神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)

  • 河出書房新社
3.74
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本棚登録 : 514
レビュー : 38
  • Amazon.co.jp ・本 (509ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309463148

作品紹介・あらすじ

二人の詩人、ダンテとウェルギリウスは二十四時間の地獄めぐりを経て、大海の島に出た。そこにそびえる煉獄の山、天国行きを約束された亡者たちが現世の罪を浄める場である。二人は山頂の地上楽園を目指し登って行く。永遠の女性ベアトリーチェがダンテを待つ。清新な名訳で贈る『神曲』第二部煉獄篇。

感想・レビュー・書評

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  • ダンテの神曲の2篇目、煉獄篇です。地獄篇を無事に抜けたダンテが煉獄山を登り、地上楽園を目指していきます。
    「煉獄」という語は少しなじみのない言葉ではないでしょうか。私は本書を読んで初めて、こうした世界が地獄と天国との間にあることを知りました。そこに描かれるのは、地獄篇に立ち込めているような悲惨さではなく、「ここを最後まで登り切れば必ず天国に行ける」という希望をよすがとして苦役に耐える魂たちの姿です。しかし一方で、突然現れたダンテ一行に「あの人には影があるぞ」と驚いたり、そのような表情のまま恐る恐る近付いて「自分のことをどうか現世の人に伝えてほしい」と口々に懇願したりする姿は滑稽でもあります。そのためか、登場人物からはあまり悲愴な印象を受けませんでした。
    現世で山を登るときには、たいていは(私は山登りの経験はないのですが)頂上に近づくにつれて疲労が増していくものだと思うのですが、煉獄山ではそうではないようです。煉獄の門をくぐるとすぐに急峻な岩場が現れ、ダンテは息も絶え絶えにそこを越えていきます。その描写も巧みで、読者としては「まだ先は長いのに初めからこんなに疲れるなんて」という感情に襲われます。通常の山とは逆に、煉獄では登れば登るほど身体が軽くなっていくようなのですが、読みながらその軽やかさを追体験できるか、と言えば、私にはとても同意できません。このもどかしさはやはり私が現世に生きているからなのでしょうか。ですが、このような描写もやはり滑稽なものなのでしょう。
    そして、地獄をずっと2人で旅してきた一行ですが、本書中盤の第21歌からはもう一人、ラテン詩人のスタティウスが加わります。ウェルギリウスを心底尊敬していたというこの人物の登場によって、作品の雰囲気はがらりと変わります。彼とのやり取りを通じて、ウェルギリウスの人柄が、主人公であるはずのダンテ以上に伝わってくる気がしました。地獄では厳格な人物という印象のあった彼の、スタティウスの一途な(?)想いに触れた時に表す心情などは、とても親しみやすいものに感じられます。このような描写のおかげか、本書は先の地獄篇よりもずっと明るい印象を与えるものとなり、原題の「Commedia」にずっとふさわしい内容になったような気がしました。そうした意味では、私個人としては地獄篇より煉獄篇の方が好みであるかも知れません。平川祐弘訳。

    (2009年7月入手・2011年2月読了)

  • >詩行が独立して読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧
    かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。
    >君ら生きている人々はなにかというとすぐ原因を
    天のせいにする、まるで天球が万事を
    必然性により動かしているかのような口吻だ。
    仮にそうだとすれば、
    君ら人間の中には
    自由意志は滅んだことになり、善行が至福を
    悪行が呵責を受けるのは正義にもとることとなる。
    天球は君らの行為に始動は与えるが、
    万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても
    善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。
    そしてこの意志は初期の戦いでは
    天球の影響を受けて苦闘するが、もし意志の力が
    十分に養成されているならば、すべてに克てるはずだ。
    君らは自発的に、より大きな力、より良き性質に
    自由に服することができる。その性質が君らの中に
    もう天球が左右できないような智力を創り出す。
    だから、現在の世界が正道を踏み外しているとするなら、
    原因は君らの中にある。君らの中に求めるべきだ。(十六歌)
    >疲労困憊するなどと繰返して言いながら、私たちがここまで夢中になって『神曲』のなかを歩みつづけてこられたのは、結局は訳者平川祐弘の流麗明快で活気に満ちた訳文のみごとさによるものにほかならぬことに、あらためて気がつく
    平川先生の訳と注釈の頼もしさ、さながらダンテを導くウェルギリウス先生の如しなので解説めちゃくちゃ分かるになった。そしてあらすじ知るだけなら漫画でもいいかと思ったけどダンテ達と一緒に歩く読書“体験”が重要だったと思うから「『神曲』のなかを歩みつづけ」るという表現にも共感

  • 文学

  • 読了

    地獄で挫折すること度々だったので、煉獄自体が初めてで新鮮

    地獄のクライマックスはサタンですが、煉獄のクライマックスはベアトリーチェ

  • 2011/01/19

  • 地獄の次の煉獄篇。地獄の方が、おもしろかった。

  • 自分には難解だが、食らいついて読み通す。難しい!
    地獄よりは風景は明るくなってるが、絶望感は地獄に負けず劣らず。地獄にいる人はよっぽど悪いことしたんだろうなぁと。天国篇に進むのが怖い。

  • 2009年1月19日~20日。
     面白さからいったら地獄篇の方が上かも知れない。
     それでも、これは面白い。
     ベアトリーチェってのもかなり自惚れが強い女性だし、ダンテも案外傲慢で情けなくて、甘えん坊。
     キリスト教ってのもどうなの?
     結局は神の復讐の訳でしょ。
     なんて読み方はやはり邪道だろうか。

     訳者の平川氏の功績がやはり大きいと思う。
     この作品を盲目的に賛辞するのではなく、きちんと俯瞰してダメなところはダメ、首を傾げるところはおもいきり傾げる。
     そして懇切丁寧な注釈。
     大抵は注釈なんて斜め読みするんだけど、ここでの注釈は本当に役に立つ。
     痒いところにきちんと手が届くのだ。

  • 煉獄というのは、天国へ行く前に現世の罪を浄める場所。
    これはカトリックだけの教えのようです。
    プロテスタントには天国と地獄しかありません。

    ここも天国ではありませんから、地獄ほどではありませんが苦しみに悶えながら罪を償っています。
    本来罪を犯した人は地獄に行くのではないの?
    一度の罪で地獄に落とされ永遠に地獄で苦しみ続けなければならない人と、煉獄でゆっくりゆっくりと罪を浄めて天国へ入れる人のちがいがわかりません。

    だたし、どんな理由があろうとも罪を犯すのは結局本人の意思。
    “天球は君らの行為に始動は与えるが、
    万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても
    善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。”

    今話題の『沈黙』のテーマにも重なりますが、こんなことも。
    “ 至高の神よ、口にするのも畏れ多いが、
    神の正義の目はよそを向いておられるのか?
    それとも神の深謀遠慮は
    われわれの理解の及ばぬところで
    こうした禍を福に転じる用意を整えておられるのか?”

    “普通、正義を心に秘めている人は多いが、射るのは遅い、
    議を経ずには矢を弓につがえぬからだ。”
    議を経ないでやりたい放題の人、最近多いですね。

    一昨年読んだゼイディー・スミスの『ホワイト・ティース』の中に出てきた疑問
    “もし自分が神に許され楽園に行けたとしても、自分の足元に数え切れないほどの救われなかった人たちの屍があるとするのなら、それは本当に楽園と言えるのだろうか。”
    これに対する答えはまだ私の中にない。
    天国篇を読んで答えは出るだろうか。

    ダンテ以前とダンテ以後で大きく変わったと言われるヨーロッパの文学と美術。
    それほどの芸術のきらめきが天国篇では薄れて、宗教色が強くなるらしい。

    “詩行が独立して読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。”
    と訳者が書いているのを読んで、日本では『神曲』を芸術作品として読んでいたのだと気がつく。
    てっきり宗教作品だとばかり…。
    だから明治の文豪たちがこぞって絶賛していたのか。今気がつきました。

  • 暗黒の地獄を抜け出した主人公ダンテと師匠ウェルギリウス。ふりそそぐ高貴な光に無上の悦びを覚えます。静謐な水辺のほとりに降り立った彼らの前に、ほどなくすると、煉獄(れんごく)への渡し守となる眩い天使が乗った船が静かに近づいてきます……。

    物語の設定は1300年春、復活祭。35歳のダンテは峻厳な森の中で迷い果て、行く手を獣に阻まれていたところを、古代ローマ屈指の詩人ウエルギリウスに救われます。実のところ、このウェルギリウスは、天国に身を置くベアトリーチェという女性に懇願され、正道を踏みはずして混迷していたダンテを教え導くために遣わされた賢人です。

    なんと現世ダンテの長年の想い人だったベアトリーチェ。
    実際、ダンテは2回ほどしか彼女に会ったことがないようですが、まるでクピド(キューピッド)の黄金の矢に射られたように、熱烈に彼女を想い、愛し続けます。プラトニックな純愛に苦悩するダンテのさまは、「若きウェルテルの悩み」の比ではありません。その後、彼女が24歳で夭逝してしまうと、ダンテはほとんど発狂寸前だったようです。

    そのような詩人ダンテの切ない恋慕のせいでしょうか……「神曲」の主人公ダンテは、天国で待っている愛しいベアトリーチェに会いたい一心で、生き身のまま、地獄、煉獄、天国の旅を決意したのでした。
    眼前に立ちはだかる煉獄の峻険な峰々を這いつくばりながら登っていきます。時折くじけそうになるダンテに向かって、師匠ウェルギリウスは、ベアトリーチェがおまえを待っているのだ! と叱咤激励します。そこで奮起するダンテも可愛らしい。愛は強し。

    さて、地獄は罪人が自己の罪のために永劫に責め苦にあう場所でしたが、煉獄は、天国行きをほぼ約束された人々が魂を浄化するために集う助走場――自動車教習所でいえば仮免状態?――というイメージでしょうか。もっとも、その浄化のためのトレーニングメニューは、地獄の責め苦とさほど変わりのない過酷なものです。
    ダンテは、そこでも様々な歴史上の人物に遭遇して話を聴くことができます。次々に登場する個性的な魂たちは、まことにまことに饒舌です。

    煉獄の門を通過すると……
    第1の環道 高慢の罪を清める者
    第2の環道 嫉妬の罪を清める者
    第3の環道 怒りの罪を清める者
    第4の環道 怠惰の罪を清める者
    第5の環道 貪欲の罪を清める者
    第6の環道 大食の罪を清める者
    第7の環道 色欲の罪を清める者

    「神曲」は、キリスト神学とギリシャ・ローマ文学の知識が少々必要で、地獄から煉獄へステージが上がると、より聖書の知識が求められます。ですが、平川氏の訳と訳注が秀逸なので、あまり細かいことにこだわらなければ、どんどん読み進めていけると思います。

    煉獄の旅の最後は、天国の一歩手前。
    さて……ここからが問題です。生き身のままたどり着いたダンテですが、もはや人間の理性をもってしては天国へ昇ることはできません。また、これまで導いてくれた賢人ウエルギリウスは、天界に昇ることが許されていない地獄リンボの住人のはず……。

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著者プロフィール

1265年、フィレンツェ生まれ。西洋文学最大の詩人。政治活動に深くかかわり、1302年、政変に巻き込まれ祖国より永久追放され、以後、放浪の生活を送る。その間に、不滅の大古典『神曲』を完成。1321年没。著書に、『新生』『俗語論』『饗宴』 『帝政論』他。

「2018年 『神曲 地獄篇 第1歌~第17歌』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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