- Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309415239
感想・レビュー・書評
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小説といえばこれだよ!
映画化できない、コトバの編み物なんだよ!
とはいえ、何が面白いのかわからないという気持ちもわからないでもない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
子供が作り話で遊んでいるときには、だいたい「死んじゃった」で終わることが多い。終わるどころか、何度も繰り返されたりする(大人の前ではあまりそういうことを言わないかもしれない)。おそらくそのような意味で、この短篇集は死と病気に溢れている。
だいたい、話から話につながる力の弱さが子供じみている。子供が遊ぶ「作り話」に大人が持ち得る文章力と(子供に比べれば)膨大な知識が当て嵌められているから、これらは子供の作り話ではなく小説に見えるし、小説になっている。
しかし子供が作り話で遊ぶような心積もりで読まないと、何も愉しくない。「死んじゃった」の連続の重みを大人は知っている。子供に遊ばれるように、遊ばれている小説の中には、事故、自殺、殺人、病気、死で溢れている。すべては「死んじゃった」であって、しかしその重みを知っていることの不思議。山下澄人は文章の書ける成人男性だ。それがこの短篇集を不思議なものにしている。 -
「皆にわかるように、誰が読んでも読み間違わないように書きましょう。」とか、言われて、書き直しをさせられる子供がいますが、そんな子が、まんま、書きました。
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表題作は、文体に慣れるまで、もしかしてただの文章下手な人なの?と不安になりながら読み進めたのですが、杞憂に終わって良かったです。解説で保坂和志が「考えるな感じろ」というブルースリーの言葉を引用していましたが、まさにそんな感じ。
これってどういう意味?とか、時系列どうなってんの?とか、立ち止まって考えていると先に進めなくなるので、何も考えずにただ書いてあることを飲みこんでいくべし・・・という、なんだろう、読み方の「コツ」を覚えればスラスラ読める作家だと思いました。
突然砂漠に旅立ったかと思えば地元の定食屋にいたり、砂漠で突然コヨーテになったり、知らない男に憑依して過去の自分を眺めたり、自分の名前も嘘だし本名わからないしなんだか支離滅裂。幽体離脱、とかSF的に読み解こうともしてみたけれど徒労だったので、なんだ夢オチか、くらいで納得するのがちょうどいいかも。
「果樹園」と「浮遊」は、同じ手法で、なんだろう、例えば「浮遊」だと駅前のカフェの客を、カメラが順番に映し出して一人ずつ紹介していくような、視点が個人じゃなく浮遊して全体を見ている、他人事の連鎖みたいな感じ。
ちょっと前に読んだ奥泉光の『東京自叙伝』では、「わたし」がいろんな人間や動物に憑依して「わたしたち」になり、あるいは「わたし」が別の「わたし」と出会ったりしていたけど、この本はどの短編もそんな印象。「わたし」が「わたし」から離れて「わたし」を眺めながら「で、わたしって誰だっけ?」っていう。
実験的でそれなりに面白かったけど、手放しで大好きというにはためらう作風。もうちょっと他の作品も読んでみようかな。
※収録作品
砂漠ダンス/果樹園/浮遊/ディンドンガー(仮)