- Amazon.co.jp ・本 (344ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309412122
作品紹介・あらすじ
雪の研究に一生を捧げた、日本を代表する科学者にして名随筆家・中谷宇吉郎のベスト&レア・エッセイを生物学者・福岡伸一氏が集成。学生時代を過ごした金沢の旧家での思い出から科学する心の大切さを説いた表題作のほか、日食や気象、温泉や料理、映画に書道に古寺名刹、戦中戦後の疲弊と希望、そして原子力やコンピュータまで、精密な知性とみずみずしい感性が織りなす、珠玉のエッセイ25篇。
感想・レビュー・書評
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雪の研究に生涯をささげ、世界で初めて人工雪の生成に成功した中谷宇吉郎の随筆を、生物学者・福岡伸一がセレクトしたもの。編者の言葉として、「精密な知性とみずみずしい感性が織りなす珠玉のエッセイ」という表現があるが、まさにその通りだと思う。特に個人的に心を揺さぶられるのが、子供の頃のエピソードを綴った数々。なぜかキラキラと輝くようなまぶしさというか、ジンワリ湧き出るようななつかしさというか、不思議な温かさを感じるのは、やはり筆者の人間性のなせる技なのだろうか。時代の細やかな描写もさることながら、科学、気象、文化、コンピュータ、原子力に至るまで幅広いテーマが収められており、中でも原子の力が原爆という形で実用化されたことの意味を重くとらえた宇吉郎が、「原子力の開放が、人類の文化の滅亡をきたすか、地上に天国を築くか、(中略)それを決定するものは科学ではなく人間性である。」(昭和25年1月「未来の足音」より)と言っているのは、時代を考えると心に響く。しかも、この問題について、人類の半数を占め、子供を味方に持つ女性たちの任務は重いとさえ言っている。
人間だけにとって都合の良い便利さを求めてきた時代の曲がり角に立つ今、本来あるべき方向に向かって舵を切るには何が必要かを見つけるヒントを数多く与えてくれる随筆集といえる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
“なにかをするまえに、ちょっと考えてみること”
'科学の基礎は、自然の正確な観察と、その把握とにある。そういう意味では、ラスコウの原始人たちは、非常に優れた科学者の素質をもっていたことになる。人類は、地球上にはじめて出現したときから、すでに芸術家であり、かつ科学者であったわけである。そして彼らの芸術も、科学も、ともに生活に密着したものであった'
'立派な豆腐をつくるには、栄養学の知識よりも、豆腐のつくり方の経験がものをいう。茶わんの洗い方に、分子の凝着力の理論はいらない。それよりも、一つ一つの問題について、自分でちょっと考えてみることの方がより有効である。「微積分を自分でつくって」というのは、もっとも素朴な形では、ちょっと考えてみるということである'
'人生は、毎日毎日新しい夜が明ける。おなじことは、二度とは起こらない。今日の自分は、もう昨日の自分ではなく、今日の日本は、昨日の日本ではない。どんなに世の中が安定し、毎日おなじような生活をしていても、少なくとも一日だけ年をとったことは動かせない'
'毎日毎日の小さいながら新しいことの連続が人生である。そういう一つ一つの小さい問題について、いちいち物理学の体系から演算した知識で、とこうとしても、それは無理である。というよりも、つまらないことである。それよりもその問題の範囲内で、自分のささやかな物理学をつくって、それでといた方がよい'
現実を見ることを心がける。
それはまさに、何かをする前にちょっと考える、ということだ。
感情や雰囲気、空気なんてあてもないものに囚われないということだ。
'整理などをしている暇などないという人がいるけれど、それは反対であって、整理をしないから暇がないのだ。使ったものを、もとの場所に戻すには10秒もかからないが、置き忘れたものを探すには5分も10分もかかる…そう考えるのが科学的な態度であるのだと。…考えることを怠ること、すなわち精神的怠惰が人を科学から遠ざける'
やみくもに歩く。止まれるのに止まらない。ふと自分がいまどうしているか、何を感じ、どうしてそうなってしまっているのか。少しだけ立ち止まって、先を行こうとする自分を置いてけぼりにされるような視点から見つめ、それを分析することができたら、沢山のことに気づくことができる。
簡単なのが良いことばかりなのではない。手段や方法が目的になるのではない。「何のために」。本当はそれが一番に大切なことなのだから、それを手放さないためにも、いつでも再確認するためにも、ふと立ち止まるんだ。遠回りをしてみるんだ。思っていたこととは反対の方向に自分を振り向けてみるということの方が役に立つと思うのだ。同じ方向ばかりを向いていて、同じような自分でいることの安定ばかりを追い求めていたら、自分が何をしようとしていたのか、分からなくなってしまうだろう。簡単で、安心で、安定で、抵抗がないということは、そこに考えるということが生まれなくなってしまうこととイコールだ。世界と同じ、みんなと同じとばかり自分を振り向けていたら、自分がそこにいなくなってしまうだろう。
考えることでしか自分はできてこない。自分を作り続けるということが生きるということで、それは中谷が言う科学的であるということと重なっている。自分というものを確かに捉えて離さないために、自分の周りに存在する現実を自分なりの方法で、自分なりの解釈で、自分による見え方で世界を定義したいと思う。それは決して与えられるものではない。自分から掴まえにいくもので、そのために様々な出来事や知識や情報や概念を、社会を構成しているものを自分の中に取り込むための学びが必要なのだ。学ぶということが本当に大切だ。人や社会に与えられるのではなく、まずは自分というものを通して出来上がる世界というものを作り出していくために学ばなければならないし、つまりはそうやって学ぶこと自体が、自分というものが存在すること、自分を作り続けるということの「意味」になるのだから。
いま起きている社会の混乱の中で、周りに作られる空気の中で、そういうときだからこそ、自分から生まれてくる世界を自分のために見続けたいと思う。そのために学びを止めないでいたいと思う。科学的であることを守りたいと思う。
'科学には、善いも悪いもなく、またきれいも汚いもない。いわんや、偉いだの、下賤だのということは、ぜんぜん科学のらち外の問題である。花は美しいものではなく、ただのものである。うんこは汚いものではなく、これもこれもうんこというものなのである。すべての事物を、ものと見て、そのものの本体、およびその間にある関係をさぐるのが、科学である'
'科学的な考え方とていっても、なにもむつかしいことはない。ただこのことだけを、心得ておればすむ話である。いちばん単純で簡単なものの考え方が、科学的な考え方である。方法が単純だから、複雑な対象をとり扱いうるのである。複雑な問題を、複雑な方法で扱おうとしたら、めちゃくちゃになるにきまっている' -
20210420読了
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雪の研究者中谷宇吉郎氏のエッセイ。
とても柔軟な心を持った人だなあと思った。
「本来の科学というものは、自然に対する純真な驚異の念から出発すべきものである。」(簪を挿した蛇)
科学教育というものは難しいね。 -
編者後書にあるように「中谷博士の文章は優れて可視的であることにその特性がある」
「古寺随想」の京都の寺院を拝観する描写など、実に視覚的で、凡百の観光録と違う。美しい科学者の文章だ。雪国の温泉に一泊する時に雪にちなんだ本をと思って帯同したが、知らなかった随筆家の一面を堪能した。
[more]<blockquote>P10 氷雪を思慕するというような心情が我々のどこかに秘められていて,その一つの現れと見られる現象であるかもしれない。もっとも日本人が脂肪質をたくさん食べ,毛織物を一般に用いるようになったためかとも考えられる。
P97 非科学的というのは,論理が間違っているか,知識が足りないことに起因する場合が多い。どんなに間違っていても,とにかく論理のある場合には,その是正は可能であり,知識はゼロから出発しても,いつかは一定の量に達せしめることができる。しかし科学以前の考え方は全く質の異なったものである。それは抜くべからざる因習に根ざしているか、それ自身に罪はないがしかし泥のような質の無知か,または自分にも意識していない一種の瞋恚(しんに)に似た感情が,その裏付けをしている場合が多い。
そういうものの考え方も,平時にあっては,複雑な社会生活における一種の陰影のような役割をつとめているものとして見逃しておくほうが賢明なのであろう。
P128 バターと蜂蜜とを練ったような本がたくさんあって,それらを自由に読むことができれば,子供たちは大変幸せである。しかしあまり栄養物ばかり食べさせておくと,芯が弱くなる恐れがありはしないかという気もする。たまには面白くて為にならない本も読ませたほうがよさそうである。
P138 いろいろの雑魚がまだ砂にまみれながら銀色に光っている。そんなのを買ってきて,すぐ簡単に塩をふって焼くと,魚は金網の上に反り返る。そして身がはじけてジージーと脂を炭火のうえに落とすのである。それを細君が太い箸でつまみ上げて皿の上に乗せてくれるのに醤油の数滴をたらすとじゅっといってしみ込むのである。まあこんなところを味覚の秋とでもいうのであろう。到るところに人生があるという文句がふと思い浮かべられた。
P172 馴鹿(トナカイ)の蹄は指ごとについていて,踏んだ時は趾が広がるので,深い雪の中を走る時には,かんじきを履いたようになるのだそうである。それが,足を上げた時には窄まるので,蹄の触れ合う音が,ぱっぱっと軽い響きをたてる。周囲には何の音もないこの凍土の地帯では,人間も寒さに身をこごらせて,黙ってこの馴鹿の蹄の音に聞き入るばかりである。
P200 子供というものは,魚粉と稲茎の粉との混じった団子を食ったことは忘れるが,そのとき聞いたアマゾンの秘境の情景はなかなか忘れないものである。
P220 どの墨がどのような墨色をしていたかはすっかり忘れてしまったが,支那の古い墨の一つには透き徹るような青みを帯びた墨があったが,あの色だけは忘れかねるものがあった。「幼児の瞳をのぞいたような感じというのはこんな色をいうのでしょうね」
P251 生を意識して死を怖れないことと,生も死も意識しないこととは,比較のできないことなのである。
P286 歯車には,大小があり,その配置には上下左右がある。もし一つ一つの歯車が,みな同じ大きさであることを要求し,あるいはこんな隅のほうに押し込められるのは嫌だといったら、機械の組立てようがない。機械の内部を見た人が,あんな小さい歯車だとか,あんな隅にあるとかいって,その歯車を軽蔑することは,決してない。
P313 すべての事柄について,ちょっと気がついた時に,すぐ直して,いつでも整備した状態で保っておくことは,精神的に怠け癖のついた人にはできない。この精神的怠惰がどこから来るかというに,一番の原因は,頭脳の疲労である。そしてその疲労は,不必要なことに,精神力を無駄遣いしているところから来るように私には思われる。たいていのことは,イエスかノーかで片付くはずのところを,不必要な精神力の垢をその上に塗り付けることによって,大切な精神力を浪費するのはつまらないことである。</blockquote> -
『機械の恋』の章にとても惹かれた。そうだなと思う内容だった。
科学的な姿勢というものはどこか冷たく思えていたが、中谷さんの科学的な姿勢は冷淡でなく、暖かみがあり人間らしかった。
本書には見落としたこと、気づかなかったこと、読み取れなかったことがまだまだあるように思う。また、いずれ読み返したい。 -
雪の研究者である中谷宇吉郎氏の科学にまつわるエッセイ。雪今昔物語の雪の結晶を天皇に見せる話。雪の結晶をスタッフと徹夜で準備して、身体の不調もなんとかやりきる。終わって、伊東に養生しにいく。ちょうど大雪予報の東京から、出張で伊東へ。こんな偶然あるだろうか。
昔ながらの生活、伝統は計算して、あるロジックで導き出される科学的な解釈ではない。筆者は、それを科学以前として、撲滅するのではなく、優しい眼差しでもって整理しておく。つまりは、すぐ否定せずとも淘汰されていくと考えている。すごいのは、これが昭和16年に書かれたものであることだ。科学を盲信し、戦争、テロ、無差別殺人、環境汚染、原子力。こうした負の部分をある種、導き出した科学、そして科学で説明不能な理論を予言しているかのようだ。AIが台頭し、いまは、きっと科学の次に来るものを探しているのだから。
本統の科学とは、不思議を解決するだけでなく、平凡な世界の中に不思議を感ずることも重要な要素。河童を知らない子供は可哀想だ。科学者として、この言葉は本当に素晴らしい。北海道の自然の中にあって、お寺回りやスキーなど、科学的でない活動にその魅力を感じ、視野だけでなく、行動の幅広さをもっともっと求めて行かなくてはと思わされる。 -
「イグアノドンの唄」とそれに対する文庫の解説が心に残った。
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雪の研究の第一人者の中谷宇吉郎博士のエッセイ集。主題は時代を感じるものが多いが、それを感じさせない鋭く理路整然とした書き方に引き込まれる。雪今昔物語、科学以前の心、私の履歴書、何かをする前に...が特に好き。