なぜ古典を読むのか (河出文庫)

  • 河出書房新社
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感想 : 24
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  • Amazon.co.jp ・本 (401ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309463728

作品紹介・あらすじ

卓越した文学案内人カルヴィーノによる最高の世界文学ガイド。ホメロス、スタンダール、ディケンズ、トルストイ、ヘミングウェイ、ボルヘス等の古典的名作を斬新な切り口で紹介。須賀敦子の名訳で。

感想・レビュー・書評

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  • 古典を具材にして、料理の基本や栄養学あたりをうんうん考えながら、ご自慢のレシピ(≒古典)を披露し、最後はこれを美味しくいただこう! といったようなこの本、ちょっぴり噛みごたえが欲しい人にお薦めしたい。
    『木のぼり男爵』『見えない都市』といった、わたしの憧れの作家イタロ・カルヴィーノ(1923~1985イタリア)に、須賀敦子の翻訳となれば、表紙をながめているだけでよだれが出てくる。なんど読んでも酌みつくせない垂涎の本だ。

    ***
    「古典とは、ふつう、人がそれについて「いま読み返しているのですが」とはいっても「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である」

    ある古典を壮年または老年になってからはじめて読むのは比べようのない愉しみで、若いときに読んだものとは異なった種類だ、とカルヴィーノは言う。
    どれだけ頑張って読んだところで、質・量ともに膨大なこれらを読み尽くすことなんてできないのだから、すこしも気にせず、いつでもながめてみたらいい……そんなカルヴィーノの言葉は、ちょっぴり辛口で、優しいユーモアの味がする。

    「古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかしこれを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資産だ」

    まことにカルヴィーノらしい深遠な隠し味を仕込む。若いときに読んだ本そのものについて、ほとんど、またはぜんぜん覚えていなくても、ずっとわたしたちの役にたっていて、そのままのかたちでは記憶に残らないで、種をまいていくのがこの種の作品の特別な力という。

    「古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である」

    「古典とは私たちが読むまえにこれを読んだ人たちの足跡をとどめて私たちのもとにとどく本であり、背後にはこれらの本が通り抜けてきたある文化、あるいは複数の文化の(簡単にいえば言葉づかいとか習慣のなかに)足跡をとどめている書物だ」

    とにかく物語の主人公は忙しい、ひどく多忙だ。だからときどき、引いて引いて、鳥の目線のような遠景でみる。すったもんだしている彼らをよそに、あたりの風景だったり、食べ物や文化といったものをながめてみると、時空を超えた世界旅行に出かけた気分で楽しい。そして数百年、ときには数千年もの間、あらゆる人が読み継いできた究極の極め付きの本に溜息がでる。

    「古典とは人から聞いたりそれについて読んだりして、知りつくしているつもりになっていても、いざ自分で読んでみると、あたらしい、予期しなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である」

    「「自分だけ」の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨にもしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある」

    これもおかしい。カルヴィーノはルソーの本が「自分だけ」の古典になっているらしい。いくつも論難したいことがあって、本の存在もルソーも気になって仕方ないようで大笑いした。そういう本がわたしにもあって、学生のころにはじめてその本を読んでわーわー言い、それでも気を取り直した。社会人になってまた読むと、やはりわーわー言っている。さすがにそれを3回ほど繰り返したあたりで、一体どうしたものか? と自分を持て余したものだ。カルヴィーノのルソー愛!? のくだりを読んで、やっと溜飲が下がった。

    「古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊かよんだうえでその本を読むと、たちまちそれが「古典の」系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる」

    端的で的を射た指摘に脱帽する。「古典を読んで理解するためには、自分が「どこに」いてそれを読んでいるかを明確にする必要がある。さもなくば、本自体も読者も、時間から外れた雲のなかで暮らすことになるからだ。古典をもっとも有効に読む人間は、同時に時事問題を論じる読み物を適宜併せ読むことを知る人間だというのは、こういった理由からである」

    こんな感じで云々かんぬん書いている。たぶんこの時世では少しお節介なのかもしれない。でも「人それぞれ」だから~という名の無関心時代に、なんとも泣けてくるような思いなのだ。カルヴィーノの本と後進への「愛」だな(^o^)

    後半は古典本の紹介をしていて興味深い。『オディッセイア』『アナバシス』『狂乱のオルランド―』『ロビンソン・クルーソー』『パルムの僧院』、バルザック、ディケンズ、フロベール、トルストイ、マーク・トウェイン、ヘンリー・ジェームス、ヘミングウェイ、コンラッド、パステルナーク、レーモン・クノー、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、パヴェーゼ……。

    彼の切り口は驚きに満ちていて、これだけ多角的に、ときに辛口、ときにユーモアのスパイスを交えて古典を考察した人もそういないと思う。何度読んでも新しい発見があっておもしろい。そんなカルヴィーノの魅力を見事に表現した須賀敦子の訳、池澤夏樹氏の解説も楽しい(2023.4.19 )。

    ***
    「古典とはその作品自体にたいする批評的言説というこまかいほこりを立て続けているが、それをまた、しぜんに、たえず払いのける力をそなえた書物である」――イタロ・カルヴィーノ 

    • ハイジさん
      アテナイエさん こんにちは
      ふ、深いですねぇ(ニヤニヤしてしまいます)
      古典とは確かに向き合う自分の状態、時代、年齢、経験…その時々で全く違...
      アテナイエさん こんにちは
      ふ、深いですねぇ(ニヤニヤしてしまいます)
      古典とは確かに向き合う自分の状態、時代、年齢、経験…その時々で全く違う感銘を受けますよね
      また確かにこれだけの情報社会のおかげ(せい)で、読む前から内容を知ってしまうものも、実際読んでみると新鮮でまったく違う発見があったり…と
      何というか不思議な七変化する鏡みたいです
      そして様々な時代を経ても読み続けられる古典はやはり残されていく理由があるのだなぁと感じ、そこに自分も塗重なっていく…そう感じるとなんだか神秘的で、ずうずうしくも神聖さを感じます

      アテナイエさんの本棚にはそんな素敵な古典がたくさんあるのでワクワクします
      まだまだ私も読みたい古典の本がずら~っと順番待ちをしていますので、楽しみで仕方ありません!

      あとはこちらのイタロ・カルヴィーノさんを存じませんのでまた機会があったら手に取ってみたいです!
      2023/04/19
    • アテナイエさん
      ハイジさん、こんばんは~

      お読みいただき、ありがとうございます♪

      この本は古典ではないのですが、何度ながめても味わいのある、する...
      ハイジさん、こんばんは~

      お読みいただき、ありがとうございます♪

      この本は古典ではないのですが、何度ながめても味わいのある、するめのような本で、ある日、突然読みたくなったりするのですよ。なぜそうなるのかわかりませんが、カルヴィーノが遠くから呼んでいるのかも…汗
      はじめて読んだときは、ちと難解でしたが、するめを噛んでいるうちに美味くなってきました。

      >なんだか神秘的で、ずうずうしくも神聖さを感じます

      はい、わたしも神秘的な想いがします。なんど読んでも面白いですもの。不思議でなりません。

      それにしてもハイジさん、するどいです! カルヴィーノはこんなことも言ってますよ。

      「古典とは古代の護符にも似て、全宇宙に匹敵する様相をもつ本である」

      いや~ここまでくると、奇譚『レ・コスミコミケ』(カルヴィーノのユーモア短編本)です。でもきっとそのとおりでしょうね。

      ハイジさんはこのところシェイクスピア悲劇を読まれていますよね。たしか1600年初期(江戸時代冒頭)あたりのまぎれもない古典ですね。レビューを楽しく拝読しています。ゆっくり楽しんでください~(^^♪
      2023/04/19
  • 実は、表題作の英訳版を持っていて、ちまちま読んでいました。そこへ「邦訳が文庫に!」という情報で、渡りに船と飛びついた弱虫は私です(笑)。

    イタロ・カルヴィーノによる、古典と呼ばれる文学作品についての書評…というより、解説文をまとめたもの。ラインナップについては、「ヨーロッパの真髄」を自負するイタリアの作家だからこそピックアップされたであろう作品がそこそこあるので、カルヴィーノの語るすべてにキャッチアップできて、かつこれを「面白い」と言える碩学の人間というのは、日本国内ではとても限られてしまうだろう。私はもちろん門外漢の、ただの乱読家であるから論外。しかもラテン語とイタリア語、それらで書かれた詩の基礎知識が必要な部分もままある。訳者・須賀敦子さんの高雅な訳に乗ってしまえば、そこを読み飛ばすことはできるんだけど、そういうものではなくて、この文章は本来、そこがわかっている層のために書かれているんだろうというのが明らか。アウェイ感にいたたまれなければ、最初の20ページ強の表題作だけ読むというのもアリだと思う。平易な言葉で、古典とは何か、それを読むというのはどんなものかというのを、穏やかに押しつけがましくなく教えてくれるような気がする。そこを読み、まだ読みたいと思ったら、丁寧で明晰な訳者あとがきと文庫版解説に飛び、しかるのちに本編に挑む!という攻めかたも有効ではないかと、読んでしまってから思った…って、おせーよ、私。

    ドットーレ・カルヴィーノの圧倒的な博識さと語彙の豊富さに置いていかれつつ、よたよたと読了。カルヴィーノは卓越した作家で、卓越した編集者でもあったという。彼に担当された作家はこのうえなく幸福だったと思うけど、なんだか、鉄壁のゴールキーパーと1対1になったフォワードのように、ものすごい緊張感もあったんではないだろうかと、読みながら何度も思った。

    紹介された作品については、自分が追いつけないものも多いので、上のような漠然とした感想しか思い浮かばないのだけれど、これらの作品が残っているというのは、天災や焚書を免れ続けたり、あふれるように出版される文芸作品に埋もれなかったという、まぐれに近い幸運が重なったことと、これらの作品のよさを後世に伝える人々が続いたことにそのほとんどを負うのだと思う。なんだかそのうちの後者、伝える力の強さを味わったと思った本でした。☆5つつけたいんだけれど…うーん、私の不勉強分を引いて、この☆で。ほんのちょっとだけ、ごめんなさい。

    • Pipo@ひねもす縁側さん
      花鳥風月さん:

      お先に失礼いたします…って、最後のほうは早く終わりたい一心でラッシュをかけました(笑)。
      バルザックの項、面白く読みました...
      花鳥風月さん:

      お先に失礼いたします…って、最後のほうは早く終わりたい一心でラッシュをかけました(笑)。
      バルザックの項、面白く読みました。ほかには、パステルナークとコンラッドの項も気に入っています。

      語彙の豊かさと、評する作品に対する語彙の選択がもう百戦錬磨というかなんというか…これだけ書ければ気持ちいいだろうな、と寝ぼけた感想しか書けない自分と比べてしまいます(涙)。

      途中で力尽きそうになったら、ためらわずに後ろほうに飛んだほうがいいと思います…老婆心ながら。
      2012/06/21
    • usalexさん
      サッカーとカルヴィーノ……
      ゴールキーパー姿が頭に浮かんで、楽しい!
      サッカーとカルヴィーノ……
      ゴールキーパー姿が頭に浮かんで、楽しい!
      2012/07/04
    • Pipo@ひねもす縁側さん
      usalexさん:

      ドリブルから持ち込んでのシュートだったら、勢いで得点を決められるかもしれませんが、PKだったら、どこへ蹴っても止められ...
      usalexさん:

      ドリブルから持ち込んでのシュートだったら、勢いで得点を決められるかもしれませんが、PKだったら、どこへ蹴っても止められそうな気がしますね!
      2012/07/04
  • 最初に出てくるカルヴィーノの定義した「古典とは」を何度も噛み締めながら読む。シンプルに見えるが、行動に移すのが実は難しかったりもする。

    特に好きだったのは以下の4フレーズ。

    ・古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である。

    ・古典とは古代の護符に似て、全宇宙に匹敵する様相をもつ本である。

    ・「自分だけ」の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨に、もしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある。

    ・古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえでその本を読むと、たちまちそれが「古典の系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる。

    以上
    自分だけの古典、なんて素敵だよなあ、本との対話という言い方をするけど、自分の鏡になる体験は素晴らしいと感じた。

    カルヴィーノが取り上げている個々の古典は読んだことがあったりなかったり。読んだことない本は正直あまり頭に入ってこない。でも、もう一度、古典とは、に戻るとおぼろげながら理解できた気になる。

  • 死ぬまでにこの曲を習いたいから

  • ここで紹介されている作品や解説は日本人には馴染みが薄いと思う。が、それ自体は問題ではない。
    最新作のレビューではなくなぜ古典なのか、古典というものをどう捕らえるかが問題なのだ。
    たしかに理解しづらくはあるが、カルヴィーノの古典に対する精神に触れられることは、日本においても素晴らしい特権である。
    彼の気質をなぞりながら読書したいと願ってしまう。

    池澤夏樹氏の善きおせっかいなカルヴィーノ擁護論。
    それぞれ別個の古典作品が、読み手の中でつながって、あらたな物語を紡ぐ。
    これぞ、古典多読の醍醐味!
    「なっちゃん、よくぞ言ってくれました!」の拍手喝采である。

  • これに挙げられている未読を読まねば!

  • 本書は20世紀イタリアの作家カルヴィーノによる書物という豊かな世界への道案内である。「なぜ古典を読むのか」と題した冒頭エッセイに続き、著者の視点の光る作品評を読むだけでも、自分の世界がまた一つ広がった気分になるだろう。

  • イタリアの作家イタロ・カルヴィーノが、文学について雑誌などに書いた文章が死後まとめられたもの。須賀敦子が訳している。須賀敦子が訳している小説ではない本を読んでみたかったのが、この本を読んだ理由の一つなのだけど、もともとのイタリア語の文章がそうだったのだろうけど、須賀敦子自身があとがきで書いているように、ごつごつして読みにくい文章も多かった。

    表題作の「なぜ古典を読むのか」に始まり、取り上げられているのは、オデュッセイア、アナバシス、オウィディウス、スタンダール、バルザック、ディケンズ、フロベール、パステルナーク、トルストイ、マーク・トウェイン、ボルヘス、パヴェーゼと多岐に渡る。カルヴィーノの読書量には驚かされる。ものすごい。例えば、プリニウスの「博物誌」について書かれた「天、人間、ゾウ」の章を読むと、カルヴィーノは「博物誌」37巻全部を読んだことがわかる。私は、(プリニウスによると)「人間にもっとも近いのはゾウだからこれを精神的な手本にすればいいという。」などと書かれたこの章をおもしろく感じた。

    その他では、「オウィデウスと普遍的なつながり」の章の「イアソンとメデアの物語は、そのまま『マクベス』に用いられる」という部分、「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」の章で、ボルヘスが「私たちにとってもっとも大切なテクスト」であるダンテについてボルヘスが情熱をもって研究しつづけたことに(イタリア人として)感謝を表明したいと述べた部分などが印象に残った。

    「なぜ古典を読むのか」の中で、カルヴィーノは古典を読むいろんな理由を述べているが、私の印象に一番残ったのは次の文章である。

    「古典がなんの役に立つかといえば、私たちがどういう人間たちであるのか、どこまで来ているのかを知るためなので、そのためには[イタリア人にとっては]イタリアの文学を読むことが必要になる。自分たちを外国の人々とくらべてみるために。また、外国人[の著作]が必要なのは、これをイタリア[のもの]と比べるためだ。」

  • 時間切れ読了できず。

    古典の素養がなさ過ぎて、中身が入ってこなかった。それでも少しずつ読み進めたが、タイムアップ、これ以上はサンクコスト考えても、諦める方が良いと判断。

    ある程度、古典を読み込んだうえで手に取った方が良い1冊。

  • イタロ・カルビーノ
    イタリアの作家・編集者

    2022/3/27 再読

    対独レジスタンスのパルチザンに参加

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著者プロフィール

イタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino)
1923 — 85年。イタリアの作家。
第二次世界大戦末期のレジスタンス体験を経て、
『くもの巣の小道』でパヴェーゼに認められる。
『まっぷたつの子爵』『木のぼり男爵』『不在の騎士』『レ・コスミコミケ』
『見えない都市』『冬の夜ひとりの旅人が』などの小説の他、文学・社会
評論『水に流して』『カルヴィーノの文学講義』などがある。

「2021年 『スモッグの雲』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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