哲学の練習問題 (河出文庫)

著者 :
  • 河出書房新社
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本棚登録 : 89
レビュー : 7
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309411842

作品紹介・あらすじ

哲学するってどんなこと?人間の本性とは?生きる意味とは?神秘と科学をどう捉える?自分と社会はどうつながっている?-生きることを根っこから考えるための、72のQ&A。難しい言葉を使わない、けれども本格的な哲学へ読者をいざなう。深い思考のヒントとなる哲学イラストも多数。

感想・レビュー・書評

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  • 重要なことを言っている。
    何度も読み返したい。

    川村易のイラストも独創的でいい。

  • 「考える」とは、いったいどういうことなのだろうか。ぼく自身をふり返って思うのだが、考えているつもりでじつは考えていない、ということがよくある。
     たとえば「なぜ俺はこんなことができないんだ……」と悩んでいるとき。「なぜ〜」という疑問文になってはいるけれど、自分を責めているだけ。〝考えて〟はいない。つまり、これは感情としての「なぜ」(納得できない悲しみや怒り)であって、問いとしての「なぜ」(問いを立てて答えを出そうとすること)ではないからだ。
     この場合には「感情に溺れているままでは前進できないな」と気づくことが、転換点になる。自分のなかの様々な感情の動きをハッキリと見据えて「いったい自分は何に悩み、何が気になっているのか?」と問うこと、これが考えることの第一歩だ。人は意外なほど、ほんとうは自分は「何が」気になっているのか、をわかっていないもの。そこを見つめようとする勇気と、つきつめて根っこからわかろうとする意思から「考えること」ははじまる。

     ところで、いま述べたような人間の精神の在り方についての「理論」を、ぼくはどこから得てきたのだろうか。もちろん他人からも学んだのだけれど、基本的には、自分の生きているようすを反省しながら「この説はいえてるなあ、でもここはこうだなあ」というふうに考えてきた。つまり、人間の心的な世界の構造(自我と他者関係、善悪美醜という世界の秩序、日常世界と異界」など)を解明しようと思うなら、自分の生(意識体験)を直接に観察するのが基本であり、まだどんな説もそこから検証して確かめる以外ない。

     赤ちゃんが不快でなくとき、養育者は「寒いんだね」「お腹が空いたんだね」といいながら対処し、そうすることで不快は取り除かれる。いちばん重要な対処はもちろん、抱っこしてオッパイを与えることである。この「訴え→養育者の受け止めと対処→安心」というプロセスの積み重ねによって、赤ちゃんは〈世界に対する信頼感〉を獲得していく。つまり世界は混沌としたよそよそしいものではなく、泣けば安心感が与えられることを体感するのである。
     興味ぶかいのは、親が適切に対処することによって、赤ちゃんの混沌とした不快感が〝分化していく〟と滝川が述べていることだ。親が「寒いんだね」「お腹が空いたんだね」といいながらふさわしい対処をすることで、赤ちゃんは、自分の不快を「寒い」「空腹」「痛い」というふうに分化させていく(最初はすべて同じ泣き方をしていたのが、不快の種類によって泣き方が変わってくるそうです)。
     しかし虐待されて育つとどうなるか。たとえば親が、子供が泣くといつも哺乳びんを口に押し込む、というような対応しかしないなら、子どもは〈世界に対する信頼感〉を得られないだけでなく、感覚もまた分化していかない。虐待された生育歴をもつ人は、寒いのにパンツ一枚で平気でいたりすることがある、と滝川はいう。
     話を戻すと、赤ちゃんにとってまわりの世界は知らないものばかりで、不安になりやすい。そのとき養育者にしがみついて、養育者の落ち着いた情動によって守られると安心する(怖かったの? 大丈夫だよ)。このように「訴えて受け止めてもらう」、つまり「甘えられる」ことによって、世界は信頼できる安心なものになるのである。
     このような安心が与えられると、赤ちゃんは未知なものに好奇心を覚え、自ら〈探索行動〉を起こす(安心できないところでは好奇心をかきたてる)。こうして赤ちゃんはハイハイしていろんなものを口に入れるのである。そしてさまざまなものを確かめていくことによって、世界はますます既知の・コントロール可能なものとなっていくだろう。つまり大人に甘えられるという安心感・信頼感を基盤にして探索や冒険が可能になり、そうすることで赤ちゃんはますます世界の理解と自信とを深めていくことができる。
     ちなみに、この「信頼感→冒険→自身の獲得」という構図は、人の一生を貫くものといえるかもしれない。人は世界に対する一定の信頼感を基盤にして、新たに挑戦したり冒険したりできるが、これを逆にいえば、信頼でいない世界においては、人は挑戦したり積極的に活動していくことができない、ということでもある。また、元気に活動していても、病気になったり何かのトラブルで自信を失ったりすると、いったんは退却して〝安心できる場所〟に戻らねばならなくなることもある。看護や介護についてよくいわれる「ケア」とは、〝弱っている人〟の要求を受け止めることでその人が世界に対する信頼感を取り戻し、そしてふたたび社会的に活動できる(〈ゲーム的世界〉に参加できる)ようにサポートすることを、意味するのである)。

    ある高校の先生がいっていた。「○君は、△君の意見についてどう思う?」とたずねると、○君は「△君がそう思うなら、それでいいんじゃないですか」と答えた、という笑い話だ。だがこれは、子どもだけの話ではない。私たちは、互いの感度を出しあい、確かめあって、たがいの違うところも同じところもわかっていくということ(尋ねあい)を、なかなかしない。相手にふみこまないことが、○君だけでなく、現代を生きる私たちに共通したモラル・センスなのだ。
     しかし、互いの感度や思いを確かめあうことがなければ、他人がどう思いどう生きているかがわからない。そしてそこからふりかえって、自分のあり方を見つめ直すこともできない。そのままだと、他者たちとのあいだで本当に納得のいく合意をつくることも、自分なりの価値観を育てていくことも、できない。つまり「自由な自立した市民」にはなれない、ということになる。
     ぼくは大学生とつきあってきて、彼らの「他者の生に対する関心の低さ」と「自分を見つめる力の弱さ」を痛感してきたが、私たちが、自由な市民からなる社会を望むのならば〝互いの感触を尋ねあう〟仕方を学ばなくてはならない。
     ぼくはこのことをハッキリと意識して、大学でいろんな試みをしてきた。一つは初年時に、「自己論述」、たとえば「自分の記憶に残っていること」について書いてもらう、という実践である。自分の記憶に残っていることで、いまの自分につながっていると思えることを一つ選ぶ。そのエピソードを「他人にわかるように」、さらに「これがなぜ自分のなかに残っているのか」を考えて書くことを求める。
     それの添削が大切である。形式的な完成度は二の次で、何をいおうとしているのか感じとり、そのうえで「この書き方だと読む人はわからないよ」「ここをもっと詳しく書いてくれないかな」と返す。このような添削者の〝受け止め〟の力によって、学生もしだいに本気になって書くようになり、他の学生の書く作文にも関心を寄せるようになってくる。図式的にまとめると、こうなる。〈受けとめがある→安心して自分の想いを出せる→他人に伝わる表現の工夫をしようとする→他人の言葉を受けとめられる→他人の生に対する関心が生まれ、自分の生もそこから見つめ直すことができるようになる〉。

     この項では、正義は、社会契約つまり主要なメンバー同士の〈共存の意志〉にもとづく、というこれまでの理解を踏まえて、いくつかの疑問に答えることを試みよう。最初の疑問は〈正義に確かな根拠はあるのか、どれも相対的ではないのか?〉である。
     これについては、正義とされる具体的な項目には時と場合によりかなりの多様性があるが、正義の根底には〈共存の意志〉があるのだから、正義にははっきりとした根拠があるといえる。その現れとして、メンバーどうしの間での「殺すな・盗むな」というルールがきわめて普遍的であることを挙げることができる。また「ルールのものとでの平等、公正さ」ということも、正義観念においてはやはり普遍的なものといえる。なぜなら、ルールが成員に対して等しく適用されず、特定のものだけに利益や損害を与えること(えこひいきや差別)が行われるならば、必ず「不公平・不公正だ」という感覚が生じ、これはメンバーシップの感覚、つまり〈共存の意志〉じたいの弱体化にもつながりかねないからだ。これが極度になれば、国家や共同体は分裂状態になりかねない。
     では次に、〈イスラエルやパレスチナのような、対立るす二つの正義が折り合えるには?〉について考えてみよう。
     この対立の根底にあるのは、双方の間にそもそも〈共存の意思〉が成立していない、ということだ。復讐の連鎖が続くことによって、「われこそが正義、相手は悪であり敵」という感覚がきわめて強固になってしまっていて、和平をしたくても相手を信用することができない。この「われこそが正義」という感覚を乗り越える必要があるが、そのためには、双方が相手の事情をくみ取ろうとしなくてはならないし、場合によっては謝罪も必要になるだろう。そうすることで、互いを「協力しあい平和に共存しようとする意志をもつ仲間」として承認しあうところに到達できるならば、そこに正義が生まれるだろう。
     つまり、正義の対立は、正義の無根拠性を示すものではなく、相互理解とそれにもとづく共存の意志とが成立していない、ということを示すものなのである。
     一つの社会のなかでも、同じような問題が起こることである。差別されているマイノリティがマジョリティを告発する(民族問題、部落問題、女性差別など)ような場合である。マイノリティは苦しんでいるから、しばしば「われこそが正義、マジョリティは悪」とみなす。しかし「悪」とみなしたとたん、マジョリティに自分たちの立場を理解してもらおうとする努力をしなくなり、マジョリティ側の立場や言い分を理解しようとする姿勢を失う(「悪いのは向こうなのだ、なぜこっちが頭を下げる必要がある?」)。マジョリティがマイノリティの言い分を理解しようと努めるべきなのはもちろんだが、マイノリティの側での「正義の絶対化」が相互理解を遠ざけることも多い。
     正義の絶対化を廃して相互理解に努めること、そしてそこからふたたび、共存の意志とメンバーシップ(仲間の絆)が再認識されること、そのようなプロセスが、真の意味で正義がよみがえるためには、必要なのである。
     

  • 正義論が文庫化と共に追加され、近年のアメリカの正義論を批判。その軽薄さをよくついている。

  • 哲学とは何をすることか。何か疑問を持ったり悩んだりしているときに、なぜ自分はそういう問いを持っているのかを第三者的に考え、その上で、ではどうやって周囲、社会と関わりを持っていくのかを考えること。これが著者の言う哲学の方法論であろう。
    もともと毎日新聞の日曜版に連載された内容を一冊にまとめたもので、1冊を通してのテーマ性には欠けるのは仕方がない。1つ1つのテーマが身近で、上記の方法論に基づいて考え方を紹介してくれるので、きわめて実践的でわかりやすい。

  • 子供のころ、宇宙の果てはどうなっているのだろうと考え混沌とした気分になったことを思い出す。本書はそんな難問の数々を哲学的な視点で捉えることを教示し、知的好奇心を刺激する。挿入されたイラストの自己主張が強すぎてやや目障りだが、厭世的な気分に陥りがちな現代において哲学的思考の意義を説く好著。

  • 物理学とは、世界が合理的な法則によって貫かれているという(それ自体としては証明できない)前提のもとに、私たちの経験するさまざまな事実から法則を解読し取り出そうとする一種の「ゲーム」なのである。

    しかしそのさい、その過去が「いまでも嫌なこと」だとなつかしくはなれない。とても辛かった経験であっても、それをいまの時点から「ゆるしている」場合にだけ、人はそれをなつかしむことができる。多くの人がなつかしさには「安らぎ」の感覚があると指摘するが、安らぎとは、ゆるして受け入れるということを意味しているのだろう。

    自分のこれまで生きてきた過程やそこでのいくつかの経験の核心を確かめ、そうすることで、自分が生きるうえで「大切にしてきたもの」は何だったのか、をふたたび確かめなおす。そして、それを握りしめながら、ふたたび生きることへ向かおうとする。たとえばそのようにして、私たちは生のストーリーを再構築するのである。

    何が価値あることなのかが自分のなかではっきりしていて、自分がそこをめざして進んでいると思えるとき、人は他人の視線にあまり脅えないですむ。だれがなんといおうと我が道を行く、というふうな「気概」をもつこともある。しかしいまの大衆化した大学の学生には、大義も人生の目標も与えられない。そして進むべき方向がはっきりしないとき、人は自分自身の存在を肯定することができない(俺ってカッコいいとなかなか思えない)。だから「他人から嫌われない」ということが自分を支える最後の手段になってくるのかもしれない。

    この「ほんとうに意味あること」をなしたいという思いは、その意味を自分のなかで、また他者とのあいだで確かめあうことによって生き生きと保たれる。

    「社会について語ること」が全体を見晴らす特権的位置に立つことでなく、同じ社会に生きている人々の存在を信じ、そこに生じることを「われわれの」問題としてとりあげ改善しようとする努力であるなら、それがなくていいはずがない。

    すなわち社会は、私たち各人がそこに向かって働きかけ、何かよい影響を与えたい、と願うようなものでもある。

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著者プロフィール

(にし けん)
1957年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。和光大学現代人間学部教授を経て、現在、東京医科大学教授。哲学者。著書に、『実存からの冒険』『哲学的思考』(ともにちくま学芸文庫)、『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)、『哲学のモノサシ』(NHK出版)、『完全解読ヘーゲル『精神現象学』』(共著、講談社選書メチエ)などがある。

「2010年 『超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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