神曲 天国篇 (河出文庫)

Kindle版

β運用中です。
もし違うアイテムのリンクの場合はヘルプセンターへお問い合わせください

  • 河出書房新社 (2010年8月3日発売)
3.58
  • (26)
  • (22)
  • (30)
  • (15)
  • (2)
本棚登録 : 787
感想 : 42
サイトに貼り付ける

本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

Amazon.co.jp ・本 (528ページ) / ISBN・EAN: 9784309463179

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 壮麗な映像に圧倒される、まさに至高の叙事詩。地獄から煉獄をへて天国へと至る。このカタルシスたるや!

    筋書きや世界観が面白かった地獄篇などに比べると、天国篇は物語性が薄れ、神学論議がメインになるゆえ、作者自身が冒頭で警告するようにあまりに難解。そもそも聖書に興味がないと読む意味に疑問を感じる内容だ。自分は信仰者ではないものの、書物としての聖書に関心を持っているので、なんとか頭を絞ってついていったが、理解できた部分は少ない。
    しかし終盤での神へと至る道程の映像美には圧倒された。なんだかよくわからないけどスゲェ!ぐらいの理解度でしかないが、地獄篇からのコントラストを考えると、この荘厳で美しい世界観は感動的なものがある。ベアトリーチェをあの階層に置いたのも印象深い。そして、神々しい最後の一行に宇宙の神秘を感じて読了。
    理解度を深めるために、いずれ他訳にも挑戦してみたい。

  • 「天国篇」第三歌・第四歌についての記述。
    生前、神への誓願を破った為に、天国で一番低い天球「月光天」に割り当てられた魂の一人、ピッカルダ・ドナーティ。
    彼女を通して「足るを知る」事の幸福が、美しく描かれています。

    ダンテから、より上天を望むかと問われて、ピッカルダはしばし微笑むと、初恋の火に燃える人のように嬉々として答えます。

    「わたくしどもの意志は愛の力で静まるのでございます。
     おかげでわたくしどもはいまが持つものしか所望せず、
     ほかのものに渇きを覚えることはございません。」
    (「天国篇」第三歌70行~72行)

    しかしダンテは、天国の住人にも階級があることに疑問を感じます。
    それに対して、天国の導き手であるベアトリーチェは、ダンテに説明しました。

    「[天国で最も高い処を占める魂たちも]
     いま現われた魂[ピッカルダ]たちと異なる天に
     座を占めるわけではありません。」
    (「天国篇」第四歌31行~32行 [ ]は評者。)

    「皆が第一の天球を美しく飾り、
     多かれ少なかれ永遠の聖息[みいき]を感じて、それに応じて
     それぞれのうるわしい生を送っているのです。」
    (同 34行~36行 ルビは[ ]に記入。)

    つまり天国の高低は、ダンテに分かりやすく示すためのサイン・方便に過ぎず、天国に住む全ての魂は神の君臨する「至高天」で暮らしているのです。
    発想を逆転させると「月光天」という最も低い定めも、むしろピッカルダたちの謙譲の美しさを引き立たせている、とも取れます。
    ともあれピッカルダも、神の愛に包まれて満たされているのです。

  • 3.4ヶ月かけてじっくり地獄・煉獄・天国をダンテ、ウェルギリウス、そしてベアトリーチェと巡った。ギリシャ・ローマ神話や聖書や当時のイタリア情勢の下敷きがない私にとっては注釈を読んでも理解したと言える部分は決して多くない。ただ詩的な、構成的な、創造的な美しさには終始酔いしれた。

    次からは解説書を広げながら精読していこう。

  • 地獄篇・煉獄篇を経て終局たる天国篇(Paradiso)へ。

    ダンテは遂に、至高天にて、"天上の薔薇"とも呼ばれる光の中心に「いっさいの望みの究極(はて)」である神を観るに到る。

    「ただそれだけが真実な、崇高な光輝の/光線の奥へ、さらに深く、はいっていった」 「その光の深みには/宇宙に散らばったもろもろのものが/愛によって一巻の書にまとめられているのが見えた」(以上、第三十三歌)

    全三篇、粘着的なまでに体系的な、宗教という強迫観念の大伽藍を見せつけられた。



    ダンテ自身が冒頭で述べているように、天国篇は地獄篇・煉獄篇に比して難解であり退屈でもある。神的宇宙と云う肉体的現実界とは隔絶された観念体系を、神学的な抽象語で以て綴らねばならぬのだから、尤もではある。それに、善を語るには小理屈を練らねばならぬが、悪にはそれ自体の生々しさがありそれだけでも興味を惹くものだ。

    神の絶対性を中心に据えてしまえば、そこから無尽蔵のレトリック・贅言冗語を導出し、如何ようにも言葉を踊らせることができる。「神意」だの「至上善」だの「愛の光」だのと定義不明瞭・定義不可能な語を持ち出されては、叙述や対話の論理的連関は曖昧模糊となること不可避だが、その曖昧さを伴ったまま、神学体系は至高の天上へ向けて何処までも恣意的に語り上げられていく――その「厳格さ」だけは決して放棄されることなく。神の裁きや地獄の罰の如何もこのように恣意的に導出されてしまうなら、これはもはや専制だ。こうして宗教的権威は世俗に於いて権力をもつことになる。権力者と云うのは、言葉を支配し同時に言葉を支配の手段にするものだが、宗教的権力こそが人類史に現れた最初の"言葉の創造=支配者"ではないか。

    なお、"永遠の女性"であったはずのベアトリーチェは、最後までキリスト教の教説をひたすら復唱するだけの「自動人形」(正宗白鳥)に過ぎない。



    第二十二歌の訳註で紹介されている、クローチェ(1866-1952)によるダンテ評が興味深い。

    「世界からの逃避、神への絶対的帰依、禁欲主義、などは、ダンテの精神にとって異質なものであったから、『天国篇』の中にこうしたものは見あたらない。ダンテは世界から逃避しようとしない。彼は世界に教訓を垂れ、世界を矯正し、世界を改革しようとして、天上の至福に言及する。・・・。天と地という二つの世界が公然たる対照裡に示された時でさえ、神的なるものが人間的なるものにうち克ち、それを徹底的に放逐してしまった、とはどう見てもいえないのである」(『ダンテの詩』)

    確かにダンテは至高天に於いてもなお俗世の政治家や聖職者をしつこく非難し続けており、天上に在りながらも現世に於ける政治的事業のことが心から離れているようには思えない。

    宗教に神秘的な忘我の契機を求める者は、アリストテレス-トマス・アクィナス的な目的論的世界に於いてもいたであろう。しかし、ヴェーバーの『中間考察』にあるように、断片化された自我がその全体性を回復しようとして非合理的な対象との合一を求めようとするのは、資本主義と官僚制に覆われニヒリズムに到るもなお留まることのない機械論的世界、則ち近代の人間に特有の傾向なのだろう。



    最後に警句を一つ。

    「見当のつかぬ事柄については早急に是非を論ぜず、/疲れた人のように歩みを遅らせるのがいいだろう。/・・・/細かい判断もなしに肯定否定を行う者は/愚か者の中でも下の下たる者だ」(第十三歌)

  • 「神曲」もいよいよ最後,天国篇に入りました。ダンテは地球を離れて高みを目指し,月から水星へ,金星へ,さらに太陽へ…と,天動説そのままのシステムで動く天上世界を廻ります。そこでは,それまでの地獄篇,煉獄篇とは全く違った,観念的,抽象的な神学の世界が描写されています。
    本書では,煉獄篇の最後で初めて作中でのダンテと会うことになったベアトリーチェがそのまま天国の案内役を務めるわけですが,その印象にまず驚かされます。現実でのダンテはこの女性に懸想していたようですが,本書からはそのような「想い人」としてのベアトリーチェに出会うことはできません。彼女は既に天に在り,人間を越えた存在としてダンテを包み,励まし,時には叱咤しつつ導いていきます。その様は「女性」というよりむしろ「母」であるかのようです。そしてそれに合わせるように,ダンテもまた幼く,赤子のように力のない存在と変容します。この関係性はいろいろな解釈ができそうですが,フィクションに描かれる男女の関係の元型の一つが,この作品からは見出すことができそうです。
    本書の冒頭でダンテが警告を発するとおり,天国編の描写はその具体性をことごとく失い,天国の住人との会話も高度に形而上的なものになっていきます。表現技法や比喩もさらに複雑になり,前2篇とは比べ物にならないほど読み進めるのに苦労しましたが,第11歌と第12歌で描かれるトマスアクィナスとボナヴェントゥラの語りや,第24歌以降で行われるダンテとペテロ,ヤコブ,伝道者ヨハネの3人との「信仰・希望・愛」をめぐる対話などはなかなか読みごたえがあります。特に後者は,当時の神学における議論や試問が「まさにこのように行われていたのだろう」と思わせるような,緊張感の高い雰囲気が伝わってくるようで,私としてはこれだけでも読んでよかった,と思えるものでした。
    3篇を通して改めて思い返すと,神曲は「政治家ダンテ」の作品であるということが強く印象に残りました。私は神曲から,当時のイタリアに法王党(白党 vs. 黒党)vs. 皇帝党という派閥争いがあったことを初めて知りましたが,まさか本書を読んで,世界史の復習をしているかのような,不思議な感覚を味わうことになるとは思いもしませんでした。自身の体験を,これほど長大かつ壮大な作品に仕上げるとは。西洋の「詩聖」の力を,思い知らされた気がします。平川祐弘訳。

    (2009年7月入手・2011年8月読了)

  • マハーバーラタとか、神曲みたいな叙事詩ってあんまり理解しようとしすぎなくてもいいと思う。詩ってあるように音楽みたいに考えるより、世界観を感じるみたいな楽しみ方が良いと思うな。ふと聴きたくなった時に再読するみたいな。 #読書

    「第一歌ダンテは、天国の詩を草する前に、アポロンの神に、それがつつがなくできるようにと、呼びかける。彼が昇ろうとしていた所は、すでに天国への入口だったから、光があたりに満ちあふれていて、楽の妙音がながれていた。その天上の、目がくらくらする光のなかで、ベアトリーチェはダンテに、どうして天上に昇ることができるか、またこの天国がどんな仕組みになっているかを説明する。この第一歌は、そういう彼の天国行の序詞にあたるものである。」

    —『神曲・天国篇』ダンテ・アルギエーリ著


    「そのとき  わたしに明らかになったことは、たとえ  いや高い福がたしかにこのひとたちに一様ではないにしても、天上ではどこも楽園だということだ。(九〇)ひとは一つの皿〔食物〕に堪能しながら別の皿にもこころをうごかして、これをもとめると  さきの皿にも感謝の気持のおこるもの〔堪能した食べ物には、すすめられても食欲はおこらずに、感謝の気持だけするということ〕だ。」

    —『神曲・天国篇』ダンテ・アルギエーリ著
    https://a.co/47LJNSs

    「鷲のかたちをしているのは、多くの魂の光だが、その声はひとりの魂のそれのように一つである。ダンテはかねてから、キリスト教の信仰をもっていない者で、正しく生きている者が救われるかどうかについて不審をもっていたので、その疑問を鷲にただした。そのことで、鷲は、神の正義については人間の知恵の及ばぬところがあるといって、その測りしれぬ深い意味を説ききかせる。それにつれて、その鷲は諸国の王の不正不義をあげてつぎつぎに非難する。この木星天での問答は、まさしく地上的な倫理と天上の倫理との隔たりを、はっきり指摘していると思われる。」

    —『神曲・天国篇』ダンテ・アルギエーリ著

    「「キリストを信じない者は  一人だってこの天国へ昇ったためしはないのだ。それは、主が十字架におつきになられた前でも後でも  そうなのだ。だが  知るがいい。おおぜいで、キリスト、キリストと叫んでいるが、最後の審判〔の日〕に、主のそばにいるのは、キリストを知らない者より  はるかにすくないだろう  ということを。(一〇八)ついでにいえば、こういう名ばかりのキリスト信者を、それらが  永遠に富む者と貧しい者との二つに分かれるとき、エチオピア人〔異教徒〕は  その手合いを罪におとすにちがいない。」

    —『神曲・天国篇』ダンテ・アルギエーリ著

    「聖書を知的に解釈することに反対して、「哲学は神学の侍女なり」といったことが有名〕と呼ばれたが、アドリアティコの海ぞいの聖母マリアの家にいたときにはペトルス・ペッカトールという名だった。」

    —『神曲・天国篇』ダンテ・アルギエーリ著
    https://a.co/f2043hj


    「ベアトリーチェの口添えで、ダンテは聖ピエートロからキリスト教神学の試問をうける。テーマは信仰ということで、ダンテはスコラ学的でなく、自分のいだいている信仰体験から、信仰の内容とか由来とかを答える。聖ピエートロはダンテの答えに、おおむね満足したようで、ダンテのまわりを三度めぐって、第一の試問にパスしたことを祝福する。場所はやはり第八天の恒星天で、きらきらする光の霊の中であることも同じ天上の条件だ。」

    —『神曲・天国篇』ダンテ・アルギエーリ著

    「ダンテの天国は、地球を中心とする天動説の古代天文学の宇宙に、キリスト教的な神観がからみ合った構成だから、近代の地動説の天文観で考えると、読者はその宇宙構造にちぐはぐな感じがして、とまどうことが多いと思う。それにもう一つ理解しにくいことは、ダンテの天には神学的な意味づけが多くて、さらに理解を困難にしているし、そのためにスコラ的な神学論理にたよりでもすると、問題はさらに迷路をさまようことになりかねないからだ。」

    —『神曲・天国篇』ダンテ・アルギエーリ著
    https://a.co/29YweXs

    「神話に関することは、説明しようとしないのだ。すべてが解りやすいようにはなっていないし、解りやすくしようともしないのだ。そして、神学は、最後には究極の宗教的な徳として、信仰ということをいいだすのだ。」

    —『神曲・天国篇』ダンテ・アルギエーリ著

    「翻訳は解釈である、というだれかの言葉を、この『天国』の場合に、私は身にしみて感じた。それは『天国』には、他の二部とくらべて、ひどく物語性がなくて、のっけから天国の仕組みの解説にはじまり、そのほとんどがキリスト教神観の解説、論議に費やされているからだ。そこにある問題は、どれ一つとってみても、神学的、思想史的に重要な問題でないものはなく、それに対して、ダンテはまず懐疑的に設問して、それの解決を教父にゆだねるという形で話が進行している。いわば、全巻が、教義問答でおわっているという感じである。そこで、ダンテがそういういい方をしているのは、いったい何をいおうとしているのか、という、作者のモティーフを掴むことで、考えさせられることが多かった。問題は語義や字句のことではなく、それを超えて、それの背後にある思想の把握である。」

    —『神曲・天国篇』ダンテ・アルギエーリ著

    「しかし、「天国」などの問題はひどく形而上的だし、それが形而上的だという理由で、読者はなかなかそれの解決が出せないかとも思う。そこが、哲学的にいって、ヴォルテールとはべつの意味で、永久に読みつがれる理由かもしれない。」

    —『神曲・天国篇』ダンテ・アルギエーリ著

  • ダンテ本人からの注釈があるように、こちらは地獄・煉獄編に比べて難解。各歌の前に訳者のまとめ文がなければちんぷんかんぷんだったかも。長年の悲願だった3部作を読み終えることができてよかった。

  • ダンテの『神曲』は中世の人々の死生観を考える上でものすごく興味深い作品でありました。


    『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』と続けて読んできましたが日本の地獄と浄土と比べながら読むのもとても刺激的なものになると思います。

  • ・ラテン文学と並んで二本の対をなすダンテの教養のいま一本の柱はラテン語訳俗訓聖書、いわゆる『ヴルガータ』である。ダンテの『神曲』に哲学的、宗教的に迫ろうとする人にはダンテはトマス・アクイナスの系譜に連なる人として見えてくるにちがいない。地獄篇や煉獄篇が一般人の読書に耐え得るのに反して、天国編が難解なのはその神学論議のためである。

  • *おすすめコメント
    キリスト教における善悪観がこの一作にすべて入っていると言えよう。日本に於いても、与謝野晶子、森鴎外など文豪たちがこれを読んだ。特に、地獄編だけでも貴方の人生観、生き方は変わるはずである。新入生のみならず、全人類に薦めたい作品。なお、本校の図書には、岩波文庫の山川丙三郎訳のものがあるが、戦後間もなく出版されたものであり、言い回しや仮名遣いなどが余りにも旧く、少々難解で非常に読み辛いため、平川祐弘訳を推薦した。

    *学生へのメッセージ
    自分の人生、如何にして善くするかを考えて生きるべし。

    *OPACへのリンク(所在や貸し出し状況を確認できます)
    https://libopac3-c.nagaokaut.ac.jp/opac/opac_openurl?kscode=018&ncid=BN05418459
    (他に訳者の違う図書あり)

    推薦者:学生(商船学科)

  • >他者の暴力によってなぜ善い願いの功徳が減じるかについて
    >絶対的意志と相対的意志の違い →コスタンツァの例で説明
    >破られた誓願は他の善行によって補いがつくか否か

    天国篇、説教臭くなってつまらなかったらどーしよ…て思ってたけどこういう質疑応答が続くのは興味ある~!!ので楽しく読んでる
    生きることは戦いだなぁと思う時があるのですが、なるほどヨブ記にも「人の世にあるは戦闘(たたかひ)にあるがごとくならずや」とあるのですね…しみじみ…

  • 文学

  • 全然読み進まない

    地獄とかに比べて退屈だ

    悪は人間のなすことであるなら、まさにクリエイティブだけど、善は神に至るものなら、人間の語るものなどたかが知れてる

    ダンテさん、神を代弁する気か?という気持ちがわいてきて集中できず

    人間の想像する善なんてたかがしれてて、それが本物なのだとしたら、神のなんと退屈なものか

    どうも、違和感しか感じなくて無理

    挫折しそうになりつつなんとか読了

    読み終わってやっと頭に出来上がる構造がある

    何にしても膨大なので、1度通して読んで、ちょこちょこ繰り返し読んでくんだろうなー

  • ダンテ著、平川祐弘訳『神曲 天国篇』河出文庫 読了。至高天へ昇る神秘的な旅。天国だけあって登場する魂は錚々たり。挿画の少なさが物語るごとく、地獄篇・煉獄篇に比べ、神曲特有の具象性・リアリティにやや欠く。神学論議も展開されていて、非常に難解な作品。ちなみに、個人的には地獄篇が好み。
    2011/06/09

  • "神曲の最終巻。天国編。キリスト教の世界観。
    地獄、煉獄、天国の三冊の中では、地獄編が一番おもしろいと感じた。
    世界の三大宗教の一つキリスト教、聖書を読み学ぶことで、西洋の思想のベースを理解したいと思った。
    もちろん、コーランやスッタニパータも読まないと世界を俯瞰できないかな。"

  • 骨惜しみする船頭にはホントに骨が折れる旅路でした。自分の知識のなさを痛感。最後の10歌からは彼らと一緒にグイグイ上昇。

  • 目次より
    ・天国篇
    ・詩篇

    天国篇はほぼ宗教論に終始していて、今までの映像的な描写は格段に少なくなり(挿絵も激減)、小難しいやり取りが続きます。
    “君たちはおそらく
    私を見失い、途方に暮れるにちがいない”

    さて、地獄篇からの懸案事項、「キリスト以前に死んだ善人が地獄にいることの是非について」にとうとう回答が!

    “その男の考えること、為す事はすべて
    人間理性の及ぶかぎりでは優れている。
    その生涯を通じ言説にも言動にも罪を犯したことがない。
    その男が洗礼を受けず信仰もなくて死んだとする。
    その彼を地獄に堕とすような正義はどこにあるのだ?
    彼に信仰がないとしてもそのどこに罪があるのだ?”

    “天の王国は熱烈な愛と熾烈な望みによって
    掟が破られることを許すことがある。
    それらが神意にうち勝つのだ。
    人が人に勝つのと同然ではない。
    神意が負けることを望むから勝つのだ。”
    問いに対する答えがこれ。
    熱烈な望みがあれば、掟をまげて天国に受け入れることもある。
    ただし、それは人が神に勝ったというわけではなく、あくまでも神が受けいれようと思ったからだ、と。
    つまり神の自在定規ってこと。

    “そしておまえら現世の人間よ、判断はけっして迂闊に
    下さぬがよい。神を見る我々の目にも
    神に選ばれるべき人々の姿がみな映るわけではないのだ。”
    そして神の決定に口を出すな、と。

    アダムとイブが楽園を追われたのも、禁じられたリンゴを食べたからではなく、リンゴを食べることによって神と同等の存在になろうとした高慢のためにだというのには納得。
    なるほどね。

    地獄が非常に感覚に訴えるものであったのに対して、天国篇は論理的。
    “人は感性で知覚されたものから
    はじめて知性に適するものを学び取るからです。”

    宗教って感覚的なものから始まるけれど、最終的には論理に向かう。
    それはつまり、人間はそういうものだからだ。

    …ということしかわからんかったわ、結局。
    そして、天国で、一糸乱れぬポーズでうじゃうじゃといる天使がとても気持ち悪い。居心地が悪いと思う私は、とても罰当たりです。

    自分らしさ=業ってことなのかな。
    自分らしさ、人間らしさを捨てないと天国に行けないのであれば、人として生まれた意味は何なのだろう?
    やっぱりもっと勉強しないとダメですか?
    ちょっとしんどいな。

  • ダンテ(平川祐弘訳)『神曲』天国編,河出文庫,2009年(初版1966)
     全33歌。ダンテはベアトリーチェとともに天に昇っていく。天国篇は「瞬間移動」で道中というものがない。最初の「月天」ではクララ会(女子修道院)に入る誓願を破って還俗しなければならなかったピッカルダやコンスタンツァなどの女性から話を聞く。天国にも階層はあるが、そこに住む人々は上を望んだりせず、自分の場所に安住している。「自由意志」を犠牲にささげる「誓願」の意味がベアトリーチェから説明される。「水星天」ではローマ皇帝ユスティヌアヌスの魂とあう。「金星天」ではハンガリア王カルロ・マルテルロに会い、運命が性に合わないと、育ちが悪くなることから、不肖の子孫がでる理由が説明されている。「金星天」では多情の女性クニッツアの魂やマルセーユの人フォルケ(アルビジョア十字軍で戦った人)などからも話しを聞く。「太陽天」ではトマス・アクィナス(ドミニコ会士)がフランシスコを讃えるのを聞き、ボナヴェントゥーラ(フランシスコ会士)がドミニコを讃えるのを聞く。また、ソロモンから肉体の復活の話を聞く。「火星天」では、十字軍でたたかったダンテの祖父カッチャグイダがでてきて、昔のフィレンツェの質朴な様子を話し、ヴェローナのカン・グランデがダンテを助けてくれるであろうと予言する。「木星天」では数多の魂が「鷲」の形で飛び回っているのをみる。ここでは栄光に輝く魂、ダビデ、トラヤヌス(大グレゴリウスの祈りで復活しキリスト教徒として死んだことになっている)、コンスタンティヌスなどと会う。ただ、キリスト教を知らなかったであろう人物もいて、ダンテは疑問に思うが、神意の深さを人間の智慧で測ろうとすることに警告が発せられる。「土星天」では、「ヤコブの梯子」をみて、ピエトロ・ダミアーニから、神の定めの知り難いことを諭される。また、「西欧修道制の父」ベネディクトゥスが身の上を語り、修道生活の堕落を非難する。「ヤコブの梯子」を昇り、「恒星天」に昇り、あわれな地球をふり返ってから、ペテロから信・望・愛について、口頭試問をうける。ダンテは「信仰とは望みの実体であって、まだ見ぬものの論証」、「希望とは未来の栄光を疑念を差しはさまず待つこと」と答え、強烈な光によって一旦目がくらむ。ここでヨハネやアダムがやってきて励まされ、「愛」について滞りなく答えることができた。そして「原動天」に昇り、無数の天使たちをみる。ベアトリーチェは天使・天球・地球の創造や、堕天使の反逆などについて語る。第十の「至高天」に入り、祝福された魂が巨大な「白いバラ」の姿で座っているのをみる。第三十一歌でベアトリーチェは姿を消し、聖ベルナール(シトー会士)があらわれ、マリアの光をみるように促され、最後に「三つの円」(三位一体のキリスト=神)をみる。それは「太陽やもろもろの星を動かす愛であった」で終わる。
      第三十一歌までダンテはベアトリーチェに案内されるが、彼女は天を昇れば昇るほど美しくなっていくそうである。ベアトリーチェは基本的に解説者のような役割で、あまり人間の女性としての親しみはない。例によってダンテは政敵への怨念を天国でももらしている。ダンテは法王党の白党というセクトから選ばれて、フィレンツェの国務大臣級の職についたのだが、白党が同じ法王党のセクト黒党にやぶれ、ダンテは国費費消の罪で二年の国外追放になったが、出頭しなかったので、永久追放になり、フィレンツェの官憲につかまったら、火刑にかけられるという過酷な生活を送り、生涯フェレンツェに帰れなかった。自分が故郷で桂冠詩人になる夢をすてられなかったらしく、神聖ドイツ皇帝ハイリッヒ7世のフィレンツェ入城に期待をかけ、わざわざ天国にハインリッヒの席を準備したりしている。天国篇といっても、ダンテの政治的主張がないわけではない。
     科学史的にみると、地球の直径や、火星の軌道、機械式時計の歯車の仕組み、当時はじまったばかりの都市統計などの観点がみえ、とても興味深い内容だった。『神曲』は九重の地獄、七層の煉獄、十天の天国を、一週間で見てまわる話であるが、基本的に「旅行ガイド」的で、ダンテ自身がなんらかの行為をするということがない。つまり、旅行者の文学で生活者の文学ではない。天国篇は全てが光り輝いて美しいのであるが、そこでダンテは神の恩寵に浴して、すべてを見たというだけで、力強く生活することがない。これはダンテが「他人のパン」を食べる傍観者としての人生を余儀なくされたことと無関係ではないだろう。美しいが何か寂しさを感じる作品である。ベアトリーチェは最後にはいなくなるし、ダンテは至高天で消えるわけではない。最後にみたものは何か幾何学の図形のようなもので、正直に言って、拍子抜けであった。美しさも突き詰めると非人間的になるのかもしれない。
     「洗礼を受けずに死んだ者を地獄に落とす正義」(第19歌)や、「キリストが法で裁かれたのは正しく、ローマ帝国の権威は合法(つまり、キリストが殺されること=人類の救済、ローマ帝国は人類救済の手段であった)」(第六歌)などの観点は興味深いものである。
     ちなみに、ダンテの正妻の名前はジェンマ、夫がベアトリーチェ(一応、若くして死んだが、実在の人物)にべた惚れな詩を書いているのを見て、どう思ったのだろうか?

  • けっきょく、偉大な人間とはわたしなど及びもつかない人びとなのだということがわかる作品だった。
    訳をされた平川さんという方の全人格をかけてダンテに立ち向かった気概と天賦の才能に嘆息するより他ない書物です…

    できれば河出書房新社「神曲(完全版)」を手元に置きたい!

    Mahalo

全31件中 1 - 20件を表示

著者プロフィール

1265年、フィレンツェ生まれ。西洋文学最大の詩人。政治活動に深くかかわり、1302年、政変に巻き込まれ祖国より永久追放され、以後、放浪の生活を送る。その間に、不滅の大古典『神曲』を完成。1321年没。著書に、『新生』『俗語論』『饗宴』 『帝政論』他。

「2018年 『神曲 地獄篇 第1歌~第17歌』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ダンテの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×