寝ても覚めても (河出文庫)

著者 :
  • 河出書房新社
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本棚登録 : 300
レビュー : 41
  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309412931

感想・レビュー・書評

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  •  映画館で「寝ても覚めても」という作品の予告編を観て、まず原作を読み直そうと思って、読みなおした。

    《この場所の全体が雲の影に入っていた。

    厚い雲の下に、街があった。海との境目は埋め立て地に工場が並び、そこから広がる街には建物がびっしり建っていた。建物の隙間に延びる道路には車が走っていて、あまりにもなめらかに動いているからスローモーションのようだった。その全体が、巨大な曇りの日だった。だけど、街を歩いている人たちにとっては、ただの曇りの日だった。

    今は、雲と地面の中間にいる。

    四月だった。》

    《雨宿りしていたカラスが飛び立った。わたしが見上げるのよりも速いスピードで上昇し、数秒で二十メートルの高さに達した。建物から出てきた人たちが、最初に出会った人に大雨と突風のことを話す姿が、小さな黒い点のようになって、あっちにもこっちにも見えた。どこまでも埋め尽くす建物の屋根や屋上は濡れて、街の全体が水浸しになったように鈍く光っていた。

    積乱雲は北へ移動し、西にはもう雲の隙間ができた。隙間はどんどん大きくなり、やがて街を越えて海まで雲のない場所が広がっていった。》

    文庫本で312ページある。7ページが最初だから、305ページの小説の冒頭と結末に置かれたフレーズを引用した。二つのフレーズはあたかも描きつづけられた同じシーンのようによく似ている。

    引用部分を語っているのは泉谷朝子、通称「アサちゃん・サーちゃん」。大学を出て、働き始めたばかりで、二十歳すぎだった女性が三十歳を越えるまでの十年間を一人称で語り続ける。

    一人称で語るということの特徴は何か。

    「私」は「私」がいない場所については語れない。主人公がいつもカメラを持っていることは象徴的かもしれない。小説の舞台で起こる出来事はすべて「私」の目と耳で体験した出来事だということだ。

    こう書くと、「なんと不自由な」と思う人もいるかもしれないが、教科書でおなじみの「こころ」(教科書引用部分)も「舞姫」も「富岳百景」もすべて一人称小説だ。この国の近代文学はここから「私小説」というジャンルを生み出してきたが、柴崎はその文体を踏襲している。しかし、「私小説」ではない、語り手が一人称の「私」で、かつ、カメラを持った「私」であることが、結末に至るまで変わらないだけだ。これが、一つ目の特徴だ。

    二つ目の特徴は接続詞。この主人公の「語り」には文章語として使われる「しかし」・「なぜなら」といった接続詞がほとんど使われない。接続詞は描写対象を意識が文脈として整理するためのツールだと考えると、この「私」は文字通り世界をそのまま受け入れてきたことになる。その世界とは、一つ目の特徴が示す通り、「私」が見たり、聞いたり、感じたり、考えあたりすることが出来る世界であって、決して超越的な、つまり「私」が不在であっても勝手に動きだしたり、「私」を外側からとらえて裁断したりする世界ではない。こうした世界観は幼児的だと言える。この小説の文章としての印象は実際、幼児的、子供的だ。

    しかし、例えば「つまり」を使うことによって、あらかじめ世界を文脈的に理解し始めて以来、ぼくたちは何かを失ってはいないだろうか。

    それにこたえる三つ目の特徴が時制だ。一つ目の引用に「今」という言葉がある。残りが、普通の過去時制で語られている中の現在形の「今」はいったいいつ、どこなのだろう。これも幼児的時制の混乱として読むことが出来ないわけではない。そうだろうか。

    語り手の「今」が、歴史的現在、過去のその時である「今」とすり替わることを、作家は企んでいないだろうか。

    ぼくは「ショートカット」について、「今このとき」が書かれている小説といったが、この小説では十年の歳月を「今このとき」のありさまとして描くことで、何かを越えて見せたのではないか。そこに、この作品の輝きがないだろうか。

    文庫解説の豊崎由美はこういっている。

    《ラスト三十ページの展開がもたらす驚きとおぞましさは超ド級。何回読み返してもそのたびに目がテンになる朝子の恐ろしいまでのエゴイストぶりは、読者をして「もう二度と恋なんてしない」と震撼させるほどの破壊力を持っているのだ。》

    引用前後の文脈を読めば、どうも、褒めているらしいが、「語り」続ける朝子に対する「エゴイスト」という、評言は当たっていないし、つまらない。

    「今このとき」の「私」を「私」が見えるものを手掛かりにして語り続け、支え続けようとする生き方を、ぼくは「恐ろしいエゴイズム」だとは思わない。むしろエゴイズムを越えたところにこそある、一回限りの存在のあらわさ、「私」以外の誰でもない「私」のあられもなさというものではないだろうか。

    そして、それは人のありさまとして限りなく美しい。

    そんなことは、気に入らなければ泣き叫ぶ赤ん坊を見ていれば、誰にだってわかることだ。
    (S)

  •  2010年度野間文芸新人賞受賞作。今年の2018年に濱口竜介監督作品として映画化されており、評価されているとの由。ただ私は今の所は映画は観ていないので、あくまで小説それだけを読んで思った事を書こうと思う。
     
     まずこれを最初から最後まで通してリアリズムの作物として読むべきかどうか考える必要がある、と通読して思った。
     というのも、日常の光景を詳細に書いていく作風は崩されていないので、たぶんこの点でリアリティーは確保されているように見えるから現実世界を書いた小説だと読んでしまうのも無理はないし、私も中盤まではそう読んでいた。しかし小説は何か特殊な断りがあろうとなかろうとフィクションであり、従ってフィクションの容れ物の中なのだから何が起こってもおかしくはない。読み手に強烈な一撃を加えようと企むなら、危険地帯に踏み込むこともしなければいけない場合が小説にはある。
     
     あらすじとしてはこうなる。社会人になりたての泉谷朝子は大阪で鳥居麦(トリイバクと読む)に出会い一目惚れして付き合うことになるがある日、麦が失踪。数年後、東京に移った朝子に麦と顔など外面がそっくりの丸子亮平が現れ、朝子は恋に落ちる。そこへ、なぜか話題の新人俳優として麦が映画やテレビの中に登場し、画面越しに麦と再会した朝子は動揺を隠せず、ついに麦に会いに行く。10年間に及ぶ朝子の恋物語、と言えば確かにそうなのだが、この小説はそんな一言で語ることができるような簡単な物ではない。
     
     採用された文体、文章のスタイルもかなり特殊だ。朝子の一人称の視点から語られる本作では、一人の人間が受け取れる五感の情報が可能な限り、良くも悪くも過剰なほどに書かれている。あたかも外部の情報の全てを人間がどのように受信し、どう認識するかを再現するかのような書きっぷりである。中でも突出しているのは視覚情報だ。外貌がそっくりの男二人をめぐるストーリーからも察せられる通り、見る/見られるという視覚の機能が本作のテーマの一つであることは明白だが、これほどの緻密さで視覚情報が描写されている小説にはなかなかお目にかかれない。
     ワンシーンの描写が凄まじく緻密である代償としてシーンとシーンの間の時間は結構飛ぶのだが、その場面転換の間に独立した二、三行程度、時には一行の文章で成り立つ小節が頻繁にカットインされるスタイルなどから本作は、例えば横光利一のカメラアイの小説として有名な『蠅』が想起される。
     五感、特に視覚の描写が凄いということを書いたが、その一方で特に序盤は人間の内面、つまり心理の叙述が極端に少ない。断定的な過去形で五感が得る情報をざくざく書いて進む文体には緊張感が漲り、静謐ささえ漂う。
     これは本当に凄いことで、たいていの小説は光景の描写もするにはするが、力を入れるのは専ら人間の心理の解剖になりがちとなるところ、本作では全く逆の書かれ方がなされている。情景描写というのともまた違う。次々と書き連ねられていく外部の情報の夥しい集積は、まるで撮影された映像を忠実に文字で再現していくかのようなのだ。そのシーンの〈場所〉を何から何まで把握していなければこういう書き方はできない、そしてたいていの小説はそれを怠って心理を書くことでお茶を濁していることを思えば、本作は横光利一もびっくりの究極のカメラアイ小説ということになる。
     
     視覚というテーマは作中の小道具にもよく反映されていて、映画、テレビドラマ、演劇などがよく出てくるのだが、朝子はそれらをただ見ているだけだ。傍観者のようであり、受動的でさえある。
     初めて鳥居麦と出会った時の一目惚れの時ですら、朝子の内面は大して書かれない。それは麦が失踪した後に亮平と出会った時もそうで、細かく描写されるのは外面的特徴だけで朝子の内面はほとんど書かれない。心理を極力書かないで小説を書く困難はさきに述べたが、その技巧は技巧だけで終わらずにある効果をも齎している。叙述が自己の五感には鋭敏な代わりに、その叙述の対象が自己の内面、自己の心理にすら向かわないのなら、もちろん他者に向かうことなどないのだとも言えて、あくまで語り手は朝子だから朝子の、他者の内面や性格や人格などを蔑ろにする傲慢さが表現されている。だから麦と瓜二つの亮平とも男女の仲になれたようにも読み取れるし、この点は解説の豊崎由美の朝子はエゴイストであるという意見に同意する。
     
     五感、特に視覚頼りで内面がほとんど書かれない朝子に変化が生じるのが、麦とテレビ画面越しの再会をした時だ。「動揺もときめきも似たようなものだと思った」(p.217)という名文が出てくるのだが、この辺りから淡白ではあるものの、心理の吐露が多くなってくる感がある。と同時に急速に現実感がなくなっていくようにも思える。
     東京で知り合った人々が俳優となった麦を〈テレビの人〉と呼ぶように多くの人にとって麦は、ただ見るだけの存在と認識されている。小説というフィクションの中の、さらにフィクション性が高いテレビの中だけの人物、これは考えようによっては麦は実在するかどうかも怪しいことを示唆していると私は読んだ。
     
     あらすじを追いかけると、朝子はとある番組の撮影現場の近くまで押しかけて麦に会おうと試みて失敗するのだが諦めずに再度、麦に会おうとし、そこで初めて麦に対し、誰かに対し、受動的ではなく能動的なアクションを起こす。それが召喚の合図であるかのように麦が朝子の前に現れる。ここからが解説の豊崎由美やら紹介文やらでやたら喧伝されている問題のラスト30ページの部分だ。この終盤の部分、大半がリアリズムで書かれた物ではない。
     地に足がついたしっかりとした性格の亮平と、どこかふわふわして謎めいた幻想的とも言える存在の麦という対立する二人の男。場所も大阪/東京、過去/現在、見る/見られる、テレビ画面の中/外、その他、この顔の似通った二人の男をめぐる本作には二項対立が多く読み取れる。そこから何が言えるかというと、麦といる時が夢のような非現実であって、亮平と過ごした時間こそ覚めた現実だったのではないかということだ。リアリティーある筆致が見事な本作で、麦だけがあまりにも現実感のない人物として提示されているからだ。タイトルの『寝ても覚めても』という言葉を本来の意味から離れてあえて分解して解釈すると、寝ていて見る夢の中でも、覚めて意識が覚醒した現実でも、同じ顔をした男と恋していることを指している、と言ったら強引だろうか。
     よしんば麦が現実世界に実在する人物だったとして、存在できていたのは過去だけだったと思うのだ。というのも、朝子の一人称による〈語りの時間の流れ〉は直線的で回想すらなく、絶対に過去に後戻りなどしない。直線的な〈語りの時間の流れ〉の維持はこの危ういテキストを小説として成り立たせる重要な要素で、この時間軸さえも混沌とさせて制約をとってしまうと書き手のご都合主義として捉えれて全く評価できない代物になってしまうので、言わば本作の生命線なのだ。
     こうした事情を抱えて、あくまで進んでいく〈語りの時間の流れ〉の中で、麦に会おうとし、会えてしまったこのラスト30ページはだから、夢まぼろしのように儚く、同時に何だか怖くもなるような不安感を煽る筆致に意図的に変化されている。麦と一緒になったまま終幕するのもまた一つの綺麗な終わり方だと思うのだが、〈語りの時間の流れ〉をさらに進ませる選択がとられた。この選択は書く側としては茨の道だったろう。
     「亮平じゃないやん! この人」(p.300)と麦に対して放つ決定的な、そしてあらゆる意味を含んだ台詞の意味や意図を的確に言い表すのはかなり難しいが(中上健次の『地の果て 至上の時』の秋幸が龍造の死体に対して言い放つ「違う」並に難しい)、この認識の転換がなければ、麦を見捨てなければ、直線的な〈語りの時間の流れ〉を維持できないし、亮平の方を上位に持ってこなければ朝子を現実世界に帰還させることができない。ギリギリのバランスではあるが、評価できる小説として完結させてみせた柴崎友香の力量をこそ、刮目すべきだと思うのだ。

  • 途中までは割と淡々と流れているわけですよ。ちょっと変かも?って思う瞬間もあるけども、それはまぁ、100年前には犬に服なんて着せなかったけど今は着せてるのを見てもまぁ慣れたかなぁ、
    程度の変かも感ですよ。

    ただ、ちょっと変と狂気との境界線は甚だグレイであって、じわじわと狂っていく感はある意味ホラーであって、女性はおおむね狂気を抱えていて、常時爆発するのが2割、潜在的な活火山は日本の山の中の火山の割合程度には存在していて、富士山がいつ噴火するか分からない程度にいつ狂気が暴走するか分からないわけで、そんなことみんな知ってるんだけども、実際に噴火したらマジやばいという事を教えてくれるわけです。

    そして亮平くんの態度も分かりすぎるくらいで、火山灰が降り積もった畑を孤独に耕していく農家の人みたいな素朴な力強さを感じるわけですよ。テレビのインタビューで、仕方ないですよって、寂しく笑ってるやつね。

  • 映画を観ている時に、画面に酔うことがある。
    美しさに見惚れるということじゃなくて、ただ単純に車酔いに似た気持ち悪さが頭をぐらぐらさせること。
    カメラがあっちこっちに振れて、そのたびに揺れて、脈絡がいまいち掴めないカットワーク。2時間が長くなって、上映が終わって黒いスクリーンが白くなってからも頭のなかにはあっちこっちへの揺れが残っているような。

    この小説にはその酔いがあった。
    「わたし」の視点が出来事を描写するぶつ切りのカットがいくつも連なって、克明に情景が描出されていく。でも、小説の中の「わたし」と、読んでいる私とは違う人間だ。だから、見る方向が予測もつかなかったり、出来事の描写が自分とは全然ちがうふうだったりもする。でも、この酔いはそれだけが原因ではないようにも思うのだ(当たり前だけど、小説だけでなくとも物語というのはたいてい私とは違う「わたし」が描かれるのだし)。

    読み進めるうちに「わたし」が無邪気で無自覚なエゴイズムに支配された女性であることがわかる。でも、「なんとなくこの人だったらこういう状況になったとき、こうするだろうな」といった反応が、まるで想像もつかないことにも気付く。

    「ああ、私は得体の知れない人間の目線の、その移ろいに酔っていたんだ」とそのときやっと思い至った。

    でももっと言えば、「この人がきっとこうするだろう」というシミュレーションが頭の中でできたとしても、そのことが「その人のことを本当に理解した」ということにはならないのかもしれない。だって人は何の意味もなく嘘をつくし、錯覚もする。一瞬の出来事で、今までの私はいったいなんだったのかと思い直すことがある。過去の自分が別人のように思えたりもする。人間には本来脈絡なんてものが、あるようでないものなのかもしれない。

    (陳腐な表現に堕してしまうが、)ラストは壮絶だった。
    酔いが回って完全に吐きそうになるくらいに気味が悪くて、人間が信じられなくなりそうだった。恋愛の気持ち悪さを突きつけられて呆然とする。「恋とかって、勘違いを信じ切れるかどうかだよね」って台詞はその通りかもしれないが、信じすぎればそれは恋ではなく毒にもなるだろう。好きな人にただ好きって伝えることが素晴らしいと信じて疑わない愚昧な「わたし」、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……。
    穏やかで柔らかい文体と瑞々しい感性で描かれた文章が、こんなに背筋の凍るようなサスペンスになるなんて思わなかった。

    人の呼吸を狂わせる小説。これは紛う事なき傑作だ。
    叙述トリック的な要素があるので、映像化がいったいどんなものになるのか予想もつかないが、濱口竜介監督の手によるこの「得体の知れない気持ち悪さ」は絶対に見てみたい。きっと、映画を観たあとの私をとりまく誰かとのコミュニケーションが、この作品によって塗り替えられてしまうような――気味の悪い期待のような不安のような何かを、痼りのように胸のうちに抱いている。

  • まずは文体の異様さ。
    徹底的に文末は過去系。
    改行にはふたつの機能があり、ひとつめは幕間のような数行、意識が集中する事物にフォーカスしたり、なんでもない描写だったり。スナップショットみたいな。
    もうひとつは時間の移行。これは普通の文章作法だが。
    時間が以降すると必ず、何月になった、何年経って何年何月になった、といった淡々とした記述が、徹底される。

    この徹底的な恬淡さが、異様だ。
    そして「わたし」が、惚れたり、惚れ直したり、昂ぶる場面でも文体は変わらないので、語られている「わたし」がまるで他人であるかのようなギャップがある。
    えげつないくらいカメラに徹した文章というか。

    文体だけで小説はホラーになり得る。
    文体の極北。小説は異形のものになる。

    題材はいつも通り、取り立てて取り上げるべきとも思われないような、細々とした物事。
    その中にたったひとつだけ、何考えているんだかわからない美青年がいて、数年後に瓜二つと感じられる男との出会いがある。
    劇的なのはそれだけ。それも終盤いとも容易に覆され。

    ストーリーよりも語り手の異様さを、語りそのものから匂い立たせていくような、小説なのではないか。
    全人類が共同して様々な文体を模索してきたが、もはやこの世の人ではないような視点を獲得して、今後人類がどういう文体や視点を獲得できるのか。
    と大上段に構えてしまうくらいの、文体の偉業だ。

    ところで映画は未見だが、何考えてるのかわからない美青年に東出くんは確かに合っていると思う。
    映像化を拒むかのような小説だが、さてどんな映画なのか。楽しみ。

  • ストーリーに関係有る無しに変わらず、朝子が考えていること1から10まで全て書いてある所、どっぷり恋愛小説のはずなのに、恋愛に偏りすぎていない感じがする所、少女漫画だったらそこをメインに書くでしょってシーンを書いていない所が新鮮で魅力的でした。

    異様な表現が出てくるたびに惹かれて、魅了するだけしといて、奇怪な締めくくりに急に突き放された感覚。

    確かに読みにくいかもしれないけど、読み終わる頃にはこの読みにくさがくせになってると思います

  • 主人公・朝子のとった行動が非難されるのはよく分かるのだけど、朝子に猛烈にシンパシーを感じる自分がいる。
    元恋人を想い続けるうちに自分の頭の中で確立させてしまったその人の像が他人からしたら全くの別人なのに自分にとっては紛うことなき元恋人そのものであるということ、
    全てを手放してでも選んだのに、ほんのふとしたきっかけで目が覚めてしまうこと、
    他人からしたらハチャメチャな女なのだけど朝子の中では何の論理の破綻もないだろうこと、なぜだかすごくよく分かる。
    当然の感情の流れに従って行動したまでである朝子が危うくて静かに狂っているのは分かるのだけど、朝子は自分が変だとは全く思ってないし、私も朝子と同じことをするのではないかと思ってしまった。

  • 恋人に見捨てられたという現実を受け止めきれず
    しかし偶然、よく似た男に出会い
    これとつきあいはじめ
    気づいたら、10年が過ぎていた話
    ところが
    テレビや雑誌とかに出てくる前彼を見ながら
    なんとなく自分は
    今の彼とこのまま暮らしていくんだろうなあ
    そんなふうに思い始めた矢先
    俳優にも飽きてしまった前彼が、なんと迎えにきてくれたのだった
    それで舞い上がってしまった主人公は
    10年分の蓄積も、すべて放り出してしまう

    帰る場所なんかない
    だから刹那的に見えるのだ
    「実家」の話の語られなさから、それを汲み取ることもできよう
    しかしそれが逆に
    つきあってる男を「帰る場所」とみなす価値観になるわけで
    その価値観が、前彼と今彼の区別に
    混乱をもたらしているようにも思われる
    あと
    本当に細かいことを言うようで申し訳ないのだが
    1999年の時点で
    「シャイニングウィザード」というプロレスの技は
    まだ存在しないのですよ…

  • 初・柴崎友香。解説をトヨザキ社長が書いてるから、きっと彼女の書評をどこかで読んで、それで入手したであろう作品。恋愛小説といえば恋愛小説なんだけど、一筋縄ではいかない内容。忘れ得ぬ人がいて、それに似た存在と出会って、とかはありきたりだけど、最後に再開してからの展開が奇想天外。そこからの二転三転がとても見ものでした。

  • 評価は真っ二つに分かれそう。
    小説の読み方によってはおもしろく感じられるところもあるのかもしれないけど。。少なくとも,ストーリーに没頭したいとか登場人物の心情に添いたいという読み方では先に進めない難しい小説だった。

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著者プロフィール

柴崎友香(しばさき ともか)
1973年、大阪府生まれ。大阪府立大学総合科学部国際文化コース人文地理学専攻卒業。大学卒業後4年OLとして勤務。1998年、「トーキング・アバウト・ミー」で第35回文藝賞最終候補に残る。1999年、「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」が『文藝別冊 J文学ブック・チャート BEST200』に掲載され、同作が収録された『きょうのできごと』が2000年刊行、単行本デビュー。その後同作は2003年に行定勲監督により映画化された。2007年『その街の今は』で芸術選奨文部科学大臣新人賞・織田作之助賞大賞、2010年『寝ても覚めても』で野間文芸新人賞、2014年『春の庭』で芥川賞を受賞。
主な著作に『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』『わたしがいなかった街で』『週末カミング』『パノララ』『かわうそ堀怪談見習い』『千の扉』『公園へ行かないか? 火曜日に』など。『寝ても覚めても』が東出昌大主演、濱口竜介監督で映画化されカンヌフェスティバルに出品された。2018年9月1日公開。書籍の増補新版も刊行されている。

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