カンバセイション・ピース (河出文庫 ほ 3-4)

著者 :
  • 河出書房新社
3.57
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本棚登録 : 213
感想 : 9
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  • Amazon.co.jp ・本 (472ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309414225

感想・レビュー・書評

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  • すごく楽しいわけではないから読むのにすごく時間がかかった、けど、途中途中や最後にすごく自分としては光るものを見つけられてとても面白かった。考え方とか視点とかがただただ好き

  • 場面はほぼ家、なのに時間旅行をし、宇宙旅行をし、概念にまで行き着く。生と死とか、目に見えないものとか、時間とか記憶とか、追体験しているようで全く新しい体験ができる本。ストーリーは無いです。名言を抜き出せと言われれば難しいけれど、きっと意図せず体感できる。いつか思い出せる。

  • 読み終えるのにすごく体力いった。これは一気読みするのではなく、たらたら読みつつ、思い出しては読んでがいいと思った。ところどころうーん、とうなるようなところがあったり、心の琴線に触れるような表現があったりして、読んでよかったとおもう。「よく眠ってる」のところ、すごくいいです。

  •  作中にもあるが「何かについてわからない・考えてみる、という時にすぐ答えを出す・探すのではなくて、考え続けるというところに踏ん張ってとどまる」ことを小説化するのが保坂和志の文体であって、その中でもかなり長い時間思考したその"長い時間そのもの"が「カンバセイション・ピース」である。と言ってみたところで気付くのがそういう要約とか俯瞰みたいなものは「考え続ける時間そのもの」と真逆に位置するのだからこの小説のことをあらわしていることにはならないということで、だからもう読むしかない。読むという行為に流れる時間は気づかないうちに「私」が世界についてを考え続ける時間になっていって、それはいつのまにか世界が発生してからいつか来たる終わりまでの悠久なる時間について想いを馳せることと相似関係になっている。私たちは時間を俯瞰することが厳密にはできない。それは時間の外に立つことであって、私たちは時間の外には出られないからだ。
     チャーちゃんの死を反転させる「私」の思考は、この、すべてのものは時間の中にいるという考えをして、物質世界というよりもむしろ観念的な世界に対抗しようとしている。気がする。なんとなく、チャーちゃんもまた生きているような気になってくる。読んでない人にこの感覚を説明することはできない。読んだからと言ってなにかがわかるわけでもない。しかし、だからこそ、読まないとわからないのだ。

  • 『カンバセーション・ピース』保坂和志

    未定稿

     本作は、世田谷区のある戸建て住宅を舞台とした、小説家でありおそらく作者自身を投影した40代の主人公と、同居する親族、友人等の物語である。
     保坂和志作品は『プレーンソング』を前に読んでいるだけでまだたった2作目であるが、本作も同様に、話のドラマティックな展開などというものはなく、ほとんど、同居する血の繋がりがあったりなかったりする人々の、とりとめもない会話と、ベイスターズの球場での応援方法と、それからその家の3匹の猫たちの描写などで構成されている。いや、他に少なくない部分が、主人公の作家内田氏の内面の、思索の流れをたどっている。
     はっきり言って本作は、小説という体裁をとる必要があったのかはよくわからない。
     本書のテーマは、おそらく次のようなことであると思う。
    ・古い家に(その家屋に、その内装の壁とか、家具とかを含めた意味で)、そこにかつて住んでいた人、あるいは猫などの匂いとか、抽出された空気などと言ったものが、残り続けるということを証明しようと試みること。
    ・人間の視覚や認識のあり方についての考察やその限界について。
    ・神に代表される(のだと思うが)抽象的なもの、非科学的なもの、死者などの存在の可能性やそれを証立てることについて、それらと人間との関係性について
     全然まとめられていないが、それというのも、小説の中で主人公も考え続けていて、思考の内容は都度読者にも共有されるのだが、物語の進行と当然、関連するように語られるにも関わらず、しばしば内容が抽象に飛躍するから、難解なのである。哲学的な小説と言っていいのではないか?
     この主人公、実際にいたら相当面倒臭い人だなと思えるほど、わざわざ持って回った難しい言い方をしてみたりする人物である。また、作中、通常他人同士で会話する内容にしては、話が思索的に過ぎるような・・頭のいい人たちの会話という感じがする。さらに、ベイスターズのファンでもないし、ペットというものに感情移入することがどうしてもできない私のような読者には、どうにも全体にピンとこない箇所も多い。
     しかしそれにも関わらず、主人公内田が内面で思考していることに、多くの読者は「府に落ちる」感覚を持つのではないかと思う。それは、私自身も田舎の大きな古い家で高校まで過ごした経験を持っているように、ここに描かれているような、昔ながらの古い家の雰囲気、描写は、いわば日本人の原風景的なものであって、そこから生起してくる感情や思考の方向性、はたまた本書に言うようにもっと身体的なレベルのもの(視覚嗅覚とか)が訴えかけてくるのではないかと思う。
     ただこの小説では、過去に向けられた視点が強くて、この主人公に子供がいないせいか、それではここから次代に何が継承されて行くのかといったことが表現仕切れていないように思う(せいぜい大学生のゆかりまで)。自分自身、大学から上京し、本意か不本意にか、大都会のマンションの一室に暮らし続けるようになって、田舎のあのだだっ広い家は、いずれ誰も継ぐものもおらず朽ちるのであろうと思う。
     田舎の家そのものを描くのではなく、都会の中の戸建て住宅を描いているから、伝統的な「家」と、未来の高層マンションとのつなぎの地点にある小説のように思った。田舎の家的なものがもたらす雰囲気を思い出し、その点非常に好感の持った作品であった。しかし、本書で示そうとした半ば擬人化された「家」は、残念ながら今後なくなるであろうと思われた。

  • まだ良さがわからん。どうしよう。

  • とても不思議な小説。よい退屈を味わうことができる。
    世田谷にある古い民家を舞台に、そこに住む小説家、その妻、姪と、小説家の友人が経営する会社の社員三人が、猫三匹とともにゆっくりとした時間を過ごす。お盆には、かつてこの家に住んだ小説家のいとこ三人も現れる。始まりもなければ終わりもないし、そもそも筋がない。家の中にいる人々の会話と小説家の思索のみで構成される。同じ思索が何度か出てくるのは読者を試しているのか。
    カフカの「城」やイシグロの「充たされざる者」など、退屈な小説に限ってこんなに長いのはわざとなのか。
    横浜ベイスターズがさんざんなシーズンを終え、小説家が熱を出して寝込むと、一転して会話はなく、思索ばかりで占められる衝撃的な展開になる。
    - 過去と現在を問わない時間の偏在
    - 「ナオネエの影」は幽霊なのか記号なのか、何なのか
    - 白血病で死んだ猫チャーちゃんの不在と、「ある」こと
    - 視覚と聴覚
    などについてごちゃごちゃと理屈っぽい思索をこねまわし、何を言っているのか伝わらないし、伝えるのを諦めているように見えるところもあるのだが、だんだんそれにも慣れてきて、気づくと自分も似たようなことを考え始めていたりする。
    小説家の体調が少し良くなると、今度は人数を増やして、複数の会話や猫の相手が並行して進み、もはや対話の体をなしていない。いわばこの部分がこの小説のクライマックスと言える。ヤマのない小説という評もあるが、ヤマはある。
    小説家が家を離れるのは横浜スタジアムに野球の試合を見に行くときだけ。このシーンがなければ退屈すぎて途中でやめていたかもしれない。

  • 伝えたい感覚みたいなものを理解できなくはないけれど、私には長すぎたし繰り返しばかりに思えてしまった

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著者プロフィール

1956年、山梨県に生まれる。小説家。早稲田大学政経学部卒業。1990年『プレーンソング』でデビュー。1993年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、1995年『この人の閾(いき)』で芥川賞、1997年『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、2018年『ハレルヤ』所収の「こことよそ」で川端康成文学賞を受賞。主な著書に、『生きる歓び』『カンバセイション・ピース』『書きあぐねている人のための小説入門』『小説の自由』『小説の誕生』ほか。

「2022年 『DEATHか裸(ら)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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