太陽がいっぱい (河出文庫 ハ 2-13)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (421ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309464275

作品紹介・あらすじ

息子ディッキーを米国に呼び戻してほしいという富豪の頼みを受け、トム・リプリーはイタリアに旅立つ。トムはディッキーに心を惹かれ、やがてそのすべてを求めてある決断をする……ハイスミスの代表作、改訳新版。

感想・レビュー・書評

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  • かつてはアラン・ドロン主演で映画になり大ヒットし、最近はマット・デイモンが主演してリメイク(題名は「リプリー」)された映画の原作。
    アメリカ人の青年トム・リプリーは家柄も地位も定職も持たず、薄汚れた部屋で、その月の部屋代にも事欠く生活をしていたが、友人のディッキー・グリーンリーフを連れて戻るようディッキーの父親に頼まれてヨーロッパに渡る。
    ディッキーの父親は造船会社を経営する資産家で、ディッキーはその御曹司。
    自分の生い立ちに比べて恵まれすぎているディッキー。トムは父親から渡された報酬が目当てでいたが、ディッキーに対する嫉妬心からか、ディッキーを殺してしまう。
    殺人の隠蔽のためにトムはディッキーになりすまして彼がまだ生きているように思わせて、警察の捜査を切り抜けようとするが、、、
    主人公が経済的に恵まれているにも関わらず気ままに暮らす友人の境遇と、同性愛者としての嫉妬から殺人を犯すという当時としては異色の設定?ではないだろうか。
    決してトムという主人公は同情を抱かせるような感じではないが、その真相がバレそうになるのを機転で切り抜けながらも、行き詰まってまた犯罪を繰り返すという進行には、バレるのか?切り抜けるのか?また犯罪を犯して深みに入っていくのか?とヒヤヒヤさせられる。
    アラン・ドロン主演の映画の結末の方が大衆受けするのは頷けるが、この原作の結末も嫌いではない。

  • ニューヨークで国税庁職員のふりをして詐欺をはたらいていたトム・リプリーは、かつての友人ディッキー・グリーンリーフの父親から「ヨーロッパへ行って帰ってこない息子を呼び戻してほしい」と依頼を受ける。トムがイタリアのモンジベロを訪ねると、ディッキーはマージという女性と共に悠々自適に暮らしていた。トムは徐々にディッキーと距離を縮め一つ屋根の下で暮らすまでになるが、二人のあいだには常にマージがいた。そしてある決定的な事件を境にトムはディッキーから疎まれてしまい、傷心のトムはディッキーを殺し彼になりすますことを思いつく。サンレモへの二人旅の途中、ディッキー殺害計画を実行したトムの危険な逃避行がはじまる。映画『太陽がいっぱい』の原作小説。


    読み始めはどうしても昔見た映画版のぼんやりした印象といちいち照らし合わせてしまったのだが、話が進んでいくにつれこの作品もまた〈同性愛者の生き方〉を取り扱っていることがわかってきて驚いた。映画はヘテロセクシャルの物語として自然にみえるよう、筋がかなり変更されているようだ。(とはいえ、映画版にもホモセクシャルの要素があることは淀川長治が指摘していたらしい)
    はじめに気になったのは『キャロル』の主人公テレーズとトムの境遇が似通っていること。二人とも孤児で他人の経済力に頼って生きてきたため、贅沢な暮らしに憧れ、今の自分の生活に嫌悪感を抱いている。テレーズは舞台美術デザイナー、トムは俳優を目指してニューヨークへ出てきたが夢破れ(かけ)ており、職業的に安定していない(トムが「デパートで堅実に働いていれば…」と考えるシーンも示唆的)。二人とも同性の友人がおらず、世間的に語られる“恋愛”に違和感をもっている。
    ふたり旅が運命を大きく変えること(マージ視点から見たトム“と”ディッキーの旅はキャロルとテレーズの旅に似ていないだろうか?)、探偵とのハラハラする問答など、展開的にも『キャロル』と重なるところは多い。当時別名義で出版した『キャロル』のほうが先に出ているので、ハイスミスが『リプリー』でも共通のテーマを扱ったと考えても不思議ではない。トムの心理を詳しく見ていこう。
    トムは打算まみれでディッキーの元へやってきたが、ローマでの夜遊びをきっかけに同居を許されてから本当に親愛の情を感じはじめる。このときトムの意識に性愛はなく、マージを疎ましく感じるのもディッキーをアメリカへ連れ帰るという目的のためだと考えているが、偶然ディッキーがマージの腰を抱いてキスするところを見てしまい、大いにショックを受ける。そして自分でもその衝撃の意味がわからないまま、ディッキーの服を着て鏡の前に立ちマージの首を絞めるという寸劇を演じるのだ。そこに帰ってきた他ならぬディッキーの言葉でトムが自覚を促され動揺するくだりは悲劇的だ。そしてトムが自身のセクシャリティにゆらぎを感じていたこと、「男を好きなのか、女を好きなのか、自分でもはっきりしないんだよ。だから、どっちもあきらめようと思ってる」というかつて言った“冗談”、しかしその言葉のなかには「事実もけっこうあった」「世間の人間と比べれば、自分ほど人の好い、心のきれいな人間はいない」という心情が読者に明かされる。
    この日を境にトムはディッキーとマージから仲間はずれにされ、疎外感から精神的に不安定になっていく。ディッキーから決定的に嫌われてしまったことを認め「死にたいよ」と呟くシーンを起点に、ディッキーへの感情は反転して憎悪となり、ふたり旅に乗り気でないことを隠そうともしない彼をボートのオールで「たたき切るような感じ」で撲り殺す。犯行の直前、トムはひと気のない入り江で「ディッキーを殴りつけることも、飛びかかることも、あるいはキスをしたり、海に投げこんだりすることもできる」と考える。ここでキスを選ぶこともできたのだ。だがトムは自分の心を死なすより、ディッキーを殺すことを選んだ。孤児、あるいは(潜在的な)同性愛者だったがゆえに孤独を強いられていたトムは、殺人者になることで自らが選びとった孤独を手に入れ直したとも言える。この先なんどもそれを後悔するのだが。
    〈殺害計画〉といってもトムのやることは全て行き当たりばったりだ。ディッキーに宛てたマージからのひどい内容の手紙(ホモフォビアがほんとひどい)で「何の取り柄もない人」と悪口を書かれるのも無理はない、とつい思ってしまうくらい、何から何まで運任せ。原題「The Talented Mr.Ripley」はハイスミスの皮肉だろう。トムに犯罪の才能はない。なんせディッキーの死体に引っ張られてボートから落ち、あやうく自分まで溺れ死にかけたりするんだから。彼にあったのは劇場では発揮できない類いの演技の才能だけ、つまり嘘つきの才能だけである。
    ご都合主義的にも思える逃亡劇にハラハラドキドキさせられるのは読み手をトムにしっかりと感情移入させているからであり、ハイスミスがサスペンスの女王と呼ばれるゆえんを思い知る。ディッキーになりすましていたトムが自分の役に戻らなくてはいけなくなり、ディッキーのイニシャルが入ったブルーとストライプのシャツに涙をこぼすシーンや、「ディッキーとマージの関係についてあんな愚かな判断のあやまちを犯してさえいなかったら、あるいはふたりが自然に別れるのを待ってさえいたら、こうしたことはなにひとつ起こらなかっただろう。そして残りの人生をディッキーとともに暮らし、旅行をしたり、生活を充実させたり、楽しんだりすることができたのだ」とおいおい泣くシーンで、私はトムにすっかり入れ込んでしまった。ここでトムははじめて殺害動機をはっきりと読者に伝えている。トムはディッキーのような人生がほしかったわけではない、ディッキーとともに暮らす人生がほしかったのだと。その望みが完全に絶たれたと感じた瞬間に、殺したいほどディッキーを憎んでしまったのだと。
    本書は、同性愛者であることを隠し続けて生きる疎外感と孤独の恐ろしさを殺人者・逃亡者の心理に重ね合わせているという意味で、クイーンの楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」にとても近い構造の作品だと思う。秘密を抱えながら常に道化を演じ、恋をした相手と同一化したいと望むナイーヴなトムの虚飾にまみれた姿は、フレディというよりカポーティのようだけど。
    映画と異なり、トムはまんまと容疑を逃れ遺産まで手に入れるが、この結末ははたしてハッピーエンドなのか、ピカレスクとしてもモヤモヤする終わり方だ。最初に比較した『キャロル』のテレーズとはなんという差だろう。キャロルはテレーズのために一人娘の親権を手放したし、テレーズ自身は夢だった舞台美術の世界へ一歩踏み出した。対して、トムのために何かを犠牲にするような人は現れない。トムは憧れの俳優業に就く代わりに、人生をまるごと嘘に変えてしまったのだ。ハードボイルドな犯罪小説でも痛快なピカレスクでもない、他人の服を着ることではじめて大胆になれた臆病な男の心理小説として素晴らしかった。私にはハイスミスを読む喜びがこれからもたくさん待っていると思うと、こんなにワクワクすることはない。

  • パトリシアハイスミスの小説に出てくる健康的な女、好き

  • 以前、アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」を観て面白かったので、いつか原作を読んでみたいと思っていた。本屋で探しても見つからなく残念に思っていたら、最近新訳で再出版された。

    有名なリプリーシリーズの一昨目である本作は、原題は「太陽がいっぱい」ではなく「The Talented Mr.Ripley(才能あるリプリー)」。このタイトルのままだったら、きっとあの映画は日本ではそんなに流行らなかっただろう。
    「太陽がいっぱい」、このタイトルは素敵だと思う。
    リプリーが憧れたディッキーの暮らすイタリアの太陽の眩しさと、ディッキーそのものが眩しく見えたリプリーの思いとが重なっており、実に見事だと思う。

    原作を読んで感じたことは、映画とはいくつか異なっているということ。
    ひとつはラスト。
    映画ではリプリーの破滅を仄めかして終わるところが、原作ではそうではない。そうしたことで原題との齟齬は無くなる。ただ、終わり方としては映画の方が正しいというか、やはり犯罪者に罰がないままはおかしいし、映像で観たときのドラマ性は高いと感じる。

    もうひとつはリプリーのディッキーに対する気持ち。
    映画では単に裕福なディッキーへの憧れという感じだったが、原作では経済的に恵まれた男への憧憬に留まらず、ディッキーに恋をしているように感じる。
    金銭だけでなくディッキーに恋するがゆえにディッキー自体になりたいと思ったという方が、リプリーが行ったことへの整合性はあるかもしれない。

    それにしても、殺人犯をシリーズの主役に据えるというのは、なかなか斬新だと思う。
    リプリーシリーズ第二作目「贋作」が、どのようにはじまるのかが気になるので読んでみたい。

  • 2023年一番の作品でした。
    初めはグレート・ギャッツビーと同じ系統かと思ったものの、まったく違うものでした。
    トムの行動や、できごとにどう思ったかということは細かく書かれているものの、心情についてはあまり書かれていないよう思う。けれども、トムの閉塞感や焦燥感、嫉妬なんかがじわっと迫ってくる。トムとフィリップとマージの関係が、よくある痴情のもつれた三角関係におさまらないとことが興味深い。

    映画も見てみたけれども断然こっちがいい。
    アラン・ドロンの色男ぶりはすごいですけど。
    リプリーも見てみたい。

  • 彼の親に頼まれてブルックスブラザーズのソックスとバスローブを買ってヨーロッパへ。パリに来た。客船で快適にきた。4年も無為に過ごしたことを考えていた。毛沢東の言うように、何かできるのは、若くてお金がない、ということなのかl。意欲、パッションはいかがなものか。
    ナポリに来た。ディッキー・グリーンリーフとあった。ブロンドの女がいた。
    原題『The Talented Mr.Ripley』
    トム(トーマス)・リプリー、主人公。解説を読むとこの作品からシリーズになり、あと四冊の作品でリプリーが活躍するらしい。自作は「贋作』でこれは翻訳があるそうだ。

  •  1955年作。
     1960年、ルネ・クレマン監督による、アラン・ドロン主演の映画が名作としてすこぶる有名で、「太陽がいっぱい Plein Soleil」というタイトルはこの映画によるもの。小説の原題は「才能あるリプリー氏」という、ちょっとつまらなそうなタイトルである。
     犯罪サスペンスもの、ということになる。全体の3分の1辺りで主人公トム・リプリーが殺人を犯して、そこからサスペンス風になる。が、私は何となくこの小説に没入できなかった。主人公の性格が曖昧でとりとめなく思われ、その心の動きに近づくことが難しかったせいだろう。
    「犯罪を犯したのちの、追い詰められる切迫感」は、もっとシンプルな描写の松本清張の短編の方が引きずり込まれるような迫力、悪夢感があったのだが、本作はもうちょっと心理描写をきちんとやっているのに、いやそれだけに、その心理がどうも私にはよく把握できなかったのである。
     結末は映画のそれとは違う。このトム・リプリーを主人公としてハイスミスは更に何編も長編を書いたらしい。私には特徴の掴みづらい人物であったため、あまり興味を持てないのだが・・・。

  • これは完全犯罪と言えるのだろうか…
    トムの衝動的で突飛な殺人と、臆病なまでに練るに練られた計画的な偽装工作の連続。
    そして、あまりにも幸運すぎる逃亡劇とその最後。

    この作品では、事件自体の完全さというよりも、トム自身の感情の浮き沈みと、はたまた何があってもうまく立ち回る身のこなし、そして綻びをうまく拾っていく彼のスキル等々、“トム”という人間にスポットライトを当てることでこそ、主人公の魅力が表に現れ、非常に興味深く感じられる作品になっている気がする。

    誰かを演じることでしか(ここでは“ディッキーだが”)今の自分を保てない不安定とも言える精神状態、自分から墓穴を掘るような言動や行動に走りかねない様子、そして上機嫌で楽天的と思いきや、自己嫌悪により何も手につかない、何も食べられないという繊細さ…ここまで心情がアップダウンの激しさが、軽快に、巧妙に描かれているのがおもしろい。

    トムは、どこか、何か、罪の意識とは別の事件にいるような気さえする。
    彼が本当に恐れているものとはなんなのか…警官か?死刑か?それとも?

  • 1960年にルネ・クレマン監督/アラン・ドロン主演で映画化(1999年「リプリー」として原作をほぼ忠実にリメイク)されたことにより、ハイスミスの最も有名な作品となった。1955年発表作だが、全編独特なトーンを持ち、時代を感じさせない。物語の舞台として、当時のローマ、カプリ、ベネツィアなどの名所を巡るため、観光ガイドとしても有用かもしれない。よく知られた粗筋は省略するが、先の映画とは随分と印象が違う。饒舌で冗長。犯罪小説と呼ぶには文学に偏り過ぎ、文学と称するには青臭い生硬さがある。

    主人公は、アメリカ人トム・リプリー25歳。幼い頃に両親を亡くし、守銭奴の叔母に育てられた。生い立ちは殆ど語らず、世界中を旅して回る望みを持つ以外は、将来について夢描くこともない。孤独な自信家で、何よりも貧しい。金持ちに対するルサンチマンを抱き、彼らの〝物真似〟をすることで自己同一性の欠損を補い、自尊心を慰撫する。切れ者だが、倫理観が欠落している。最初に犯す殺人の動機は嫉妬からくる逆恨みで、以降も犯罪を重ねていく。大金を狙うのではなく、自由に旅行ができる程度で満たされる。退廃的で刹那的、ただ今を生きている。そこには、明確な狂気がある。己が殺した相手と同化して一人二役を演じ、危険な者は躊躇わずに消す。中途で何度も危機に見舞われるが、機転と悪運によって逃れる。狂的な楽天家で罪に苛まれることがないが、犯罪が発覚することには怯える。そして、それを楽しむ余裕さえ見せる。その人間像は複雑なようで〝底が浅い〟。故に、捉え難い。

    物語の中では何度も否定しているが、主人公はホモセクシャルであることを濃厚に匂わせる。同性愛者だったハイスミスが「リプリーは自分自身である」と述べているが、青年への投影はこれにとどまるものではないのだろう。この〝男色〟が本作に漂う異様な緊張感の素因ともなっている。他の登場人物は例外なく俗物で、作者の人間不信に基づく醒めた視点を反映していると感じた。そもそも、男と女を魅力的に描く気などさらさら無かったようで、ハイスミスの造型は極めて異色だ。
    終盤で、完全犯罪を確信したリプリーは、ギリシャ旅行を夢想し「太陽がいっぱいだ」と独白。怠惰で虚無的な結末を迎え、物語は閉じられる。読み手によって、はっきりと好き嫌いが分かれる作風だが、ミステリの深遠を知ることは出来るだろう。眼光鋭い肖像が印象的なハイスミス。その屈折したスタイルによって、異端の存在であり続けたことは間違いない。

  • ルネ・クレマンとアラン・ドロンの映画「太陽がいっぱい」は封切られた時に観た。映画全盛時代ゆえ鮮明に覚えている。テーマ音楽と明るい青い海とドロンの美貌が強烈な印象だった。

    マット・ディモンのリメイク「リプリー」はTVで観た。これはこれで「トム」と「ディッキー」の関係を同性愛的に色濃く描いていて陰影があった。マット・ディモンの雰囲気があずかりあるのかもしれない。

    パトリシア・ハイスミスの原作「太陽がいっぱい」を読んでまた異なった感想を持った。「トム」が「ディッキー」を殺すに到る心理が丁寧に描いてあり、犯罪の良し悪しでなく、わかってくるものがある。

    「トム」の不幸な生い立ちとあがいても上昇しない人生が、人は出自によってどうしても決まってくるという不条理をはねのけたくなった時、どういうことが起こるのか。他人の人生とを取り替えられるのか、夢のような変身は可能か。

    「トム」が雇われ友人として「ディッキー」をアメリカに連れ帰る役目よりも、優雅に暮らしている「ディッキー」のようになりたいと思った時、愛すればこそ同化出来ると濃く近づくが、それが同性愛的友情(同性愛ではない)になってもおかしくない。

    やはり原作は読んでみるものだ。パトリシア・ハイスミスのミステリータッチの中にも冷徹な人間観察が感動する。どうしようもない人間個の欲望の強さ、哀しさを呼び覚まされる。

    情景にイタリア、特にベネッツアの風景がたくさんあって懐かしい(観光したので)こんなに出てきたんだっけ?とあらためて驚いた。が、それもこの小説の象徴であり、強調する脇でもある。

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著者プロフィール

1921-1995年。テキサス州生まれ。『見知らぬ乗客』『太陽がいっぱい』が映画化され、人気作家に。『太陽がいっぱい』でフランス推理小説大賞、『殺意の迷宮』で英国推理作家協会(CWA)賞を受賞。

「2022年 『水の墓碑銘』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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