神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)

著者 :
制作 : 平川 祐弘 
  • 河出書房新社
3.81
  • (20)
  • (31)
  • (29)
  • (2)
  • (1)
本棚登録 : 438
レビュー : 31
  • Amazon.co.jp ・本 (509ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309463148

作品紹介・あらすじ

二人の詩人、ダンテとウェルギリウスは二十四時間の地獄めぐりを経て、大海の島に出た。そこにそびえる煉獄の山、天国行きを約束された亡者たちが現世の罪を浄める場である。二人は山頂の地上楽園を目指し登って行く。永遠の女性ベアトリーチェがダンテを待つ。清新な名訳で贈る『神曲』第二部煉獄篇。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • ダンテの神曲の2篇目、煉獄篇です。地獄篇を無事に抜けたダンテが煉獄山を登り、地上楽園を目指していきます。
    「煉獄」という語は少しなじみのない言葉ではないでしょうか。私は本書を読んで初めて、こうした世界が地獄と天国との間にあることを知りました。そこに描かれるのは、地獄篇に立ち込めているような悲惨さではなく、「ここを最後まで登り切れば必ず天国に行ける」という希望をよすがとして苦役に耐える魂たちの姿です。しかし一方で、突然現れたダンテ一行に「あの人には影があるぞ」と驚いたり、そのような表情のまま恐る恐る近付いて「自分のことをどうか現世の人に伝えてほしい」と口々に懇願したりする姿は滑稽でもあります。そのためか、登場人物からはあまり悲愴な印象を受けませんでした。
    現世で山を登るときには、たいていは(私は山登りの経験はないのですが)頂上に近づくにつれて疲労が増していくものだと思うのですが、煉獄山ではそうではないようです。煉獄の門をくぐるとすぐに急峻な岩場が現れ、ダンテは息も絶え絶えにそこを越えていきます。その描写も巧みで、読者としては「まだ先は長いのに初めからこんなに疲れるなんて」という感情に襲われます。通常の山とは逆に、煉獄では登れば登るほど身体が軽くなっていくようなのですが、読みながらその軽やかさを追体験できるか、と言えば、私にはとても同意できません。このもどかしさはやはり私が現世に生きているからなのでしょうか。ですが、このような描写もやはり滑稽なものなのでしょう。
    そして、地獄をずっと2人で旅してきた一行ですが、本書中盤の第21歌からはもう一人、ラテン詩人のスタティウスが加わります。ウェルギリウスを心底尊敬していたというこの人物の登場によって、作品の雰囲気はがらりと変わります。彼とのやり取りを通じて、ウェルギリウスの人柄が、主人公であるはずのダンテ以上に伝わってくる気がしました。地獄では厳格な人物という印象のあった彼の、スタティウスの一途な(?)想いに触れた時に表す心情などは、とても親しみやすいものに感じられます。このような描写のおかげか、本書は先の地獄篇よりもずっと明るい印象を与えるものとなり、原題の「Commedia」にずっとふさわしい内容になったような気がしました。そうした意味では、私個人としては地獄篇より煉獄篇の方が好みであるかも知れません。平川祐弘訳。

    (2009年7月入手・2011年2月読了)

  • 2009年1月19日~20日。
     面白さからいったら地獄篇の方が上かも知れない。
     それでも、これは面白い。
     ベアトリーチェってのもかなり自惚れが強い女性だし、ダンテも案外傲慢で情けなくて、甘えん坊。
     キリスト教ってのもどうなの?
     結局は神の復讐の訳でしょ。
     なんて読み方はやはり邪道だろうか。

     訳者の平川氏の功績がやはり大きいと思う。
     この作品を盲目的に賛辞するのではなく、きちんと俯瞰してダメなところはダメ、首を傾げるところはおもいきり傾げる。
     そして懇切丁寧な注釈。
     大抵は注釈なんて斜め読みするんだけど、ここでの注釈は本当に役に立つ。
     痒いところにきちんと手が届くのだ。

  • 煉獄というのは、天国へ行く前に現世の罪を浄める場所。
    これはカトリックだけの教えのようです。
    プロテスタントには天国と地獄しかありません。

    ここも天国ではありませんから、地獄ほどではありませんが苦しみに悶えながら罪を償っています。
    本来罪を犯した人は地獄に行くのではないの?
    一度の罪で地獄に落とされ永遠に地獄で苦しみ続けなければならない人と、煉獄でゆっくりゆっくりと罪を浄めて天国へ入れる人のちがいがわかりません。

    だたし、どんな理由があろうとも罪を犯すのは結局本人の意思。
    “天球は君らの行為に始動は与えるが、
    万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても
    善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。”

    今話題の『沈黙』のテーマにも重なりますが、こんなことも。
    “ 至高の神よ、口にするのも畏れ多いが、
    神の正義の目はよそを向いておられるのか?
    それとも神の深謀遠慮は
    われわれの理解の及ばぬところで
    こうした禍を福に転じる用意を整えておられるのか?”

    “普通、正義を心に秘めている人は多いが、射るのは遅い、
    議を経ずには矢を弓につがえぬからだ。”
    議を経ないでやりたい放題の人、最近多いですね。

    一昨年読んだゼイディー・スミスの『ホワイト・ティース』の中に出てきた疑問
    “もし自分が神に許され楽園に行けたとしても、自分の足元に数え切れないほどの救われなかった人たちの屍があるとするのなら、それは本当に楽園と言えるのだろうか。”
    これに対する答えはまだ私の中にない。
    天国篇を読んで答えは出るだろうか。

    ダンテ以前とダンテ以後で大きく変わったと言われるヨーロッパの文学と美術。
    それほどの芸術のきらめきが天国篇では薄れて、宗教色が強くなるらしい。

    “詩行が独立して読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。”
    と訳者が書いているのを読んで、日本では『神曲』を芸術作品として読んでいたのだと気がつく。
    てっきり宗教作品だとばかり…。
    だから明治の文豪たちがこぞって絶賛していたのか。今気がつきました。

  • 暗黒の地獄を抜け出した主人公ダンテと師匠ウェルギリウス。ふりそそぐ高貴な光に無上の悦びを覚えます。静謐な水辺のほとりに降り立った彼らの前に、ほどなくすると、煉獄(れんごく)への渡し守となる眩い天使が乗った船が静かに近づいてきます……。

    物語の設定は1300年春、復活祭。35歳のダンテは峻厳な森の中で迷い果て、行く手を獣に阻まれていたところを、古代ローマ屈指の詩人ウエルギリウスに救われます。実のところ、このウェルギリウスは、天国に身を置くベアトリーチェという女性に懇願され、正道を踏みはずして混迷していたダンテを教え導くために遣わされた賢人です。

    なんと現世ダンテの長年の想い人だったベアトリーチェ。
    実際、ダンテは2回ほどしか彼女に会ったことがないようですが、まるでクピド(キューピッド)の黄金の矢に射られたように、熱烈に彼女を想い、愛し続けます。プラトニックな純愛に苦悩するダンテのさまは、「若きウェルテルの悩み」の比ではありません。その後、彼女が24歳で夭逝してしまうと、ダンテはほとんど発狂寸前だったようです。

    そのような詩人ダンテの切ない恋慕のせいでしょうか……「神曲」の主人公ダンテは、天国で待っている愛しいベアトリーチェに会いたい一心で、生き身のまま、地獄、煉獄、天国の旅を決意したのでした。
    眼前に立ちはだかる煉獄の峻険な峰々を這いつくばりながら登っていきます。時折くじけそうになるダンテに向かって、師匠ウェルギリウスは、ベアトリーチェがおまえを待っているのだ! と叱咤激励します。そこで奮起するダンテも可愛らしい。愛は強し。

    さて、地獄は罪人が自己の罪のために永劫に責め苦にあう場所でしたが、煉獄は、天国行きをほぼ約束された人々が魂を浄化するために集う助走場――自動車教習所でいえば仮免状態?――というイメージでしょうか。もっとも、その浄化のためのトレーニングメニューは、地獄の責め苦とさほど変わりのない過酷なものです。
    ダンテは、そこでも様々な歴史上の人物に遭遇して話を聴くことができます。次々に登場する個性的な魂たちは、まことにまことに饒舌です。

    煉獄の門を通過すると……
    第1の環道 高慢の罪を清める者
    第2の環道 嫉妬の罪を清める者
    第3の環道 怒りの罪を清める者
    第4の環道 怠惰の罪を清める者
    第5の環道 貪欲の罪を清める者
    第6の環道 大食の罪を清める者
    第7の環道 色欲の罪を清める者

    「神曲」は、キリスト神学とギリシャ・ローマ文学の知識が少々必要で、地獄から煉獄へステージが上がると、より聖書の知識が求められます。ですが、平川氏の訳と訳注が秀逸なので、あまり細かいことにこだわらなければ、どんどん読み進めていけると思います。

    煉獄の旅の最後は、天国の一歩手前。
    さて……ここからが問題です。生き身のままたどり着いたダンテですが、もはや人間の理性をもってしては天国へ昇ることはできません。また、これまで導いてくれた賢人ウエルギリウスは、天界に昇ることが許されていない地獄リンボの住人のはず……。

  • 難しすぎてなにがなんだか...
    途中から心折れてあらすじの部分を一気読み。
    そっちの方がやっぱり分かりやすかった。
    またいつか読み返すつもり...

  • 犯したそれぞれ異なる罪に対して、煉獄ではそれぞれに対応する徳をもって浄化される。

    ダンテはなんという教養と想像力をもって、この煉獄篇での浄罪の制度を描き上げたのだろう。まばゆすぎるその様子はどんな五感をも超えていて、想像力、夢やまぼろしを見る力、それにおそらくは信心深さまでをも総動員することでのみ経験される。

    この経験こそ、私たちが文学に求める救済ではないだろうか。とはいえ、読みこむごとにこの財産は西欧の隣人たちのものであって、自分との継承関係の希薄さに、孤独感と疎外感が募るのだけど。

  • ダンテ(平川祐弘訳)『神曲』河出書房,2009(初版1966)
    全33歌。ダンテはウェリギリウスに導かれて、地獄からはいあがってきた。一応、煉獄は南半球にあるらしい。カトーに出迎えられ、船でついた魂たちと煉獄の山を目指す。煉獄(Purgatory)は古代にはなく、中世にできあがった概念らしい(ル・ゴフ『煉獄の誕生』未読)。ダンテによれば、死者の魂は現世で死ぬと、海を越えて、煉獄に運ばれてくる(この点、あの世を海の向こうと考える日本神話の一部とも共通していて、興味深い)。煉獄は死の前に神と和解した魂が、七つの大罪(高慢・嫉妬・怒り・怠惰・貪欲・大食らい・色欲)を清めるところで、ダンテは煉獄の入口で天使に七つのP(peccato:イタリア語の「罪」)を額に刻印され、煉獄の七重の山を上っていく。一つの罪をみるごとに天使にPを消してもらい、賛美歌が聞こえてきて、身が軽くなる。地獄は下りだが、煉獄は上りである。高慢の罪の魂は岩を負わされていたり、嫉妬の魂はただ座り込んでいたり、貪欲の罪は寝そべることを強いられていたり、色欲の魂は火で灼かれていたりする。興味深いのは「大食らい」の罪で、この罪を犯した魂は痩せこけている。ダンテは食物を摂る必要のない魂がどうして痩せこけるのかと疑問を発する。ここで、煉獄の浄罪を終えて旅を共にするスタティウスが答える。スタティウスは西暦50年前後の詩人で隠れキリスト教徒だったという設定、ウェリギリウスを尊敬している。彼の知識では、心臓の血から精液が生じ、「自然の器」(子宮)で血と結合し、生命がうまれるが、その脳を作るに及び、魂が生じる。魂は死んでも、その活動をやめず、生きていた時と同じく形成力によって霊魂の体をもつようになる。これを鏡が姿をうつす例で説明する。要するに死んでも体があるから、痩せこけるのである。この他にも水蒸気が冷やされて雨になるなどの気象学の知識も披露されている。
     ダンテとウェリギリウスとスタティウスは七つの大罪の浄めを通りぬけ、最後の炎を通り抜けると、頂上のエデンの園で、ベアトリーチェと再会する。ベアトリーチェはいきなりダンテを叱りつける。ダンテは9才のときに、ベアトリーチェとはじめて会い、18歳のときに再会、その後、ベアトリーチェは銀行家に嫁いで、25歳で死んだ。要するに初恋の人である。天国に上ったベアトリーチェは、ダンテが自分が死んだ後に他の女性にうつつを抜かし、身をもちくずして、このままでは地獄落ちになるのを心配して、ウェリギリウスに泣きついて、ダンテに地獄と煉獄をみせたのであった。ダンテは十年ぶりに会ったベアトリーチェから小学生のように叱られて声もでない。それでも、なんとか前非を悔い、マテルダに助けられて忘却の川レテで罪の記憶を洗いながし、ダンテはベアトリーチェとともに天に昇ることになる。
     要するに、35歳のいい年をした男が、初恋の人に子供のように叱られる話であるが、仏教でも観音さまは慈悲深い女性のようだし、なんか恋した人に叱られたい願望ってあるのかなと思う。
     ウェリギリウスは第30歌で静かに姿を消す。ベアトリーチェは結構自意識過剰。
     「私がその中にいた美しい肢体ほどお前の目を/喜ばせたものは自然にも人工にもありませんでした。/その肢体はいまは大地へ塵となって散りました。/私が死に、それで至上の喜びが脆くも失せたというのなら、/どうしてはかない現世のほかのものが/おまえの心を惹き得たのでしょうか。」

  • ダンテはウェルギリウスに導かれ、最上部の地上の楽園(エデンの園)を目指して七つの圏(わ)を登っていく。そのそれぞれの圏(わ)では、キリスト教の七つの大罪(高慢、嫉妬、怒り、怠惰、貪欲、大食らい、色欲)を犯した魂たちがその罪を浄められている。
    その浄められ方がなるほどそうなのだろうという感じ。
    地獄編もそうだったが、ダンテさんの想像力、描写力はやはり凄い!

    Mahalo

  • 煉獄とは、天へ昇る前に自らの罪を浄める場所です。煉獄の山を登り終えたとき、全ての罪が浄められるとされています。

    ダンテは星を見上げ、ベアトリーチェの愛を感じ「信じること、希望を持つこと、そして人を愛することこそが、人を支える基本的な力である」ことに気付きます。

    煉獄の山では、かつて自惚れたり高慢であった人々は重い石を担ぎ、嫉妬深かった人々は目の瞼を縫い付けられ、怠惰であった人々は走り続け、貪欲であった者は腹這いで伏し続けるという試練に遭っています。

    詩人ウェルギウスは説きます。
    愛とは人の好みの感情に似ていて、好きな方に流れていく。人は本来の努めの度が過ぎてしまったり、道を逸れてしまう結果、償いをするために善をつむこととなる。つまり良い行いも、悪い行いもともに愛から発しているということなのだと。

    また煉獄ではひとつの魂が浄化されると、天と地が呼応します。
    そこでダンテは、魂は個人的な存在ではなく、ひとつの存在がその他全ての存在に関わっており、誰かを思う気持ちや愛があってこそ魂は浄化され、すべてのものが、ひとつの魂の浄化を喜ぶことを知ります。

    煉獄の最後の試練である、炎を浴び身を浄めることで、ダンテは降臨するベアトリーチェとついに再開することができます。

    ベアトリーチェは母の優しさをもってダンテを責めます。
    あなたは私が死んでしまうと悲しみのあまり我を忘れ、正道を見失った。
    失望したが、どうしても見捨てることはできなかった。だからウェルギウスに頼み、地獄を見せー煉獄の炎で身を浄めさせー神の真実を示すほかに道はないと考えたのだと。

    そしてダンテはベアトリーチェに導かれます。光り輝く神の国ー天国へ。

  • 地獄編に続いて煉獄編。
    煉獄とは、生まれ変わるために魂の浄化が行われる場所で、巨大な山になっている。

    地獄編よりも。情景の描写が一層文学的になり、また思想も多く散りばめられている。
    しかし、地獄編よりも面白みは薄くなってしまった印象。
    ダンテと会話をする人物それぞれの個性が立っていないので
    全体的にぼんやりしているのかも。

    後半でベアトリ―チェにやっと逢うことができるが、まさか遭遇した時のベアトリ―チェが結構強烈な人で驚いた。

    それにしても、ウェルギリウスがここでお別れしてしまったので、「先生」の言葉と素敵な振る舞いが、これから天国編でみられないのは、大変に惜しい。
    地獄の罰を受けることも、煉獄で浄化されることも、天国に行く着くことも、生まれ変わることも出来ない、永遠の魂の放浪者・ウェルギリウス。
    少し遅く生まれたスタティウスが、最期に改宗した故に煉獄山を登ることを許されたのに、死後はるかに詩人としての評価が高いウェルギリウスがこうした扱いを受けてしまう、キリスト教の考え方に、理不尽を感じてしまった。

    いつかウェルギリウスの「アエネイス」も読んでみたい。

全31件中 1 - 10件を表示

プロフィール

1265年、フィレンツェ生まれ。西洋文学最大の詩人。政治活動に深くかかわり、1302年、政変に巻き込まれ祖国より永久追放され、以後、放浪の生活を送る。その間に、不滅の大古典『神曲』を完成。1321年没。著書に、『新生』『俗語論』『饗宴』 『帝政論』他。

神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)のその他の作品

ダンテの作品

神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)を本棚に登録しているひと

ツイートする