語の技術
落語の藝談
現代東京落語の展望
寄席のなかの風刺
藝一筋に生きる姿
話す藝
志ん生の右手
圓朝の時代
圓朝と春團治
龍之介と圓朝
勇と馬樂
落語とわたし
Ⅱ
食べる藝
新劇寄席(「演技」と「藝」を結んだ早野寿郎の演出)
義太夫(大袈裟な藝)
奇術藝のながれ(天一と天勝)
当たり狂言の不思議
井上ひさしのコント
翫右衛門と赤平事件
マルセ太郎の藝
水藝と舞台
日劇花の五十年
東京劇場散歩・新宿
青山通り劇場新地図
「本牧亭」の思い出
浪曲想い出話
Ⅲ
木曜日のメッセージ
あとがき
文庫版あとがき
自殺の功名(解説にかえて) 柳家小三治 -
古今亭志ん生が、落語という藝にとって、有力な武器であったはずの右手の動きを奪われてなお、まったく動ずることなく落語家として生きられたのは、「手の藝」をうわまわる、豊かな語り口と、すぐれた諧謔精神の持ち主だったからである。 (本文p91)
太宰治は最晩年のエッセイ、『如是我聞 四』を編集者に口述筆記させた。死後、この「草稿」が発見され、それは、発表原稿とほぼ一言一句も変わらぬものであった。太宰は、まず、草稿を書き、それを暗記し、ついでにそれを聴き手の前で暗誦してみせたのであった。(三浦雅士 「青春の終焉」、講談社、2001年、141-142頁)
太宰は、自身の身体を経由させることで、言葉に身体性を持たせるということをした。これにより、自分の文章が読者の身体に深く長くとどまることを切望したのである。
太宰が試みた言葉の身体性とは、落語の芸と一緒ではないだろうか。つまり、落語とは、芸者がどのようにして、言葉に身体性を持たせるかということに、本質がある。芸者それぞれの落語とは、言葉の身体性の獲得ではないだろうか。と内田樹の本を読んで思いましたとさ。 -
『志ん生と文楽の秀逸な比較論』
落語の第一人者である著者の随筆集。
昭和40年代から平成までさまざまな雑誌、
新聞に書いた随筆が丁寧にまとめられている。
なかでも、随筆「藝一筋に生きる道」は志ん生と文楽の比較論として
思わず膝を打つほどの出来映え。
精巧無比な藝であった文楽を楷書に、
天衣無縫であった志ん生を草書に例えた後、
高座で絶句した文楽は落語から一切の手を引き、
老いで高座に上がれなくなった志ん生は死ぬまで稽古を続けたという対比を鮮やかに描く。
読後、立ち並ぶふたつの高峰が胸に浮かぶ。
藝は生き様であった時代を一心に生きた両名人の
高嶺が読み手の胸に表れるのだろう。 -
久々の落語の本で、志ん生という題名に惹かれて、手に取ったが、著者があちこちに発表したコラムをまとめたもので、落語や娯楽全般についてのエッセイのようなものだった。エッセイといっても、著者も専門家であるので、かなり専門的でちょっと気軽に読み流すというものでもない。でも私は失礼してパラパラと読み飛ばしたりしてしまった。ところで「志ん生の右手」ってどういう意味だったかなあ?