うまいもの、好きなものを選び食いすることは贅沢だなどと、無知な考え方に従い、頭から気儘無用と決めてかかり、栄養のことなどに、思慮は少しも働かないようである。三度の飯が食って行けたら結構などと、自分の血肉を侮辱してかかり、身も心もおのれ自身から凡俗化して行く。
繰り返しいうようだが、平凡生活は平凡児を生む。多数型という一定の無理型によって、型のごとくさまざまの病人を作る。なんらか病気という苦痛をみにつけぬ人間は人間でないように、天意を軽視し、粗忽にも無理に生きるからである。欲する自由食に生きるものと、不自由食に命を支えているものの相違であろう。人間世界は衛生学の発展と薬学の飛躍的発展がありながら、これと競争するかのように病苦者を次から次へと生んでいる。まことに今人の生活は一面文化人、一面、非文化人の謗りを免れまい。
個性だとか創作だとか、口でいうのはやすいことだが、現実に表現が物をいうようなことは、なまやさしい作業でなし得られるものではない。さあ自由なものを作ってみろと解放されたとしても、決して自由は出来ないものである。料理なども細民の美食から大名の悪食までに通じていなくては、一人前の料理人とは言い難い。乞食になってみるのもムダではない。本格な床柱を背に大尽を決め込むようなこともたびたびあってもよい。陶器する心も、ほぼ同じである。
努力というても私のは遊ぶ努力である。私は世間のみなが働きすぎると思う一人である。私は世間の人がなぜもっと遊ばないかと思うている。画でも字でも、茶事でも雅事でも遊んでよいことにまで世間は働いている。なんでもよいから自分の仕事に遊ぶ人が出てこないものかと私は待望している。仕事に働く人は不幸だ。仕事を役目のように了えて他のことの遊びによって自己の慰めとなす人は幸とはいえない。政治でも実業でも遊ぶ心があって余裕があると思うのである。
同じ陶器を愛するにしてもその勘の悪いものは、どうしたって肝心の品物を見ることが後回しになる。伝来をやかましくいう。文献をやかましくいう。在銘をひどく気にする。とかく観点を客観におく弊がある。それにひきかえ良勘の連中はまず物を直感する。そして直感する。勘の悪いものどもから見るとき、これは危険そうに見ゆるが、その実この方が確かなのだ。真贋は元より価値もわかる、時代もわかる、国もわかる、勘とはいわゆる心眼、心学の徹底をいうことだ。学問は学んで得られるが、この勘というのは、いかんせん生まれつきだから、学び難い。もとよりいずれが蒙い蒙くないという問題でないことはいうまでもない。
不良少年、不良少女というものがある。不良とは、悪いことをする奴のことではない。悪いことをしても咎められぬと決ったら、誰だってやるだろう。だから、不良とは悪いことをする人間への称ではなく、悪いと知っていて、止めたいとおもっても止められない意思の弱い人間だと思う。
この過ぎたるはおよばざるを発見することは経験が教えてくれるところであって、経験はありがたいものである。それはさておき、美しすぎる、美味すぎるなどは物のなんであろうとも最上ではない。人の心で為す行き過ぎは、人の心で「ほど」が生まれないことはない。賢すぎる人間というものは、厭なものであることさえ分かればほどほどはおのずと生まれる。
世上は稍もすると芸術と技術を区別しえず、無責任にも唯もう簡単に苦なしに芸術なりと判断していることが多い。
是正に芸術と美術と技術とを混同し、錯覚に陥った不明瞭なる妄産物と言い得よう。かくて芸術なる好語は無暗と濫用されて馬鹿馬鹿しく安価なものに成り了った。
腕が画を描くのではない、人間が画を描くのだ。他に問題はない。人間だ……人間だ。私は僭越ながらこれを断言して憚らない。その人間はと言うと、それは生まれつきと決定している。そしてその天才は天から雨の降るごとく自然の天与である。勉強の賜物ではない。勉強は単なる肥料にしか過ぎない。
現代人は理知こそ昔に優れているかも知れないが、純情を恐ろしく欠いている。本当の持ち物たる純情は棚にしまっておいて、他動的に養われた理知的な仕事に夢中になって、棚にしまってある、本来の持ち物のアルコトハケロリ忘れている様である。そうして口にだけは個性発揚を臆面もなく発する。つまり理知的に発達した賢さをもって、個性は表現されるもののように考えているらしい。現今人の持つ理知性こそ、賢さこそ、器用さこそ、純真を著しく傷つけて死物にしている。