魯山人の真髄 (河出文庫 き 9-1)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (210ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309413938

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  • うまいもの、好きなものを選び食いすることは贅沢だなどと、無知な考え方に従い、頭から気儘無用と決めてかかり、栄養のことなどに、思慮は少しも働かないようである。三度の飯が食って行けたら結構などと、自分の血肉を侮辱してかかり、身も心もおのれ自身から凡俗化して行く。


    繰り返しいうようだが、平凡生活は平凡児を生む。多数型という一定の無理型によって、型のごとくさまざまの病人を作る。なんらか病気という苦痛をみにつけぬ人間は人間でないように、天意を軽視し、粗忽にも無理に生きるからである。欲する自由食に生きるものと、不自由食に命を支えているものの相違であろう。人間世界は衛生学の発展と薬学の飛躍的発展がありながら、これと競争するかのように病苦者を次から次へと生んでいる。まことに今人の生活は一面文化人、一面、非文化人の謗りを免れまい。

    個性だとか創作だとか、口でいうのはやすいことだが、現実に表現が物をいうようなことは、なまやさしい作業でなし得られるものではない。さあ自由なものを作ってみろと解放されたとしても、決して自由は出来ないものである。料理なども細民の美食から大名の悪食までに通じていなくては、一人前の料理人とは言い難い。乞食になってみるのもムダではない。本格な床柱を背に大尽を決め込むようなこともたびたびあってもよい。陶器する心も、ほぼ同じである。


    努力というても私のは遊ぶ努力である。私は世間のみなが働きすぎると思う一人である。私は世間の人がなぜもっと遊ばないかと思うている。画でも字でも、茶事でも雅事でも遊んでよいことにまで世間は働いている。なんでもよいから自分の仕事に遊ぶ人が出てこないものかと私は待望している。仕事に働く人は不幸だ。仕事を役目のように了えて他のことの遊びによって自己の慰めとなす人は幸とはいえない。政治でも実業でも遊ぶ心があって余裕があると思うのである。

    同じ陶器を愛するにしてもその勘の悪いものは、どうしたって肝心の品物を見ることが後回しになる。伝来をやかましくいう。文献をやかましくいう。在銘をひどく気にする。とかく観点を客観におく弊がある。それにひきかえ良勘の連中はまず物を直感する。そして直感する。勘の悪いものどもから見るとき、これは危険そうに見ゆるが、その実この方が確かなのだ。真贋は元より価値もわかる、時代もわかる、国もわかる、勘とはいわゆる心眼、心学の徹底をいうことだ。学問は学んで得られるが、この勘というのは、いかんせん生まれつきだから、学び難い。もとよりいずれが蒙い蒙くないという問題でないことはいうまでもない。

    不良少年、不良少女というものがある。不良とは、悪いことをする奴のことではない。悪いことをしても咎められぬと決ったら、誰だってやるだろう。だから、不良とは悪いことをする人間への称ではなく、悪いと知っていて、止めたいとおもっても止められない意思の弱い人間だと思う。

    この過ぎたるはおよばざるを発見することは経験が教えてくれるところであって、経験はありがたいものである。それはさておき、美しすぎる、美味すぎるなどは物のなんであろうとも最上ではない。人の心で為す行き過ぎは、人の心で「ほど」が生まれないことはない。賢すぎる人間というものは、厭なものであることさえ分かればほどほどはおのずと生まれる。

    世上は稍もすると芸術と技術を区別しえず、無責任にも唯もう簡単に苦なしに芸術なりと判断していることが多い。
    是正に芸術と美術と技術とを混同し、錯覚に陥った不明瞭なる妄産物と言い得よう。かくて芸術なる好語は無暗と濫用されて馬鹿馬鹿しく安価なものに成り了った。

    腕が画を描くのではない、人間が画を描くのだ。他に問題はない。人間だ……人間だ。私は僭越ながらこれを断言して憚らない。その人間はと言うと、それは生まれつきと決定している。そしてその天才は天から雨の降るごとく自然の天与である。勉強の賜物ではない。勉強は単なる肥料にしか過ぎない。


    現代人は理知こそ昔に優れているかも知れないが、純情を恐ろしく欠いている。本当の持ち物たる純情は棚にしまっておいて、他動的に養われた理知的な仕事に夢中になって、棚にしまってある、本来の持ち物のアルコトハケロリ忘れている様である。そうして口にだけは個性発揚を臆面もなく発する。つまり理知的に発達した賢さをもって、個性は表現されるもののように考えているらしい。現今人の持つ理知性こそ、賢さこそ、器用さこそ、純真を著しく傷つけて死物にしている。

  • これ読んでたら、昔習ってた煎茶道のことを思いだしていろいろ調べてしまった。茶机椀手前って書くんだな…音で覚えてるもんだから漢字知らなかった…(本関係ない)

    名前だけは知ってる人についての本を読んでまた一つ潰せたなという感じ。料理関係でよく聞くから食通関係の人かとずっと思っていた。陶芸家だった。けど、いろんなことに詳しいようで華道やお茶についてのものが前半に。絵画、建築などに対しての話が後半に(きちんと目次になにについてあつめてるのか書いてあるけど)まとめられている。

    こういった文章が好意的なものであることは珍しいことだとおもうので特筆することではないけど、「くそじじい」感すごい筆致で、編者あとがきの「度重なる離婚歴や他人を罵倒するときの口の悪さばかりが語り継がれているのを見ると、~」という記述もさもありなんて感じ。個人的には華道について書かれているところが一番好きだった。「花は足で生ける」(自然美を表現することが華道なのだから野の花を愛でる気持ちも知りもしないで生けられるのか?みたいな感じの内容。都会だと花やで買うしかないことにも触れながら)とか。

    不満があるとすれば、いつ書かれた、あるいはどこに発表されたまなどの情報あったら嬉しかったなと思った。中野重治の本がそうしてあったから余計そう感じるのかもだけど。
    なかなかまとめて読めないものを集めたものらしく、他の本でよく見かけるものも読んでみたいと思った。
     博物館が世間から乖離しているという批判は、今もよく言われてることだから昔からなのだなと思ったり。西洋からの輸入だからいまいちなじまないのかな?

    169
    絵ができぬことは絵のなってない証左ともみることができる。

    従って絵がうまくなることは人間が口上していることだり、人間が口上すれば自然と絵はうまくなる。」
    …これ、いわゆる絵師さんの人格に幻滅してファンやめるって現象がおきるときの…。ってちょっと思った。

  • バイト先の職員さんにいただく。

  • 料理、陶芸、書道、花道、絵画……さまざまな領域に個性を発揮した怪物・魯山人。生きること自体の活力を覚醒させた魅力に溢れる、文庫未収録の各種の名エッセイ。

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著者プロフィール

北大路魯山人 (きたおおじ ろさんじん)
料理研究家・陶芸家・書家=本名房次郎。1883(明治16)年、京都・上賀茂神社の社家の次男として生まれる。1904(明治37)年、日本美術展覧会の千字文の書で一等を受賞。その後、篆刻、陶芸に手を染める。19年には古美術商を営むかたわら、会員制の「美食倶楽部」を発足させる。25年には東京麹町に、当時のセレブを対象にした日本料理の料亭、星岡茶寮を創設、顧問兼料理長に就任。26年、北鎌倉の山崎に窯を築き、星岡窯と称した。料理と陶磁器と書に鬼才を発揮、新境地を開いた。美食に人生をかけ、美的生活に耽溺した。1959(昭和34)年12月21日、好物のタニシのジストマによる肝硬変で死去。

「2020年 『魯山人の和食力』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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