- Amazon.co.jp ・本 (168ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309418803
感想・レビュー・書評
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『男のことで一喜一憂したり泣き叫んだりするような女にはなりたくない、誰かのお嫁にも、かかにもなりたない。女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからんのよ』。
この世には男に生まれる人がいます。女に生まれる人がいます。そういった性別の概念で捉えていくこと自体揺らぎはじめてもいる今の時代。しかし、一つの生物として男性の精子を女性が受け止め、その身体から次の命が誕生するという、生物としての人の在り方は世の移り変わりにかかわらず不変です。
そうであるからこそ、”女性がいて男性がいて、性交渉して子どもが生まれてくるというシステムそのものに対にする、どうしようもないことではあるんですけど、それがなぜなんだろうと思う”、そんな風に宇佐見りんさんが語る、まさしくその思いを抱く女性が存在するのだと思います。
『男と女がセックスしてなぜかいのちが生まれる』
私たち人が生物である以上、それは当たり前のことであって不思議なことでも不思議に思うことでもありません。しかし、そのことを、
『そいのことのほうがよっぽどオカルトに思えてしょおないんよ』
『いのちが生まれる』仕組みを『なぜか』と問いかける、そんな一人の女性が主人公となる物語がここにあります。そして、その女性は、『かかとととと結ばせたのはうーちゃんなのだと唐突に思いま』す。そして、『うまれるということは、ひとりの血に濡れた女の股からうまれおちるということは、ひとりの処女を傷つけるということなの』だとも思います。そんな思いはやがて『かかをおかしくしたのは、そのいっとうはじめにうまれた娘であるうーちゃんだった』と自分が結果的になした”かかから産まれた”ということ、そのこと自体を深く見据えていきます。
この作品はそんな主人公が『かかをにく』んでいる一方で、『かかを誰より愛している』という思いのその先に、自身が『はじめてにんしんしたい』と思う物語。泣いている『かか』のことを思い、そんな『かか』を『助けてや』りたいと思う女性の物語。そしてそれは、そんな女性が『かか』を思う強い気持ちのその先に、人の『痛み』とは何かを読者に問いかける物語です。
『幼少の時分』、『湯船に一疋の金魚を飼っていたことがある』というのは主人公のうーちゃん。『縁日ですくいとったんでも、誰かからゆずり受けたものでもない』という『そいはただ湯船にぽっかし浮かんでいました』。『まるっこい手をくるりくるりとやって捕まえようと』するも『金魚はそのたんび器用に逃げ出しては嘲わらうように沈んで』うーちゃんには捕まえることができません。しかし、『幾度目かの試みで成功した』のに『満足』したうーちゃんは従姉の明子のもとへ走りま』すが、『頭を力いっぱいぶたれ』てしまいます。そして『ぽかんと明子のことを見上げる』と『思わぬことに明子の方が泣き出してしまいました』。『あんとき明子が怒ったわけを』、『後年、自分に初潮が来』た時に知ったうーちゃん。『女の股から溢れ出る血液は、ぬるこい湯にとけうつくしい金魚として幼いうーちゃんの前に姿を現した』という幼き日の出来事。そんなうーちゃんが十九歳となったある日、『出発準備の途中に誰かが目を覚ました瞬間に旅は失敗に終わる』という考えから『四時半に目覚ましを設定して眠』ったものの、寝坊をしてしまいます。『朝食用意してもらうつもり』がなかったのにホットケーキを作ってくれる『かか』。そんな『かかはとある手術を翌日に控えていました』。その一方で『旅の出発日は入院日だった』という日に『それを放り出して旅を計画したうーちゃん』。『かかが家にいないあいだは当然家事やかかの世話をする必要があった』ものの、『それがいやで逃げ出した』のではないといううーちゃん。そんなうーちゃんには『ある思いと向き合う』という目的がありました。『自分をしゃんと見極め、目的を果たすためには、旅に出る必要があった』と旅に出る思いを自分に言い聞かせるうーちゃん。そんなうーちゃんは、その目的をこんな風に語ります。『うーちゃんはね、かかを産みたかった。かかをにんしんしたかったんよ』。そんなうーちゃんが、過去を振り返りながら、『横浜から旅先の熊野までは鈍行で十時間以上かかる』という『熊野に詣でる』旅へと赴く姿が描かれていきます。
宇佐見りんさんのデビュー作として史上最年少で第33回三島由紀夫賞も受賞したこの作品。そんな作品を読み始めた多くの読者を襲うのが冒頭の一文だと思います。
『そいはするんとうーちゃんの白いゆびのあいだを抜けてゆきました』。
30文字の中に漢字がふた文字、残りは全てひらがなという文章はどこか引っ掛かりを感じさせます。そうです。冒頭の『そいは』という一見指示語に見えて、実は聞いたことのない不思議な言葉から始まるこの一文。その先もこの『そいは』という言葉は、『そいは突然のことでした』、『そいはずっとからんだまんまです』、そして『そいはいつも唐突にはじまります』という形で使われていきます。博多弁で『それ』のことを『そい』と言います。では、この作品は博多弁で書かれているのかと思いきや、そう単純ではありません。
『そいでもほったらかすとよけい惨めになるだけだかん、ただ黒いのを除けることに集中するしかないのんよ』。
この一文を読むと『ほったらかす』は大阪弁、『だかん』は関東の方言、『のんよ』は中国地方の方言という感じで、統一性がなくなんだかよく分からなくなってきます。そんな作品には『「ありがとさんすん」は「ありがとう」、そいから「まいみーすもーす」は「おやすみなさい」』と言った例示に続いて、これが『かかの造語』で主人公のうーちゃんは、『ひそかに「かか弁」と呼んでい』ることが書かれてもいます。こんな風にこの作品では、造語と方言が入り乱れて記述されていくのです。これには正直面食らいました。そこにあるのは、スラスラとスピードを上げて読むことがなかなかに難しく、常に引っ掛かりを感じながらの読書。ブクログのレビューにも読み進めることに苦闘されていらっしゃる旨の記述が多々あるように、この作品の好き嫌いが分かれてしまうところかと思います。単純に方言だけで書かれた作品と言えば、例えば、西加奈子さんの「通天閣」など大阪弁に埋もれた作品が存在します。しかし、この作品の方言はそういった感覚ではなく、他には決してない、極めて独特で不思議な世界観の物語を読んでいる気分に誘われます。正直なところ、相当な戸惑いの中に読み進めることになりました。
そして、もう一点、『おまい』という言葉が頻出するところが読者をさらに混乱に陥れます。『おまいは覚えているかしらんけど』、『おまいに電話をかけなおしました』、そして『おまいは情けなく思うかもしれん』と大量に登場するこの言葉は、『おまい』=”おまえ”と捉えるとしっくりきます。では、そんな『おまい』=”おまえ”とは誰のことなのか?それが、うーちゃんの弟のみっくんのことのようです。つまり、この作品はうーちゃんが弟のみっくんに語りかけていく、そんな文体で成り立っているのです。
『そい』と『おまい』という大量に登場するにも関わらず一見意味不明な二つの言葉。しかし、このように落ち着いて読み解いてみるとこの作品の見通しが少し良くなって読みやすくなると思います。これから、お読みになられる方の一助になればと思い、まず書かせていただきました。
さて、そんな作品は一方でインターネット、特にSNSを使う主人公の記述が数多登場します。『実名でやるリアルのアカウントは危ないかんもってなくて、フォローしとるうちほとんどが大衆演劇のファンです』、『SNSアプリをひらき、ふだんならざっとタイムラインを追いながらお気に入りボタンを押していく』、そして『みんなフォロワーの少ない裏アカウントなので普段は大抵は一から三お気に入りくらい』といった感じで、SNSに親和性のある19歳の女性の姿が浮かび上がります。その中でインターネットについてうーちゃんが考えるところを語る記述が唐突に登場します。『インターネットは思うより冷やこくないんです』と始まる記述は、その世界が『内にこもっていればネットはぬくい、現実よりもほんの少しだけ、ぬくいんです』と説きます。それが、『コンプレックスをかくして、言わなくていいことは言わずにすむ』という特徴でもあります。『教室でひとりでお弁当を食べてる事実を誰も知らない』、だからこそ『みんな少しずつ背伸びができて、人に言えん悩みは誰かに直接じゃなくて「誰かのいる」とこで吐き出すことができる』とその『ぬくい』という感覚を説明します。造語と方言に埋もれた文章の中にインターネットに関する記述がミックスされていく物語は、ますます独自の境地へと読者を誘います。その一方で、物語は、うーちゃんが熊野を目指して一人旅をする中に、過去の振り返りが現在の記述と混在する様に登場するなど、集中力を切らすと置いてけぼりを食らいそうにも思う、なかなかに一筋縄ではついていけない展開が続きます。
ここまでレビューを書いてくると、なんともマイナスな印象が先行するイメージがあります。しかし、読み進めれば読み進めるほどにそのような感覚はいつしか消え去っていきます。それこそが、この物語が内在する凄まじいまでの推進力です。勢いと表現するのが正しいでしょうか。読んでいて物語自体が持つパワーに圧倒されていく自分を感じます。そうなってくると読みづらさは逆に不思議なリズムを体内で刻み始めます。原始的なリズムを聞くと体がどこか熱くなっていく、あの感覚です。その正体が『かか』= うーちゃんの母親の抱える痛みの痛々しさと、それを慮るうーちゃんの一途な思いです。その核心に入る前にこの作品の主な登場人物を整理しておきましょう。
・うーちゃん(本名:うさぎ): 『今こうやって浪人しとるんよ』という19歳。『大衆演劇のファン』であり、『ネットで愚痴をつぶやく』。熊野へ向かう。
・かか: うーちゃんとみっくんの母親。『ととの浮気』をきっかけに『はっきょう』する。『とある手術』を受ける。
・みっくん: うーちゃんが『おまい』と表現する高校生の弟。
・明子: うーちゃんの伯母・夕子(逝去)の娘。ババがかわいがる。多くの彼氏を作る。
・ババ: かかと夕子の母親。『愛情のほとんどすべてをおねえちゃんに、夕子ちゃんに注』いできた。
・とと: うーちゃんの父親。『浮気が原因』で家を出る。
登場人物には苗字も出てきませんし、本名も全員について語られるわけでもない中に物語は進んでいきますが、それぞれの登場人物が極めて強い存在感を放っているのが特徴です。特に、うーちゃんと『かか』の存在感は絶大です。そしてポイントとなるのは母親である『かか』の存在です。『うーちゃんとかかとの境目は非常にあいまいで、常に肌を共有しているようなもん』とも表現される二人の関係は、さまざまな『痛み』を共有してもいきます。その中で『ととの浮気を引きずり続けていたんか、そいとももっと別の要因』によって『かかがはっきょうし始めた』と展開していく物語。そんな『かか』の心の内を宇佐見さんはこんな言葉をもって表現します。
『つけられた傷を何度も自分でなぞることでより深く傷つけてしまい、自分ではもうどうにものがれ難い溝をつくってしまうということが、そいしてその溝に針を落としてひきずりだされる一つの音楽を繰り返し聴いては自分のために泣いている』。
まさかのレコード盤を比喩するような見事な表現だと思います。そんな『痛み』の中に生きる『かか』のことを思ううーちゃんは、『はじめてにんしんしたい』と考えます。『かかを、産んでやりたい、産んでイチから育ててやりたい』、そうすることによって『きっと助けてやれ』ると考えるうーちゃん。”うーちゃんはかかを救う方法として、「かかを妊娠したい」と考えるんですね。かかを産み直したい”と説明される宇佐見さん。そんな宇佐見さんは”かかがどうしようもなく悲しんでいるけれども、自分には本当にどうすることもできない”と思ううーちゃんだからこそ、『かか』が求めている『おばあちゃんであるババ、かかのお母さんからの愛情であったり、ととからの愛情』を満たしてあげるために『「かかが母で、うーちゃんが娘」という関係性を捨てて、「私が産んで育ててやりたい」と思う』と語られます。こう書いてもなかなかに難しい感覚ではありますが、この『かか』の『痛み』、そしてそれを自らのものとして感じるうーちゃんの『痛み』、この『痛み』というものを読者がひしひしと感じる中に物語は描かれていきます。そして、そんな『痛み』に打ち勝とうとするかのように熊野の山の中を突き進むうーちゃん。冒頭に描かれた『女の股から溢れ出る血液』のインパクトある『赤』の感覚が物語をどこまでも支配していく中に見る結末には、尋常ならざる凄みの中に人の生の生々しさを強く感じる物語が描かれていました。
『かかを、産んでやりたい、産んでイチから育ててやりたい』といううーちゃんの心からの思い、その心からの叫びに胸が締め付けられるような気持ちになるこの作品。方言と『かか語』に覆われた文章が気になる感覚が、いつしか原始的なリズムを感じさせる空気感の中、『赤』い血を感じる生々しい感覚に上書きされていくのを感じるこの作品。そして、そんな造語と方言で書かれた文体こそが、この作品の本質を描き出していたんだと感じるこの作品。
作品冒頭の『金魚』を描く表現に度肝を抜かれる中に、読み進めれば読み進めるほどに鬼気迫りくるこのような作品を10代にして書かれた宇佐見りんさん。刃に触れただけで血飛沫が飛びそうな感性の鋭さを感じる物語、ただただ圧倒されるのを感じたインパクト最大級の作品だと思いました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
かかを壊さず生まれたかったって…
ヒトはなぜ単為生殖できないかってことですよね。
村田沙耶香さんにも繋がるテーマ。
しかし、宇佐美りんさん、天才だな。デビュー作がこの作品だもの。
芥川賞受賞作の「推し、燃ゆ」はピンとこなかったけど、いつか、すごい出会いがある気がする。
ワクワクする作家さんです。
♪Mother/PUFFY(1997) -
久しぶりに
【読みづらい】と思った
自分は 元々頭でっかちで
思考がガチガチに固まってるので(読書で柔らかくはなっているが…)
こういう文脈などは
上手く咀嚼できず…
消化も出来ない。
こういう作品も栄養として摂取できるようになりたい。 -
かか弁が難しくて読み進めるのに苦戦した。
けど、強烈な親子の関係にリアリティがあり、これを作者が10代のの頃に書き上げるデビュー作だとはかなり驚いた。
憎悪がまとわりつくせつなくて悲しいお話だった。 -
自分には少し合いませんでした。
「かか弁」と方言、そして誰人称で書いているのかが
もうひとつ分かりずらく、難しい。最後まで読むのも苦労しました。
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ただただ圧倒された。
方言というか、のちに判明するが「かか弁」で綴られた、19歳浪人生で主人公のうーちゃんが、おまい、こと弟のみっくんに語りかける形で進む物語。
なんで書けばいいんだろう…
いろいろ言いたいことはあるのだけれど、本当にこの作者の筆致には、一度あっそれいつも思ってた…と一瞬でも頭によぎると、その後ガツン!ズルズルズル、と引き込まれてしまうんです。
物語にじゃなくて、主人公の感情に。
共感じゃなくて同調してしまう。
かかの感じる痛みをまったく同じようにうーちゃんが感じてしまうように、読み手のこちらまで、うーちゃんの焦燥と、愛憎と、懇求と、逼迫を感じてしまう。痛いほど。少なくとも私は。
そしてその痛みを紛らわすことのできるのが、うーちゃんには、SNSの、フォロワー数十人ほどの小さな非公開アカウントでの同じ趣味の人たちとのやり取りだけだった。けれどそこも…と、現実と、過去と、うーちゃんのSNSと、行き来して、それでもうーちゃんにはかかなんだ、うーちゃんは一生うーちゃんであってかかなのかもしれない…と胸が…胸が苦しい。
最後の文章も切れ味が鋭い。
最後までうーちゃんと一体化してしまった気がする。
だからこそこのラストは…
どこまでも「かか」という題がしっくりくるお話でした。
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方言が混じったような柔らかく熱っぽい文体は、絵本の語り口にも似て、なんとなく乳臭く心地よかった。でもそんなぬくい感じとは裏腹に、これは「叫び」だな。Twitterでのやりとりも出てくるけど、ツイートのように、だれかが拾ってくれるだろうという願いを込めての叫びだなって思った。
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宇佐美さんの作品を読むのは二回目です。
かか弁と独特の表現が難しかったものの、読む手が止められなくて一気見。
苦しくて、読み進めるたびにうーちゃんと一緒に不安になってこわかった。淋しい、淋しいね。 -
この作品は文章に型がない。思うがままに記述された文章は、心情を表現する事においては、適切な記述方法のように思う。
19歳うーちゃんとかか(母)との間の葛藤を独特な描写で表現されている。自分の存在意義、自分はどうしたいのかという自我は、誰もが考えることがあるのだろう。
愛されることとは、愛することとどう違うのか、考えさせられる。そしてそれは、人のDNAに刻まれ、繰り返していくのだろう。
文中、鰹節のおかかはなぜ踊るのだろうというかかの表現がある。おかかは鰹のカを重ね丁寧にオをつけた表現という説もあるが、この時のおかかの件は、かかが愛され小躍りしたいという表現のように感じさせられた。うーちゃんはどう捉えたのだろうか、気になりながら読み終えた。曼陀羅の道は続いていくのである。