神曲 天国篇 (河出文庫 タ 2-3)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (525ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309463179

作品紹介・あらすじ

三昼夜を過ごした煉獄の山をあとにして、ダンテはペアトリーチェとともに天上へと上昇をはじめる。光明を放つ魂たちに歓迎されながら至高天に向けて天国を昇りつづけ、旅の終わりにダンテはついに神を見る。「神聖喜劇」の名を冠された、世界文学史に屹立する壮大な物語の完結篇、第三部天国篇。巻末に「詩篇」を収録。

感想・レビュー・書評

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  • 壮麗な映像に圧倒される、まさに至高の叙事詩。地獄から煉獄をへて天国へと至る。このカタルシスたるや!

    筋書きや世界観が面白かった地獄篇などに比べると、天国篇は物語性が薄れ、神学論議がメインになるゆえ、作者自身が冒頭で警告するようにあまりに難解。そもそも聖書に興味がないと読む意味に疑問を感じる内容だ。自分は信仰者ではないものの、書物としての聖書に関心を持っているので、なんとか頭を絞ってついていったが、理解できた部分は少ない。
    しかし終盤での神へと至る道程の映像美には圧倒された。なんだかよくわからないけどスゲェ!ぐらいの理解度でしかないが、地獄篇からのコントラストを考えると、この荘厳で美しい世界観は感動的なものがある。ベアトリーチェをあの階層に置いたのも印象深い。そして、神々しい最後の一行に宇宙の神秘を感じて読了。
    理解度を深めるために、いずれ他訳にも挑戦してみたい。

  • 「天国篇」第三歌・第四歌についての記述。
    生前、神への誓願を破った為に、天国で一番低い天球「月光天」に割り当てられた魂の一人、ピッカルダ・ドナーティ。
    彼女を通して「足るを知る」事の幸福が、美しく描かれています。

    ダンテからより上天を望むかと問われて、ピッカルダはしばし微笑むと、初恋の火に燃える人のように嬉々として答えます。
    「わたくしどもの意志は愛の力で静まるのでございます。
     おかげでわたくしどもはいまが持つものしか所望せず、
     ほかのものに渇きを覚えることはございません。」
    (「天国篇」第三歌70行~72行)

    しかしダンテは、天国の住人にも階級があることに疑問を感じます。
    それに対して、天国の導き手であるベアトリーチェはダンテに説明しました。
    「[天国で最も高い処を占める魂たちも]
     いま現われた魂[ピッカルダ]たちと異なる天に
     座を占めるわけではありません。」
    (「天国篇」第四歌31行~32行 [ ]は評者。)
    「皆が第一の天球を美しく飾り、
     多かれ少なかれ永遠の聖息[みいき]を感じて、それに応じて
     それぞれのうるわしい生を送っているのです。」
    (同34行~36行 ルビは[ ]に記入。)
    つまり天国の高低は、ダンテに分かりやすく示す為のサイン・方便に過ぎず、天国に住む全ての魂は神の君臨する「至高天」で暮らしているのです。
    発想を逆転させると「月光天」という最も低い定めも、むしろピッカルダたちの謙譲の美しさを引き立たせているとも取れます。
    ともあれピッカルダも、神の愛に包まれて満たされているのです。

  • 3.4ヶ月かけてじっくり地獄・煉獄・天国をダンテ、ウェルギリウス、そしてベアトリーチェと巡った。ギリシャ・ローマ神話や聖書や当時のイタリア情勢の下敷きがない私にとっては注釈を読んでも理解したと言える部分は決して多くない。ただ詩的な、構成的な、創造的な美しさには終始酔いしれた。

    次からは解説書を広げながら精読していこう。

  • 地獄篇・煉獄篇を経て終局たる天国篇(Paradiso)へ。

    ダンテは遂に、至高天にて、"天上の薔薇"とも呼ばれる光の中心に「いっさいの望みの究極(はて)」である神を観るに到る。

    「ただそれだけが真実な、崇高な光輝の/光線の奥へ、さらに深く、はいっていった」 「その光の深みには/宇宙に散らばったもろもろのものが/愛によって一巻の書にまとめられているのが見えた」(以上、第三十三歌)

    全三篇、粘着的なまでに体系的な、宗教という強迫観念の大伽藍を見せつけられた。



    ダンテ自身が冒頭で述べているように、天国篇は地獄篇・煉獄篇に比して難解であり退屈でもある。神的宇宙と云う肉体的現実界とは隔絶された観念体系を、神学的な抽象語で以て綴らねばならぬのだから、尤もではある。それに、善を語るには小理屈を練らねばならぬが、悪にはそれ自体の生々しさがありそれだけでも興味を惹くものだ。

    神の絶対性を中心に据えてしまえば、そこから無尽蔵のレトリック・贅言冗語を導出し、如何ようにも言葉を踊らせることができる。「神意」だの「至上善」だの「愛の光」だのと定義不明瞭・定義不可能な語を持ち出されては、叙述や対話の論理的連関は曖昧模糊となること不可避だが、その曖昧さを伴ったまま、神学体系は至高の天上へ向けて何処までも恣意的に語り上げられていく――その「厳格さ」だけは決して放棄されることなく。神の裁きや地獄の罰の如何もこのように恣意的に導出されてしまうなら、これはもはや専制だ。こうして宗教的権威は世俗に於いて権力をもつことになる。権力者と云うのは、言葉を支配し同時に言葉を支配の手段にするものだが、宗教的権力こそが人類史に現れた最初の"言葉の創造=支配者"ではないか。

    なお、"永遠の女性"であったはずのベアトリーチェは、最後までキリスト教の教説をひたすら復唱するだけの「自動人形」(正宗白鳥)に過ぎない。



    第二十二歌の訳註で紹介されている、クローチェ(1866-1952)によるダンテ評が興味深い。

    「世界からの逃避、神への絶対的帰依、禁欲主義、などは、ダンテの精神にとって異質なものであったから、『天国篇』の中にこうしたものは見あたらない。ダンテは世界から逃避しようとしない。彼は世界に教訓を垂れ、世界を矯正し、世界を改革しようとして、天上の至福に言及する。・・・。天と地という二つの世界が公然たる対照裡に示された時でさえ、神的なるものが人間的なるものにうち克ち、それを徹底的に放逐してしまった、とはどう見てもいえないのである」(『ダンテの詩』)

    確かにダンテは至高天に於いてもなお俗世の政治家や聖職者をしつこく非難し続けており、天上に在りながらも現世に於ける政治的事業のことが心から離れているようには思えない。

    宗教に神秘的な忘我の契機を求める者は、アリストテレス-トマス・アクィナス的な目的論的世界に於いてもいたであろう。しかし、ヴェーバーの『中間考察』にあるように、断片化された自我がその全体性を回復しようとして非合理的な対象との合一を求めようとするのは、資本主義と官僚制に覆われニヒリズムに到るもなお留まることのない機械論的世界、則ち近代の人間に特有の傾向なのだろう。



    最後に警句を一つ。

    「見当のつかぬ事柄については早急に是非を論ぜず、/疲れた人のように歩みを遅らせるのがいいだろう。/・・・/細かい判断もなしに肯定否定を行う者は/愚か者の中でも下の下たる者だ」(第十三歌)

  • 「神曲」もいよいよ最後,天国篇に入りました。ダンテは地球を離れて高みを目指し,月から水星へ,金星へ,さらに太陽へ…と,天動説そのままのシステムで動く天上世界を廻ります。そこでは,それまでの地獄篇,煉獄篇とは全く違った,観念的,抽象的な神学の世界が描写されています。
    本書では,煉獄篇の最後で初めて作中でのダンテと会うことになったベアトリーチェがそのまま天国の案内役を務めるわけですが,その印象にまず驚かされます。現実でのダンテはこの女性に懸想していたようですが,本書からはそのような「想い人」としてのベアトリーチェに出会うことはできません。彼女は既に天に在り,人間を越えた存在としてダンテを包み,励まし,時には叱咤しつつ導いていきます。その様は「女性」というよりむしろ「母」であるかのようです。そしてそれに合わせるように,ダンテもまた幼く,赤子のように力のない存在と変容します。この関係性はいろいろな解釈ができそうですが,フィクションに描かれる男女の関係の元型の一つが,この作品からは見出すことができそうです。
    本書の冒頭でダンテが警告を発するとおり,天国編の描写はその具体性をことごとく失い,天国の住人との会話も高度に形而上的なものになっていきます。表現技法や比喩もさらに複雑になり,前2篇とは比べ物にならないほど読み進めるのに苦労しましたが,第11歌と第12歌で描かれるトマスアクィナスとボナヴェントゥラの語りや,第24歌以降で行われるダンテとペテロ,ヤコブ,伝道者ヨハネの3人との「信仰・希望・愛」をめぐる対話などはなかなか読みごたえがあります。特に後者は,当時の神学における議論や試問が「まさにこのように行われていたのだろう」と思わせるような,緊張感の高い雰囲気が伝わってくるようで,私としてはこれだけでも読んでよかった,と思えるものでした。
    3篇を通して改めて思い返すと,神曲は「政治家ダンテ」の作品であるということが強く印象に残りました。私は神曲から,当時のイタリアに法王党(白党 vs. 黒党)vs. 皇帝党という派閥争いがあったことを初めて知りましたが,まさか本書を読んで,世界史の復習をしているかのような,不思議な感覚を味わうことになるとは思いもしませんでした。自身の体験を,これほど長大かつ壮大な作品に仕上げるとは。西洋の「詩聖」の力を,思い知らされた気がします。平川祐弘訳。

    (2009年7月入手・2011年8月読了)

  • *おすすめコメント
    キリスト教における善悪観がこの一作にすべて入っていると言えよう。日本に於いても、与謝野晶子、森鴎外など文豪たちがこれを読んだ。特に、地獄編だけでも貴方の人生観、生き方は変わるはずである。新入生のみならず、全人類に薦めたい作品。なお、本校の図書には、岩波文庫の山川丙三郎訳のものがあるが、戦後間もなく出版されたものであり、言い回しや仮名遣いなどが余りにも旧く、少々難解で非常に読み辛いため、平川祐弘訳を推薦した。

    *学生へのメッセージ
    自分の人生、如何にして善くするかを考えて生きるべし。

    *OPACへのリンク(所在や貸し出し状況を確認できます)
    https://libopac3-c.nagaokaut.ac.jp/opac/opac_openurl?kscode=018&ncid=BN05418459
    (他に訳者の違う図書あり)

    推薦者:学生(商船学科)

  • >他者の暴力によってなぜ善い願いの功徳が減じるかについて
    >絶対的意志と相対的意志の違い →コスタンツァの例で説明
    >破られた誓願は他の善行によって補いがつくか否か

    天国篇、説教臭くなってつまらなかったらどーしよ…て思ってたけどこういう質疑応答が続くのは興味ある~!!ので楽しく読んでる
    生きることは戦いだなぁと思う時があるのですが、なるほどヨブ記にも「人の世にあるは戦闘(たたかひ)にあるがごとくならずや」とあるのですね…しみじみ…

  • 文学

  • 全然読み進まない

    地獄とかに比べて退屈だ

    悪は人間のなすことであるなら、まさにクリエイティブだけど、善は神に至るものなら、人間の語るものなどたかが知れてる

    ダンテさん、神を代弁する気か?という気持ちがわいてきて集中できず

    人間の想像する善なんてたかがしれてて、それが本物なのだとしたら、神のなんと退屈なものか

    どうも、違和感しか感じなくて無理

    挫折しそうになりつつなんとか読了

    読み終わってやっと頭に出来上がる構造がある

    何にしても膨大なので、1度通して読んで、ちょこちょこ繰り返し読んでくんだろうなー

  • ダンテ著、平川祐弘訳『神曲 天国篇』河出文庫 読了。至高天へ昇る神秘的な旅。天国だけあって登場する魂は錚々たり。挿画の少なさが物語るごとく、地獄篇・煉獄篇に比べ、神曲特有の具象性・リアリティにやや欠く。神学論議も展開されていて、非常に難解な作品。ちなみに、個人的には地獄篇が好み。
    2011/06/09

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著者プロフィール

1265年、フィレンツェ生まれ。西洋文学最大の詩人。政治活動に深くかかわり、1302年、政変に巻き込まれ祖国より永久追放され、以後、放浪の生活を送る。その間に、不滅の大古典『神曲』を完成。1321年没。著書に、『新生』『俗語論』『饗宴』 『帝政論』他。

「2018年 『神曲 地獄篇 第1歌~第17歌』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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