都市のドラマトゥルギー (河出文庫) (河出文庫 よ 8-1)
- 河出書房新社 (2008年12月4日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (423ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309409375
作品紹介・あらすじ
盛り場を「出来事」として捉える独自の手法によって都市論の可能性を押し広げ、近年の文化研究にも影響を与え続けている新しき古典。「浅草」から「銀座」へ、「新宿」から「渋谷」へ-東京における盛り場の変遷を軸に、そこに群れ集う人々がドラマを織りなす劇場としての都市のダイナミズムを活写する。
感想・レビュー・書評
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パラパラめくったのみ。拾い読みでは面白いところもあるが。
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【エキサイティングな都市社会論】
・きっかけ
都市論の名著ということで東京史のおさらいもと思って積読状態に。
・要約
東京の盛り場の形成と変遷を、そこに集まる人々による「上演」という視点で背後にある空間形成戦略と社会構造から読み解く。
上京者のアイデンティティと未来性という軸から語る。
・感想
いわゆる衒学的なきらいはあったが、関心分野だったので知的な興奮を覚えながら一気に読める。
社会学的なアプローチとして、先人の議論の援用と膨大な資料による論証の作法は参考になる。
都市空間を舞台とし、人々を演者ととらえ、さらにメディアの視点も交えつつ、丁寧に出来事をたどっていく作業。修論がベースというから恐れ入るどころではない。
分析は70年代までだが、それから50年経っても渋谷的な空間形成の論理は大部分で生きているような気はする。
開発・供給サイドとしては基本的には未来志向である中で、未来性は曖昧さを増しているように思えるし、そういう意味でも時代を代表する象徴的な盛り場は今現在でひとつに絞れないような印象がある。
本書は上京者の集中と未来の挿入というダイナミズムの繰り返しを論じてきたが、若年層の人口集中という現象が極点を過ぎたような見方もできるかもしれない中で、別の空間形成論理というのは生じえるのだろうか。
ともあれ、東京・日本以外の都市の形成過程を考える上でもおもしろい軸になるかもしれない。 -
農村が保守的で都市が進歩的、ということはない。都市の中にも固定した生活の枠がある
以前はいかに入りやすい店を作るか、というポイントが重視されていたが、今はいかに入りにくくするかというポイントが重視されてきている。客を選別するような店のあり方へ。
都市に人々が踊らされているのか、踊る人々が都市を作るのか(例:パルコが渋谷を作ったのか、渋谷がパルコを作ったのか)
都市で「役」を「演じる」人びと(演じる、演じられる、という事の主体がどちらにあるのか、という事よりも、役と人との間の関係性、に注目する)
「遊ぶ」事は単なる往復運動から「超越する」という側面を持っている
盛り場の変化
浅草→銀座
新宿→渋谷
新宿:地方から状況してきた若い単身者が主役、出来事がそこに集う人々に共有される幻想の共同性に基づいて紡ぎ出される(触れる・群れる という身体感覚)、集団的・家郷的・場所的(浅草と新宿の共通点)
渋谷:山手・郊外に住む家庭の子ども達が主役、移動メディア(小田急・東急etc)・情報メディア(インターネットetc)の変化→距離の問題は関係なくなるという時代の変化を反映、個別的・未来的・非場所的
備忘録:
スピード、効率は工業化前には価値基準として存在しなかった?
ディズニーランドは現代の盛り場? -
新書文庫
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小難しいところも、おおかった。
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〈演じる〉ことの根底にあるのは、間身体的な相互性を超越論的な審級との相互性に媒介していく、文字通りドラマティックな運動である。p354
《あとがき》
第一に、本書は、近代的な都市化のなかでの盛り場の意味的な機制の変容を、都市に集合した人々の相互媒介的な身体性の側から捉え返すことを目指したもの。 -
貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784309409375 -
[ 内容 ]
盛り場を「出来事」として捉える独自の手法によって都市論の可能性を押し広げ、近年の文化研究にも影響を与え続けている新しき古典。
「浅草」から「銀座」へ、「新宿」から「渋谷」へ―東京における盛り場の変遷を軸に、そこに群れ集う人々がドラマを織りなす劇場としての都市のダイナミズムを活写する。
[ 目次 ]
序章 盛り場へのアプローチ
1章 盛り場研究の系譜
2章 博覧会と盛り場の明治
3章 盛り場の一九二〇年代
4章 盛り場の一九七〇年代
結章 近代化日本と盛り場の上演
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
本書は社会学者吉見俊哉の代表的著作の一つであり、近年における盛り場研究の新たな潮流を創ったものとしても知られる。本書がまとめられたことによって、それまで場所としての機能面に着目されることの多かった盛り場研究において、それを「こと」として捉える流れが生じるようになった。論理は綿密かつ重厚である。筆者はあとがきで本書についての不足点を指摘するが、それを差し引いてもこの研究の価値が減じられることはないだろう。この本が世に出た際、筆者はまだ30歳程度の若手研究者であった。現在は東京大学で副学長を務めておられるということだが、研究成果を考慮すれば、それも当然かもしれない。
予備知識が必要とされる箇所も多く、読解は決して容易ではない。難解な文章に嫌気がさすこともあった。しかし、盛り場や、そこに生きた人々について興味がある方なら、本書から得られるものは決して小さくはないだろう。 -
自分とほとんど同年代。たぶん同じ大学。
吉見さんが30歳の時に書いた、明治大正時代の浅草と銀座、戦後の新宿と渋谷の都市の変化を扱った、社会学的論文。
随分、難しい文体で書く人だなと思う。それと、都市計画のようにどうやって都市をつくっていくかという視点よりは、その都市で活動していた人たちが、どういう気持ちでその都市に集ってきているのかを外部から描写している感じだと思う。
浅草と新宿のカオスでなんとなく感じられる共同体意識、それに対して、銀座と渋谷の未来志向、新しもの好きというくくりも、納得感あり。
また、明治時代に政府が主導で行った勧業博覧会の記述も意外性があった。
だが、社会学の先生方と話てもいつも感じることだが、このような都市論、都市分析、都市文化の分析を何につなげていくのか、都市の新しさから次ぎの世の中の動きか、都市の盛り場の移り変わりから都市の活力の生み出し方か、なんにでも役立つ芽があるように思うが、社会学者自体が何を目指しているのかわからない。
分析のための分析になっていないか。そこにいつもなんとなく違和感が残る。