- Amazon.co.jp ・本 (307ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309411118
作品紹介・あらすじ
著者の伝説的なデビュー作が港千尋の写真とともに22年をへて復活。ブラジルで書きつがれたみずみずしい言葉たちとともにいまだに新しい詩と思考を呼び覚まして著者の出発点を刻むとともに限りなく未来に開かれた輝かしい名著。
感想・レビュー・書評
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わたしとは一種の牢獄だ。~ぼくもまた他人で有り得ないこと~うんざりさせられている」(『赤道地帯』)/閉所恐怖症は、その原因を死に対するひどい怯え、埋葬されることへの恐怖にもっている。程度の差こそあれ、旅に誘われ続ける心には、死への恐れが隠されているはずだ。/ブラジルでミナス・ジェイラス州にはじめて行ったとき、イエズス会の恐ろしさを思い知らされた……何もない。そんな山あいの小さな町に、いくつもの教会が立ち並び、それをブラジル・バロック様式の彫刻が飾る。彩色されたマリア像。住民より多い聖人たち。/アメリカ大陸の都市にならどこについても……〈島都市〉っていう性格がある……何もないところをバスで走っていくと、ぽつんと島のように町が浮かぶ。/ぼくの部屋のすぐまえには非常線がはられ、犯人の逃げ道をふさぐ……「~日本人、絶対に顔を出すな!」/きみの意志は、コロンブスの意志に犯されている。/既に聞いたこと、読んだこと……に従って、ぼくらはひとつの風景を理解しているにすぎない。/新しい土地に出会うたび、人はその土地に命名しなくてはならない。/ポルトガルはブラジルの零落した父親だ。/飛行機は特異な認識の道具だ。/外国語において、誰もが若返る。/鉄道旅行のいちばんいい点は……線路が、乗客の目には見えないってことじゃないか/大西洋はアフリカ人とヨーロッパ人の海だ。そして太平洋は〈われわれ〉の海だ。/複数の人からなる〈単一民族〉はけっして存在せず、きみはきみ自身のイディオレクト「個人語」を話すだけ。/「日本人は頭がいいんだって……日本人とか韓国人とか、そういったチャイニーズ・ピープルはね」
☆なんとも無茶な言い切りをしておいて、自分でも無理が分かるのだろう、セルフ突っ込みをしては、なんともさえない再反論を試みるような論旨展開が、やたら多くて笑える。なんだかなあ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
10/12はコロンブス・デー
アメリカやアルゼンチンなどでは、
コロンブスが新大陸アメリカに到達した日として記念日になりました。 -
旅とはなんだろうか。一体旅に目的が必要なのだろうか。観光するだけが旅なのか。なぜ人は旅をするんだろう。
「移動とは特権的な体験であり、愚劣さと楽しさ、臆面のなさと勇気が、そこではしょっちゅうとりちがえられる。」p72
「あらゆる現代の旅行者はコロンブスとの連続性を生きている。」p119
記憶に刻みたい言葉が溢れている。音楽的で、流れるような文章である。 -
青春。ブラジル。モノローグ。
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「旅行記」なのに「旅行」らしくない。
誰の記録?誰の記憶?いつの?どこの?主不在の不思議な読み物。
若さ、青さ、思考、思想が。引用が詰まっている。
管さんが行った当時のブラジルと今のブラジルは全く別のモノになっているだろうけれど、でも、やっぱり何も変わっていないようにも思える。そういう不思議な土地というイメージがある。 -
詩人、翻訳者の著者デビュー作が22年ぶりに文庫で復刊。ブラジル旅行で滞在中に書かれた様々な文章。旅行記というより、その土地で想起させられた思い、書物からの引用などが交錯する。港千尋の写真も添えられている。帯の詩的反旅行記が的を得ている。
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扉で引用されるのがパヴェーゼ、セリーヌ、ヘンリー・ミラー、ル・クレジオの文章。ブンガク的なものが始まる予感たっぷり。
管啓次郎さんのデビュー作だそうである。ブクログに来るようになってから初めて読んでみたいなと思った『本は読めないものだから心配するな』よりも先に手に取ってしまった。
ブラジルでの旅行記、滞在記のようだが果たしてそう名付けてもよいのかどうか。つながりのない短い章が重ねられ、形式も様々。詩のようなものもある。場所を巡って考えたことが次々に繰り出される。港千尋さんによるブラジルの人の表情や風景が切り取られたモノクロ写真が随所に挟まれて、見るたびにこれは異国の物語なのだと意識を戻される。
「名言だなあ」と思わせるようなフレーズが次々に登場する。文のリズムがいいのだろう。音楽のようだと言えるのかもしれない。解説を寄せているのがこれまた作品に音楽的なものを感じさせる古川日出男さんである。
自分からすると、読んでは内容を忘れてしまうような本でもある。残るのは、その本から得られる躍動のようなものだけ。そういうものを感じたい時、また読むのだろう。 -
どんな本と言えばいいのだろう。
小説、詩集、書簡、比較文化論、そして旅行記。
あまりに詩的な言葉に溢れた不思議な本。 -
著者の処女作で、著者のブラジル滞在中に書き綴られたアフォリズム的な断章や詩、友人への書簡や他の作家の作品からの引用が、そぞろ歩きの足跡のように連ねられている。それは一見旅行記のようではあるが、そう呼ぶのは相応しくない。それは「旅行」なるものを否定したところに成り立っている、ほとんど書くことと一つになった旅の痕跡と呼ばれるべきではないだろうか。実際著者はこう述べている。「旅と記述は、たしかに似ている。ほとんどおなじものだといってもいいくらいだ。紙に書くか、地表に見えない足跡を書くか。どちらにも、賭けられているものは〈自由〉だった」。どの方向へ一歩を進めるか、どのような一句を継ぐか、誰にも、もしかすると自分にも決められないのかもしれない。そして、こうしてどこへということなく進むことのうちにあるのは、言葉の混成を生き抜き、自分だけの言葉を探る道なき歩みである。それについて著者は、ほとんどデリダの『他者の単一言語使用』の「絶対的翻訳」の思想を先取りするかのような洞察を示している。「ことばに断絶はない、ことばは波打って変化するだけだ。ジョイスの、イヴァン・ゴルの、ナボコフの読者ならすぐわかるように、人は移動するかぎり必然的に混成語を身につける。(中略)きみがしゃべることばはきみのシュプールと似た輪郭をもち、きみとおなじ唯一の顔をし、どんどん組み替えられて、けっして安定しない。きみというひとりはひとつの民族であり、複数の人からなる〈単一民族〉はけっして存在せず、きみはきみ自身のイディオレクト[個人語]を話すだけ。個人的な訛り、独自のしぐさ、小さなことばが、長い距離をゆく。訛り、混成し、話す。そしてはじめて〈きみ〉が存在するのだ」。いくつもの言語が混淆するなかに自分の言葉を探るあてどない旅のうちにこそ、私の自由が、私自身がある。そのような旅を生きる立場から、本書では「ヨーロッパ」なるものが、そして不断に境界線を押し広げ、「アメリカ」なる虚構とともに、その暴力をも産み出した「ヨーロッパ」の植民地主義が批判される。その経路を開いた最初の一人に数えられるコロンブス。彼は航海に犬を連れ、その犬を先住民にけしかけたという。本書の表題にも掲げられるこの犬とは何か。グローバルな資本主義経済のなかの消費者の一人である私も、コロンブスの犬の一匹なのかもしれない。そのことを踏まえながら、砕け散った世界──世界を廃墟として見る視点を著者は、サン・パウロで教えるジャン=マリー・ガニュバンのベンヤミンの研究書から得ている──を縫うように歩む旅へ一歩を踏み出すこと。不可能な救済と統一への深い「サウダーヂ」を抱いて。言葉を語ること、生きることそのものであるようなこの旅への誘いが本書にはある。