意味の論理学 下

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (286ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309462868

作品紹介・あらすじ

ドゥルーズの思考の核心をしめす名著、渇望の新訳。下巻では永遠回帰は純粋な出来事の理論であり、すべての存在はただひとつの声であるという「一義性」論から言葉、性、幻影、セリーへと、アリスとアルトーと伴走する思考の冒険は驚くべき展開を見せる。ルクレティウス論、トゥルニエ論などの重要テクストも収録。

感想・レビュー・書評

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  • 「深層は騒々しい。ガタガタ、カサカサ、ギシギシ、パチパチ、爆発音、内部対象の破裂音、また、それらに反応する器官なき身体の不明瞭な叫び-息、これらすべてが音のシステムを形成し、口唇的-肛門的な貪欲を立証する。そして、この分裂病的システムは、恐ろしい予言と不可分である。話すことは食べることと糞をすることの中で切り出されるだろう、言葉は糞の中で切り出されるだろう、言葉とその一義性は……という予言である(アルトーは「存在者のうんことその言葉のうんこ」について話している)…」(ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』下第27セリー「口唇性」p35)



     われわれが発する、この一語一語、書き放たれる線、タイプされる十指のこのピストン運動は、そのそれぞれにおいて、排泄物なのだろうか? わたしたちは言葉を発しこうして文字を書くことで、排泄を遂行して、小さなカタルシスを得ようとしているのだろうか、日々?

     生まれたばかりの乳幼児は生きることにまさに必死だった、それゆえ、敵と味方の区別がいちはやく為されなければ命を落とすだろう。味方とは、母の乳房であり、乳児の口であり、乳児の口から摂取される流動体である、そして敵とは、肛門であり、糞であり、流動体のただ硬化したすがたであった。生命体のエネルギー備給の観点からすると、エネルギー源に味方するのは正当な反応であるといえる(その搾りかすを嫌悪する人間はめずらしい生物ではないか)。

     エネルギーとは食物の栄養素ではあるが、ではなぜ、わたしたちはこの栄養素という物質を摂取したからといって、甘えたり、性交したり、自殺したりすることができるのだろう。

     われわれ人間に対して、存在の形而上学ではなく、まさにこの”リビドー配分”の観点から分析を要することを提起した人物が、フロイトであり、その後任がドゥルーズであった(ただしドゥルーズは、死ぬその最後のときまで哲学者でありつづけたし(自殺と芸術)、彼は、同時代の誰よりも哲学することが好きだった)。
     フロイトにおいて、リビドーのこの曲がりくねった倒錯、われわれの倒錯(マゾであること、サドであること、甘えること、掌握すること、また、自身の病みを公にしたいという衝動の病気…など)は、ほかでもなくあの、わたしたちが乳児であった頃の、そしていまもなおそうであるところの、乳房と糞便とのあいだのあのダブルバインドに帰せられる。

     われわれははじめ、糞便の、深層の、喧噪のなかにいた、そこではエネルギーがそのままのかたちで(すなわちかたちをとらないというかたちで)流動しており、われわれも、いまだ「私」の渦が発生する以前の未分化な状態にとどまっていた。
     そこからわたしたちを救い上げてくれたのが、乳房であり、高所に座する”善き対象”であった。善き対象に味方したとたん、われわれはわれわれがそれまでいた存在の喧噪の海を”悪しき対象”として忌むようになり、こうして、その悪しき対象を祓う場としての「トイレ」の観念がわれわれに導入されることと相成る。排泄は小さなよろこびを伴う、それは、悪しき対象を祓い、善き対象に向けてまたすこし上昇したように感じられるあの浮遊間、善き対象との同一化に、ほんの一瞬近づけるという、あの至高にあずかれるのである。
     こうして乳児は、そしてその延長線上にいるわたしたちは、善き対象と悪しき対象という「二項世界」に生きており、わたしたちのリビドーという欲動のエネルギーは、一方を弔辞し、それによってもう一方を慰めるという仕方において、日々わたしたちのあらゆる行為や精神活動へと備給されているようなのだ。

     ”愛されたい”という、日常われわれが抱く高度な観想は、そのままこのリビドーの享受、および、自己のリビドーを善き対象へと昇華させる手続きとなるが、”愛されたくない”という下降運動もまた、というか、まさにそんな反-生存的な指向ができるわれわれ人間だからこそ、リビドーは高度に屈折し、パパとママに、乳房と糞便に、悪しき対象と善き対象のプリズムに乱反射しては、ついに倒錯を迎える。倒錯者……われわれの誰もがそうである、なぜなら、善き対象への同一化という純粋な生真面目さにおいてさえそうであるからである。「靴下を膣に比べること、それはまだいい。それは毎日みんながしていることだ」。むしろこの倒錯が肯定されるべきでもある。自身の倒錯の肯定とは、すなわち解放であり、倒錯によって凝り固まっているくせにその事実を覆い隠そうとする社会体(上司の指令が飛び交い、互いが指令言語を発することに賛嘆し、従属することにまた快楽を得るふしだらなビジネスマンたち……)を転倒させ、そうして、肯定によって到達できる地平があることをまさにドゥルーズは示唆している。「ドラッグやアルコールの使用を決定している社会的疎外の技術を探検の革命的手段に転ずるなら、ドラッグやアルコールの効果(その「啓示」)を、物質の使用とは独立に、世界の表面で、そのまま再び生きて取り戻すことができるという希望を放棄することはできない。…身体の刺し傷を突然変異させるための表面への機銃掃射、おお、サイケデリア」(上第22セリー「磁器と火山」p281)。





     こうして、倒錯について語ることは、糞と乳に端を発した。それは、われわれがなぜ「愛されたい」と渇望し、しかし「他者がこわい、ひとりでいたい」というナルシシズムに沈潜もし、また、「死にたい」とか、「わたしは病気です」とかいった、自身の病いを公表せずにはいられない病気をわれわれにもたらすのか、こうしたきわめて現代的なテーマを説明する、哲学的にして精神分析的、文学的にして文明論的、生物学的にして家族論的、アルコホリック(フィッツジェラルド)にしてサイケデリック(バロウズ)なアプローチである。




     ところで、ガタリとともに『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』を書いていた197,80年代のドゥルーズは、パパとかママとかに執着を隠さない精神分析の色眼鏡、オイディプス三角形に患者を閉じ込める(まさにフーコーが指摘した、われわれに対する”大いなる閉じ込め”ー監獄、学校、病院ーにひきつづいて、今日ではその任を精神分析が占めることになったという)精神分析の肩こりに対して、一転して痛烈な非難を向ける。そして精神分析以前の、存在の未分化な喧噪、そのカオスが現勢化したすがたとしての、わたしたちの言語、音楽、社会、文明、歴史を、そのカオスの現勢化ありのままの瞬間を捉えることによって論じることを試みた。
     フロイトに関して彼が継承した遺産が、このドゥルーズ中期においてはじめて批判的かつ正当に受け継がれた、と解するべきであろうか?


    (以上、政策科学部SNSのMy日記より抜粋!)

  • 勉強会のためにトゥルニエ論をゆっくり読んでいる。

  • [ 内容 ]
    <上>
    ルイス・キャロルからストア派へ、パラドックスの考察にはじまり、意味と無意味、表面と深層、アイオーンとクロノス、そして「出来事」とはなにかを問うかつてなかった哲学。
    『差異と反復』から『アンチ・オイディプス』への飛躍を画し、核心的主題にあふれたドゥルーズの代表作を、気鋭の哲学者が新訳。

    <下>
    ドゥルーズの思考の核心をしめす名著、渇望の新訳。
    下巻では永遠回帰は純粋な出来事の理論であり、すべての存在はただひとつの声であるという「一義性」論から言葉、性、幻影、セリーへと、アリスとアルトーと伴走する思考の冒険は驚くべき展開を見せる。
    ルクレティウス論、トゥルニエ論などの重要テクストも収録。

    [ 目次 ]
    <上>
    純粋生成のパラドックス
    表面効果のパラドックス
    命題
    二元性
    意味
    セリー化
    秘教的な語
    構造
    問題性
    理念的なゲーム
    無-意味
    パラドックス
    分裂病者と少女
    二重の原因性
    特異性
    存在論的な静的発生
    論理学的な静的発生
    哲学者の三つのイマージュ
    ユーモア
    ストア派のモラル問題
    出来事
    磁器と火山
    アイオーン
    出来事の交流

    <下>
    一義性
    言葉
    口唇性

    善意は当然にも罰せられる
    幻影
    思考
    セリーの種類
    アリスの冒険
    第一次秩序と第二次組織
    付録(シミュラクルと古代哲学;幻影と現代文学)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784309462868

  • 上巻がルイスキャロルの言葉遊びによる、言葉の次元からの、表面の次元の構築だったのに対し、下巻は主に事物の次元からの精神分析的手法を用いた表面の次元の構築を試みている。

  • 面白い。楽しい。

      本能は、ある生活の様式を永続させる努力を常に表明[=発現]する限りにおいて、当の生活の様式を保存する傾向がある。
       ――「本能と本能の対象」Ⅲ.ゾラと裂け目 G.ドゥルーズ

  • クロソウスキー論収録。

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著者プロフィール

(Gilles Deleuze)
1925年生まれ。哲学者。主な著書に、『経験論と主体性:ヒュームにおける人間的自然についての試論』『ベルクソニズム』『ニーチェと哲学』『カントの批判哲学』『スピノザと表現の問題』『意味の論理学』『差異と反復』『ザッヘル゠マゾッホ紹介:冷淡なものと残酷なもの』『フーコー』『襞:ライプニッツとバロック』『フランシス・ベーコン:感覚の論理学』『シネマ1・2』『批評と臨床』など。フェリックス・ガタリとの共著に、『アンチ・オイディプス』『カフカ:マイナー文学のために』『千のプラトー』『哲学とは何か』など。1995年死去。

「2021年 『プルーストとシーニュ〈新訳〉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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