日本人の神 (河出文庫)

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  • 河出書房新社
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レビュー : 8
  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309412658

感想・レビュー・書評

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  • ・大野晋「日本人の神」(河出文庫)は いかにも国語学者大野晋らしい書であつた。内容は「日本語のカミ(神)という言葉の由来をたずねてみようと」(10頁)いふものである。語源に始まり廃仏毀釈まで、いやもつと幅広い話題にあふれてゐる。その根本には国語学者の思考と方法がある。もともとは「一語の辞典」といふシリーズの1冊として刊行され たといふ。この「神」へのこだはりもむべなるかなである。
    ・巻頭の語源で問題になるのがカミのミである。これが大野の上代特殊仮名遣ひに関連するといふのはよく知られたところで、神のミは乙類であつて、甲類の、 例へば鏡のミだとか、上のミだとかとは別の音であるといふことである。つまり、従来の「神」の語源説はまちがひなのであつた。そこから日本の「神」の概念を考へ、仏教の「仏」との対比をし、更にその両者の関はりを考へていく。この中で本地垂迹や神仏習合に触れ、関連して国学の発展に言及する。神をめぐる日本の思想史とでも言ふべき内容である。かういふので終はれば、失礼ながら何だこれだけかといふことになつてしまひさうである。ところがそこは大野晋である。そんな形では終わらない。まだ先がある。「カミの輸入」である。その前に「ホトケのぶちこわしとGodの輸入」なる章があり、西洋的な一神教に於ける神との違ひに触れてゐる。そのうへで、日本のカミはどこから来たかを最終的に考へるのである。結論から言へば、大野晋の専売といつても過言ではないタミル語である。日本のカミはタミル語から来た……大野晋であるから、ある意味で予定調和的な世界である。さうであるからこそ、ここできちんと日本語とタミル語の関係を説明してゐる。タミル語とは、「インドの最南端に、現在五〇〇〇万人の使用人口を持ち、B.C.二〇〇年~A.D.二〇〇年の間の、詩二四〇〇首 を持つ」(132~133頁)言語である。「日本語との間に五〇〇の対応語をもつが、それだけでなく朝鮮語との間にも何百という多数の対応語をもつ」 (133頁)言語である。しかも、考古学的にも日本とタミルの関係が明らかになつてゐる(134頁)。このあたりは他の大野の著作に詳しい。本書に関連して言へば、カミ関連の語の対応ももちろん多くあり、しかも、その意味内容から日本のカミと「音形と意味において全面的に対応する」(177頁)語もまたあるのである。ただし、この事実から日本のカミ概念が先かタミル語が先かの判断はできない。いづれにせよ、ここで大野の考への正当性が確認されることにな る。これを我田引水と言つては失礼であらう。ただ、私はタミル語を全く知らないので、大野が日本語との対応等を示しても、その妥当性を判断することができず、さうなのかと感心するばかりである。このカミに関しても同様、大野によれば、日本のカミは確かにタミルに続いてゐると思ふ。現在、この大野の起源説がどのやうに評価されてゐるのか、これを私は知らない。ただ、学会で広く受け入れられてゐるのかどうか。国語学会は困惑の体であらうか。言語学的にはいろいろと問題が多いらしい。だからといふわけではないが、私も眉唾の感を捨てられないのである。おもしろいことはおもしろい。例の如く、なかなか見事な素材の料理の仕方、書きつぷりである。首尾一貫してゐる。だから、こんなにうまくいくものかと思ひつつも、感心して読んでしまふ。それでも、私にはタミル語について今一つ釈然としないものが残る。この起源説によるカミ解釈が大野の言ひたかつたことだといふのは分かる。分かるからこそ、ここでもそれをもつとつきつめてほしかつたと思ふばかりである。

  • 読了

    国のアイデンティティとして、これは知らないといかんこと、キリスト、アラー、孔子も釈迦も、ツァラトゥストラも、本を読めばわかるけど、神ほど定まらずに曖昧なもんはなかろうに

    次は何を読むか

  • キ、ヲ、ヂ、ヒコ=男の神
    ミ、メ、ベ、ヒメ=女の神

    仏教の伝来 蘇我氏は賛成、中臣氏、物部氏は反対。

    仏神=ホトケという神。神宮寺=神社の中に寺を建てた=神仏習合。

    神道。両部神道と山王神道。伊勢神道。卜部神道。
    国学としての神道=江戸時代。本居宣長など。新政権の御維新=神武の親政に復帰すること=神仏分離令、廃仏毀釈。

    神社なのに本尊は仏像=ホトケが神の領域に入り込んでいた。

    日本語と同じ文法構造=アルタイ語=ツングース語、モンゴル語、トルコ語を含む言語群。しかし文法は同じだが単語は共通ではない。
    インド最南端のタミル語が対応語を持つ。朝鮮語とも。
    カミの言葉はタミル語から。

  • 私の最近の関心事の一つは、縄文時代から弥生時代の青銅器の祭へ、そして墳丘墓を作って大王継承の儀式を始めるようになった時に、日本人の神の意識はどのように変化したのだろうか、ということである。そのために今回大野晋さんの格好の論考があったので紐解いてみた。もちろん本当のことを知るためには、縄文、弥生の考古学的な遺物からそれを証明しないといけない。しかし、文字を持たない人々の精神世界を知るのは、極めて困難である。大野晋さんの研究にしても万葉仮名から論考しているわけだから弥生時代とは少なくとも300年以上の時の隔たりがある。そのことは当然承知していなけばならない。しかし、文献嫌いの私には意外だったのだが、この論考に拒否感はなかった。伝説は大きく歪められる。しかし、言葉は案外歪められない。私たちはいまだに「山」とか「川」とかの大和言葉のいくつかを数千年にわたり使っているのだ。

    カミという言葉はどこから来たのか。幸いにも巻末に大野晋の書いた「古典基礎語辞典」(角川学芸出版)の神の項の「解説」が載っている。それがそのままこの本の要約になっていた。私の関心は弥生から古墳までなので、そこに関すると思われる部分だけ抜粋して書き写したいと思う。

    かみ【神】
     カミ(神)の古形は、カムカラ(神の品格)、カムナガラ(神そのもの)などのカムである。
     カミ(神)とカミ(上)とは本来別語だったが、カミ(神)は「カミ(上)にあるもの」という意味だと一般に信じられてきた。ところが上代の発音にはミに甲類と乙類という二つの使い分け(甲類は万葉仮名の「美」「民」「弥」などの一群で、乙類は「微」「味」「未」などの一群をいう)があり、甲それぞれ類と乙類を漢字の字音から調べると、別音として区別されている。それを便宜上ローマ字でmiとmiiとに書き分ける。実際の発音がどんなだったかには論があるが、万葉仮名の用法(上代特殊仮名遣い)から「相違があった」という点については異論がなく、カミ(上)・ミコト(尊)・ミチ(道)・ミル(見る)などのミは常に甲類の万葉仮名、カミ(神)・ヤミ(闇)、副助詞ノミなどのミは常に乙類の万葉仮名で書いており、この奈良時代の文献には例外がほとんどない。カミ(神)のミは上代では常に乙類のミで書いてあり、カミ(上)のミは常に甲類のミで書いてあるので、その二つの語は、上代には発音上区別があったことがわかる。
     それが中古に入り、片仮名・平仮名が使われ始めたころにはミの甲類・乙類の区別は失われ、仮名では片仮名「ミ」、平仮名「み」一文字で書かれるようになったので、上代の区別がわからなくなって同音化し、カミ(神)の語源をカミ(上)とする考えが生じた。
     しかし、タミル語との比較研究で、カミ(神)の古形カムはカとムとの複合によって成った語であると判明した。
     ここでは日本のカミ(神)の性質を順次挙げていく。
    1.神は唯一の存在ではなく、きわめて多数存在した。一神教(キリスト教・イスラム教・ユダヤ教など)では神は唯一の存在で、その複数形はありえないとされている。しかし日本の神は、「万葉集」には「ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ」<167>とあり、また、竜田の風の神、山の口に座す神、水分に座す神、御門の神、竈の神など「延喜式」の祝詞に見える神もきわめて多い。
    2.キリスト教ではGODは創造主であり、光も水もGODの命令によって作られ存在したとする。人間もGODによって作られたとするが、日本では、人は神の意志の発動によって存在したのではない。「万葉集」には「石木より成りいでし人か」〈800〉、「人と成る ことは難きを」〈1785〉などとあるように、ナルは、「成る」であり「生る」でもあり、寒くなる、暑くなる、木の実が成るというのと同じで、日本人は、人間は自然にこの世に生まれ出る存在ととらえてきた。これはGODと神との根本的な相違である。
    3.神は具体的な形を持たなかった。今日では神社は神殿を持っているが、歴史以前の日本の神は、神殿を持たず、神は形のないものだった。神殿が造られたのは、仏教の寺院建築が輸入をされてからのことと考えられる。伊勢神宮の内宮の社殿は、私(大野)が見たタイ国北部の国境の町、チェンライ付近のアカ族の米倉とそっくりの形をしており、その集落の家は千木・鰹木を持っていた。その村の入り口に鳥居があり、その横木の上に鳥の形の像がいくつも置いてあって、それは鳥居の原形と思われた。(略)
    4.神は漂動していて、時に人や物にとりつく。(略)また、豊富な酒・食糧(海の産物・山の産物)をマツリ(奉り)、祈ると、降下来臨する。招聘された神は、
    人に限らずさまざまな物に依り憑く。神はマツリを受けて、人間に安全と食糧を与えるとされた。マツル(奉る)とは基本的な意味は「飲ませ食わせる」こと。(略)
    5.神は恐ろしい存在であった。神は人間の願いを受けて、来臨し、幸いを人間に与えるとされたが、神意に背くと、神はその人に死を与える恐ろしい存在だった。それはカミ(神)がカミナリ(神鳴り、雷)の語源であることからも推測出来る。雷は一度発生すると、落雷して大木でも家でも焼き壊す。
    カミに「神」の字をあてるが、漢字として「神」は、示偏をもつ。示偏の字は、神・社・祈・祝などで、みな神に関する意味を持つが、それは「示」が、神に対する捧げ物をのせる台の象形であるということに由来する。また「神」のつくり「申」は雷光の象形であるという。つまり「神」は本来、雷電を表した文字だった。だから神が恐ろしい存在という意味を含むのは自然である。その「神」の字を含む意味が日本語のカミと合致したので「神」をカミと和訓し、日本語カミに「神」の字を当てたのである。また転じて、虎のような恐ろしい動物をも神と称した例「韓国の虎とふ神」(万葉3885)がある。
    6.神は物・場所・土地を領有し、支配している。(略)神は「領主」の意味を含んでいた。土地の領有者が神であるならば、日本国全体を領有支配するに至った天皇・天皇家の祖先は、神ということになる。(略)
    7.神話とは文字のない社会で、その社会の成立の由来、さらにさかのぼって天地の誕生、男女の区別の発生、統治権の由来などを音声言語で語り伝え、また実際にそれを具体的演劇的行動によって人々に示し、社会的規範を人々に教える役割を負うものである。だから日本の統治に関して、天地の発生、生命の起源、男女の別の登場、日本国の版図の明示などが記紀の巻頭に順序をおって述べられる。そこにはじめて男女という区別の発生とその開始、その結果としての国生みの話が続く。領主の祖先であるから、それはすべて神として扱われ、神に対する尊称としてミコト(命•尊)が用いられた。ミコトのミはカミ(神)よりも古い時代の聖なる神を指す言葉だったから、ミのつく言葉はすべて「神のもの」「天皇のもの」、のちに「仏のもの」であったことを示す。(略)コトは人間どうしの義務とか約束の言葉、任務など人間の義務的行動を表すのが最も古い意味だった。それが行為者そのものを表すに至り、尊敬の接頭語ミを加えてミコトとして「貴い行為者」の意を表し、それが神々に対する尊敬の接頭辞となった。この段階に至って神は人格的存在となった。しかしそれは記紀の日本の歴史記述によって確立した意味で、世俗一般では、カミは、今まで記述してきた意味の1〜5の意味を保つ存在として畏敬されて来た。以後の日本の神々はおよそこうした本来的な成立事情を負う。したがって日本の神の性格には、恐ろしい、支配的である、という点は顕著であるが、人間を愛するとか、いたわるとか、苦しみを救うとか、慰めとかいうことはなかった。
    8.仏教の伝来に伴い、神の本質に変化が生じた。(略)つまり、「仏」は数限りなく存在した「神」の一つであるホトケ(仏)という名のカミ(神)として迎えられた。仏教を広めるに当たっては本地垂迹ということが唱えられ、日本の神は、仏が衆生を救済するために仮の姿をとって現れたものだとといた。神は本来多数いたので、その考えは受け入れやすかった。(略)平安時代以後、神は助けるもの•救うものとする意識のほうが多数を占めるに至った。(211p-220p)

    以上が引用である。

    日本人は稲作を受け入れなくても、長い長い長い間、豊かな縄文時代を過ごした。しかし、それでもやがて世界的な趨勢は受け入れる時がやってくる。世界へのアンテナはその頃から過敏だったのかもしれない。稲作の新しい「カミ」はしかし、縄文の古いカミとどう違っていたのか。また、弥生時代にしても、青銅器から鉄器に移る段階でカミの姿は大きく変わったように、考古学的知見から考えると思える。そして私には比較的スムーズに神の委譲が行われた(倭国大乱は起きなかった)ように思える。その時の個人の働きと、背景としてのカミの存在、それはどうだったのだろうか。いつかは描かなくてはならないことではある。

    少なくとも、神は「上」(直接の行政支配者)ではなかった。お「上」に逆らうことは神に逆らうことではないのである。おそらく、お「上」が神になるほどは、お「上」は神としての権威がなかったのだろう。

    救済の教えとしてのカミの伝統は新しく、また地域限定的であった(仏教)。しかし、神によって支配を受けるという伝統は古い。神は民を作らなかった。民は自然に成ったのである。その相関関係が日本の歴史を作って来た。神は無数にいる。だとすれば、必然的に神々は最上級の神になろうとして戦い合うという神話が出来てしかるべきなのに、ギリシャ神話とは違い、それは残っていない。なぜなのか。

    一つの大きな課題になるだろう。

  • 言語からのアプローチで「神」についてを語っている。
    日本の上代以前の「神」とはどのようなものであったか、「神」ということばはどのように変化してきたか等。
    そして「神」という日本語とタミル語の共通についても書かれている。
    大野晋先生の著書なので、もっと言語について突き詰めたことが書かれていると更に良かったと感じるのだが。
    しかし「神」というものが日本人にとってどのようなもので、如何なる歴史を辿って現代に至ったかが理解できた。

  • 2015年初読書。神道と仏教関連の整理をしたくて読みました。日本語という切り口から日本における神々の歴史を読みやすく!わかりやすく!ざっくりと!説明したもの。
    最後辺りのタミル語のくだりはちょい読み飛ばしましたが全体的にわかりやすくまとまっていて導入にいい本だと思います。あくまで言葉の観点から説明しているだけだし。

  • 氏が提唱した古代日本語とインド南部タミル語の共通性を示し、
    日本とタミル地域に共通した「カミ」の特性を踏まえ、一神教の「God」と比較。


    その検討から日本人の特性を見る。

    前半部は「カミ」を巡る奈良時代以降の神道研究の歴史を紹介。
    国学の祖・契沖や本居宣長の研究手法から、それらをさらに発展させた橋本進吉氏(大野晋氏の師匠)の研究を紹介。そして日本語の語源研究の重要性を指摘する。

    非常にスケールの大きい一冊である。

  • 神道関係の本かと思い、図書館でお取り寄せして借りる
    中身は国語学であった
    やまとことばに興味があるので、そのまま読む
    日本語とタミル語との共通項など面白く読めた
    神仏習合から神仏分離など敢えて調べなかったことだが
    偶然、知ることが出来てよかった

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著者プロフィール

1919-2008年。東京生まれ。国語学者。著書に『日本語の起源 新版』『日本語練習帳』『日本語と私』『日本語の年輪』『係り結びの研究』『日本語の形成』他。編著に『岩波古語辞典』『古典基礎語辞典』他。

「2015年 『日本語と私』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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