第二次世界大戦 4 (河出文庫 チ 3-4)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (482ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309462165

作品紹介・あらすじ

第二次世界大戦は、連合国側による反抗へと戦局が転換していた。ドイツ、イタリア、日本は守勢にまわり始め、スターリングラードの攻防戦で形勢は完全に逆転した。シシリー征服からイタリア進攻、テヘラン会談。そして一九四四年六月六日、ついに史上最大の作戦「ノルマンディー上陸」が開始された。翌年五月、チャーチルはドイツの無条件降伏を発表した。

感想・レビュー・書評

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  • 最終巻では、いよいよアメリカの参戦により独伊日が敗戦へと向かっていく様子が描かれます。ナチスドイツの退潮に伴いソ連が中・東欧、日本での勢力拡大をもくろむ中で、欧州での民主主義が共産主義により侵食されることを懸念したチャーチルは、米国の介入を求めます。しかし、ルーズベルトの死とトルーマンの承継の狭間で時機を逸することとなり、結果として彼自身が名付けた「鉄のカーテン」がバルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステの下ろされることとなります。東西ドイツは分断され、この後約半世紀にわたる東西冷戦時代が幕開けることとなります。この過程で、英国の介入によりギリシアは民主主義を維持する一方、ポーランドはソ連の共産圏に飲み込まれる結果となり、明暗を分けます。

    広島・長崎での原爆使用に関しては、英米の意見は日本の降伏を強いるために不可欠という点で全く一致していたといいます。チャーチルの言を借りれば、その使用は「彼らの名誉を救う口実を見出し、最後の一人まで戦って戦死するという義務から逃れるだろう」と正当化されています。無条件降伏の最後通牒は、7月26日に公表されたものの日本政府に拒否され、8月6日と9日の原爆投下をへて、ようやく降伏を受け入れることとなります。この経緯については、後世にその過程がより精査される日が訪れるような思いがします。

    欧州大陸の復興について、チャーチルは仏独のパートナーシップの重要性を指摘し、ヨーロッパ合衆国に関する構想に言及しています。さらに、大戦後の世界統治機構としての国連や、北大西洋条約機構の重要性を示唆しするとともに、朝鮮戦争、イスラエル建国に伴う中東の不安定化に触れています。これらの地域諸問題は、今日にも一向に解消する兆候は無く、今後も政治・外交関係の中心課題であり続けることでしょう。

    同年7月の英国下院選挙でチャーチルは破れ首相を辞任することとなるのですが、その前にチャーチルは、投票の結果についての幻覚を見た、とのたまわっています。以前の爆風を予知したエピソードと言い、彼には常人に無い霊感が備わっていたように思いました。

    終戦前の1945年4月にルーズベルトは逝去しますが、チャーチルは盟友の死を悼んでいます。次のトルーマンに関しては、朝鮮戦争への介入を英断と評したり、マーシャルプランがいかに西欧諸国を共産主義への傾倒から救ったかを強調したりと、彼の米国に対する信頼がいかに強いものであったかが覗えます。

  • 最終巻。イタリアに侵攻して、オーバーロード作戦を実施し、ドイツを追い詰めていく。一方で終戦が見えてくると共産主義国のソ連との確執が露わになってくる。共通の敵がいる間は良いが、どう終わらせるか、イギリスの正義をどう実現していくかの舵取りが難しい。そんな中、盟友のルーズベルトが死にトルーマンに替わる。自身も最後の局面では選挙に負けて最後まで戦争の結末に関与出来なくなる。結局ヒトラードイツがスターリンソ連に置き換わっただけなのか。ヒトラーとの戦争に勝つと言う事に専念して窮地を救ったチャーチルはすごい。でも、原爆の使用には躊躇しないし、そもそも世界中に植民地を作りまくった帝国イギリスに対しての振り返りはない。こちら側から見ると一言言いたくなる。エピローグにあるが、アメリカとはイギリスが同意しない限りは絶対に核兵器は使用しないと言う取り決めだった。戦争を早く終わらせる為には原爆の力は必要だった。終戦後8年経ってもその部分への疑念は一切ない。ヨーロッパの側からの第二次世界大戦の流れが分かって良かった。

  • 長かった。なんとか読み終わった。
    ソ連の脅威、ヒトラー・ムッソリーニという独裁者の最期、ルーズベルトの衰弱、原爆の開発及び投下。劇的な幕切れで大戦は終わる。

  • 1943/11/22-27 カイロ会談 米、英、中
    1943/11/28-12/1 テヘラン会談 米、英、ソ
    1944/9/12-16 第二回ケベック会談 米、英
    1945/2/4-11 ヤルタ会談 米、英、ソ
    そして、
    1945/7/17-8/2 ポツダム会談 米、英、ソ
    →7/25ポツダム宣言発表後、英国に帰国、即総辞職

    この本が1957年に書かれ、後日論と自己弁護の要素があるとしても、この時期のチャーチルの苦悩は、まさに一国の針路を担う政治家として、戦時中のいかなる時期よりも苦しかったのではないかと推察される。

    ノルマンディー上陸作戦を成功させ(1944年6月6日)、ドイツの降伏が時間の問題となるなか、垂れ込めてきたのは戦後のヨーロッパ経営の問題である。
    この時期、日本は劣勢に追い込まれていたとはいえ徹底抗戦の構えであったし、その国土を完全に征服して無条件降伏をさせるには、あとどれだけの犠牲が必要か、計り知れない時期であった。

    そうした中で、それまで対独で一致していた、米英間の関係にテヘラン会談頃から違和感が生まれ始める。
    ルーズベルトの周囲に共産主義者が多数入り込んでいたことの影響もあるだろうが、戦後を見据え、明確な「英・米vsソ」という姿勢ではなく、「英vsソ」「仲介の米」という立ち位置に立とうとし始めていた。

    地理的特性や対日戦の状況を鑑みて、そうした米国のスタンスに致し方ない部分があることは承知しつつも、チャーチルはかねてより共産主義を嫌悪しており、ソ連がヨーロッパの中心部に進出することの危機感を誰よりも強く持っていた。

    そうした中でルーズベルトは日に日に衰弱し、チャーチル曰く「政治的に最も大事な時期」に空白が生まれてしまったことは、1953年以降の趨勢も「歴史」として知る我々から見ても、後世に与えた影響は計り知れないと言える。

    さらに言えば、戦後経営を決める極めて重要な時期に、イギリスは当然ながら長らく続いた戦争の終結という「平和」を享受する空気となり、戦争の象徴のようなチャーチルは、その座を追われるのである。

    チャーチルがこれほどまでに詳細な第二次世界大戦の記録を残した理由は多くあるのだろうが、私は最後のこの時期の苦悩が最大の原動力となったのではないかと推察する。
    それは1953年に至り、ソビエト共産主義の脅威が誰の目にも明らかになるにつれ、より強い思いとなったことだろう。

    自国を守ることはもちろんのこと、戦後経営までを成功に導くことが戦時の政治家の使命であるとともに、その成功は歴史を学ぶ良識ある国民無くして成り立たないのかもしれない。
    戦争を知らない世代となった我々が学ぶべきことはまだまだたくさんある。

    P461
    私にいわせれば、戦争が終わって敵と仲良くなることは、一致協力して外部の脅威に対処するという利点はあっても、不利益が伴うということはあったためしがない。

    読了

  • シチリア島侵攻から戦後1957年現在まで
    戦争勝利への努力に代わって戦後体制への様々な取り組みは
    現在へと直接つづいているだけに、その業績を評価することは現在難しい。
    現在において著者が英国史においてドイツに屈せず勝利を得た点で最大限に評価されているが
    これを日本人でしかない身がわかったきになるのは難しいところである。
    やはり日本人らしく日本について書かれている点からつまされるべきか。
    「このときまで、われわれは激烈な空襲と大部隊の侵攻とによって日本本土を攻撃するという考えを固めていた。まっとうな戦闘においてのみならず、あらゆる穴や防空壕においても、サムライの捨身精神で死ぬまで戦う日本軍の無謀な抵抗のことを、われわれは考えていた。私の心には沖縄の情景が浮かんでいた。そこでは(引用者注・原文まま)数千名の日本人が、指揮官たちがハラキリの儀式を荘重に行った後、降服を選ばずに一列になって手榴弾で自爆する光景であった。日本軍の抵抗を一人ずつ押え、その国土を一歩ずつ征服するには、百万のアメリカ兵の命とその半数のイギリス兵の生命を犠牲にする必要があるかもしれなかった。(P432より)」
    「一方、空と海から日本に対する破壊的攻撃がつづいていた。七月の終わりまでには日本海軍は事実上消滅した。日本本土は混沌のなかにあり、崩壊寸前だった。外交官たちは、天皇の権限の下での即時降服以外に日本を完全な崩壊から救うすべはないと確信していたが、実権は依然として軍部の手にあり、彼らは敗北を認めるよりは国民に集団自決をさせる決意を固めていた。恐るべき破壊に直面しながらもこの気違いじみた階級は何の反応もみせず、情勢を有利に転換するなんらかの奇跡を公然と信じつづけていた。(P434-435より)」
    「日本の運命が原子爆弾によって決定したと考えるなら、それは間違いであろう。日本の敗北は最初の原爆が投下される前に確定していたのであり、圧倒的な海軍力によってもたらされたものなのである。最後の攻撃の拠点となっていた海洋基地を押え、突撃に出ることなく本土軍に降伏を強制することが出来たのは、ただ海軍力おかげだったのである、日本の艦船は壊滅していた。日本は五百五十万トン以上の艦船を擁して戦争に入り、その後、分捕りや建造によってそれをかなり増大させていたが、しかし輸送船団の組織や護衛が不十分で、有機的でなかった。日本艦船は八百五十万トン以上が沈められたが、そのうち五百万トンは潜水艦の犠牲になった。同様に海に依存している島国としてのわが国は、この教訓を読み取ることが出来る。(P436-437より)」
    この日本について書かれた三点の描写を抜き出しても
    あるいは矛盾しているかのような著者の複雑な立場と物事の捉え方をみることができる。
    愚者は自身の経験から学ぶ。現在でも何ら変わらない。
    己の正しさを疑うのは困難である。
    だが自身の行動の責任は自身が取らなければ社会は成り立たないし
    その成員である資格はない。

  • ついに大著全4巻読了。ヨーロッパ戦線の詳細と相次ぐ旺盛な行動力と移動力で大西洋とヨーロッパ、北アフリカ、中東、ロシアを飛び回り電報や電文だけではなく直接会談で理解を深め共通の敵ナチ・ドイツの妥当に邁進するチャーチルが凡庸な表現ながら凄い。エピローグは戦後の流れを概ね1957年くらいまでまとめたものでアジア諸国の混沌とした状況や回教徒の問題、パレスチナ、イスラエル問題の長引くだろう紛争に言及し先見の明を遺憾なくここでも発揮している。原子爆弾の章はやはり考えさせられる。確かなことは、これで大規模かつ破滅的な上陸作戦を行わずにすみ、英米軍だけでなく日本の損失も少なくなるとチャーチルやアメリカが一致して考え実験の成功は直ちに原子爆弾の使用を決定させたということ、異論も全く出なかったと正直に記述していることである。これらについては確かに2発の原子爆弾の投下が完全に日本の継戦意欲を削ぎ、しかしここに至っても度し難いことに天皇の判断をもってつまり通常の日本人には最終的には判断が下せなかったが戦争はやめられたという事実である。これを日本人は思考を放棄した恐ろしさを今日的教訓と見るべきではないか。その他触れるべきことは多いが読了後突発的な勢いで記述している忘備録的レビューでもあるのでひとまずはこの辺りでいまはとどめておくが近現代史に興味がある人には必読の書といえよう。

  • 新書文庫

  • 第3巻でのアラメイン、スターリングラードが第二次世界大戦の転機だったとすればそれを決定付けたのがオーバーロード作戦、ノルマンディー上陸だ。独ソ開戦以来ソビエトが求め続けた西ヨーロッパでの第二戦線に対しチャーチルは慎重だった。この本では何度もチャーチルがオーバーロード作戦の邪魔をしたという風評に反論している。チャーチルが考えた作戦実行の前提条件は3つ。ドイツ空軍力の削減、北部フランスに独軍12師団を動員させず今後2ヶ月以内に15師団を整備させない、そして大部隊を海岸に維持するために少なくとも2つの人工港を作ることだ。

    ロンメルのアフリカ軍団を潰走させ、大きな被害を受け続けたUーボートに対しても1943年後半には優位に立っている。地中海を制覇したことでイタリア侵攻が始まった。7月には米空軍がローマを爆撃し、25日ムッソリーニが失脚した。ムッソリーニがいなければ共産主義のイタリアが異なる危険と不幸をもたらしたというのがチャーチルの読みであり、エチオピアを侵略しヒトラーに賭けて参戦したことがイタリアに不幸を呼び込んだ。

    ティルピッツ、シャルンホルストと言う2大戦艦も10月には無力化し、大西洋の制海権を連合国が握り米軍の兵と物資がヨーロッパ戦線に運ばれる準備が整った。チャーチルの主張はオーバーロード作戦に向けて上陸艇を準備することであり、またドイツ軍を分散させるためにイタリアへも上陸しローマへ向かう。そして上陸場所はカレー海峡とドイツに信じ込ませた。

    DデイとHアワーは早朝月明かりを利用して海岸に接近し、高潮の3時間前ー接岸しやすく、海岸を歩き過ぎないーことで決められた、それが6/5〜7の3日間でもし天候が悪ければ2週間後に延期される。兵員17万、車両2万、食料数千tが船に積み込まれたが、5日は延期された。ドイツの気象官は荒天が数日続き侵攻は不可能と予想した。イタリアでは4日ローマが陥落、5日午後9時15分気象予報官は6日朝一次天候が回復すると予想した。天候は賭けになるが2週間後まで上陸地点を秘密にできるか?そしてDデイは6日と決まった。

    ノルマンディー上陸作戦の描写そのものは全くと言っていいほど無い。チャーチルが見ているものはむしろ特に石油の補給線であり、次にどの港を確保するかだ。8/24ついにパリが解放された。この間のエピソードには映画になったヒトラー暗殺作戦「ワルキューレ」が7/20に決行されている。

    この後も戦闘は続くのだが第4巻の後半ではむしろ戦後体制をどうするのかについて英米とソビエトとの駆け引きが続いている。国連安保理の常任理事国の拒否権が生まれたのもこの交渉の中からで、3国が一致した政策を取ることで英米とソビエト間に亀裂を生まないようにするのが目的の一つであった。「最大の危険はわれわれの間で抗争を起こすことである」。また国連の議決権について小国でも1票は1票とするのでは安全が保てないというチャーチルの考えも見て取れる。

    「西ヨーロッパがやむを得ない以上にロシアに押さえられるのは望ましくない」。45年4月にルーズベルト大統領が亡くなり就任したてのトルーマンはまだ事態を把握しきれていなかった。アメリカは世界の運命を左右できる立場だったが真の一貫した構想を持ち合わせていなかった。イギリスは単独で決定的な行動を取ることはできなかった。チャーチルが警告と弁明しかできなかったと書いているのは英米が一致した行動をとり、簡単に軍を引かなければ東欧全てをロシアの勢力圏に置くことは無かったとの後悔があるのだろう。

    例えばポーランドは常にヨーロッパからロシア侵略の道だったため東部はソビエト領に西部はドイツからポーランド領に国境が書き換えられた。ポーランド人による民主的な政府を主張する英米に対しスターリンは「親ソ」政府を要求した。チャーチルは米軍が引かないように要請したが結果として東欧全てはソビエトの支配下に収まり鉄のカーテンが降ろされた。

    最後のエピソードは原爆の開発成功によりこれまでの戦争の常識が通じなくなってしまったことと日本の全面降伏だ。チャーチルは対日戦が長引くことによる損害を押さえるために必要だったと書き、また日本には大量のビラを撒いて無条件降伏するように警告したとしている。しかしチャーチルも書いているように原爆なしでも日本の海軍は壊滅し、物資も輸送できず日本が負けるのは時間の問題だった。

    「一、二回の激烈な衝撃のうちに全戦争が終結する光景が浮かんだ。それは実際、快く輝かしいものに思われた。私が瞬間に思い浮かべたのは、私が常にその勇気に感嘆してきた日本人が、このほとんど超自然的な兵器の出現のなかに彼らの名誉を救う口実を見出し、最後の1人まで戦って戦死する義務から免れるだろうということだった。」後半は言い訳としてもこれが本音だろう。

    7/26選挙に負けたチャーチルは終戦を迎えることなく直ぐに首相を辞任した。この本の執筆後エピローグでチャーチルは1946年の講演を紹介しヨーロッパ再生の第一歩は独仏両国のパートナーシップでありヨーロッパ合衆国構想にまで言及している。

  • [ 内容 ]
    <1>
    強力な統率力と強靭な抵抗精神でイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導いた歴史的な政治家チャーチル。
    本書は、歴史の舞台に直接参加した彼の手による、最も信頼すべき最高の第二次世界大戦の記録だ。
    深い歴史観に基づく著作活動によってノーベル文学賞を受賞した彼の歴史物語を堪能できる。
    第1巻は、一九一九年から第二次世界大戦勃発の翌年までを描く。

    <2>
    一九三九年九月、ついに英仏両国はドイツに宣戦布告し、史上例を見ない規模の世界大戦が勃発した。
    翌年五月、ドイツ軍はオランダとベルギーに侵攻してフランスに進撃、たった三週間でフランス軍は壊滅状態に陥った。
    イギリスは最初は無防備のまま孤立するが、敵対的中立を装ってヒトラーを支援するソ連をよそに、「単独で」ヒトラー・ドイツと耐久戦を始める。

    <3>
    ソ連の参戦は連合国側には歓迎すべきことだったが、強力なドイツ軍を相手に、その抵抗力は充分とは言えなかった。
    一九四一年十二月、日本の真珠湾奇襲攻撃によってついにアメリカが参戦に踏み切り、戦線は欧州から一挙にアジア太平洋地域へと拡大した。
    枢軸側の猛攻の前に連合国側は苦戦を強いられたが、カサブランカ会議やカイロ会談など反抗の準備が始まる。

    <4>
    第二次世界大戦は、連合国側による反抗へと戦局が転換していた。
    ドイツ、イタリア、日本は守勢にまわり始め、スターリングラードの攻防戦で形勢は完全に逆転した。
    シシリー征服からイタリア進攻、テヘラン会談。
    そして一九四四年六月六日、ついに史上最大の作戦「ノルマンディー上陸」が開始された。
    翌年五月、チャーチルはドイツの無条件降伏を発表した。

    [ 目次 ]
    <1>
    第1部 不幸への一里塚―1919~1940.5.10(勝者の愚行―1919~1929;絶頂期の平和―1922~1931;アドルフ・ヒトラー;いなごの年―1931~1933;暗黒化への背景―1934;崩れた空軍の均衡―1934~1935;挑戦と反応―1935;イタリアに対する制裁―1935;ヒトラー出撃す―1936;幕間の舞台裏―1936~1938 ほか)

    <2>
    第2部 単独で―1940.5.10~1941.6.22(挙国連立;フランスの戦い;海への進軍;ダンケルクの救出;獲物へ殺到;ふたたびフランスへ;本土防衛と反撃体制;フランスの苦悩;ダルラン提督とフランス艦隊―オラン;窮地に立って ほか)

    <3>
    第3部 大同盟―1941.12.7~(われわれの同盟国ソ連;ルーズベルトとの会見;ペルシアと沙漠;真珠湾!;世界大戦さなかの旅;英米の一致;シンガポール陥落;Uボートの天国;アメリカ海軍の勝利。珊瑚海とミッドウェイ島;「第二戦線をいま!」 ほか)

    <4>
    第4部 勝利と悲劇―1943~1945(シシリーの征服とムッソリーニの失脚;人工の港湾;イタリア進攻;地中海における停頓;北極洋の輸送;テヘラン会談―開幕;テヘラン―難問と解決;カルタゴとマラケッシュ;チトー元帥―ギリシアの苦悩;アンチオ攻撃 ほか)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 長かった。 (−_−;)
    途中で何度やめようと思ったことか。
    ストレスなく読むには私には教養がなさ過ぎました。

    ヨーロッパを中心とした第二次世界大戦の、主要な場所、戦闘とその計画、重要な会談等々が頭に入ってないと
    読んでいて、もうワケワカラン。

    チャーチルさん、宰相の書く文章じゃないっす。
    こまかすぎます。

    加えて日本語訳も分かりづらい。
    ずいぶん昔に訳されたっきりみたいです。抄訳が読みたかった。

    でも読んで良かった。
    本書を読んで、自分は日本から見た第二次世界大戦しか知らなかったという事がよく分かった。

    アメリカって、太平洋だけでなく
    ヨーロッパでも戦ってたんだね~。

    ノルマンディー上陸作戦というのが、だいたい何なのかようやく分かった。

    本シリーズ読破は今年の目標30個のうちの一つでした。
    次はベストアンドプライテストで、ベトナム戦争について理解を深める。

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