- Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309464855
感想・レビュー・書評
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ボルヘスが編んだ古今東西の夢にまつわる断章の数々、1976年。アンソロジストでもあるボルヘスが蒐集・分類・排列した云わば「夢の図書館」とでも呼ぶべきもので、この作品自体が雑多なイメージ群からなるひとつの夢のよう。
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「宝玉の果てしない夢」「悪夢」「病める騎士の最後の訪問」「白鹿」「アロンソ・キハーノ、夢を見る」「荘子の夢」「王の夢」「意識と無意識」「隠された鹿」等々。自分が夢を見ているのか、自分が誰かの夢なのか。主/客の階層構造がくるりと反転して、始まりも終わりも無い、原因も結果も無い、meta-level も object-level も無い「円環」構造に転じてしまう奇想譚の数々。
改めて、夢と現実との位相構造ということを考えた。夢とは、現実との関係に於いて、主/従だとか実/虚だとか表/裏だとかいうように、必ずしも非対称的な(二者間に価値の偏差がある)二項対立関係のうちに位置付けられるものではないということ、そうした二項の区別自体が無意味なものとして解消されてしまう地点が在り得るということ。
それは或いは、双方の関係が互いに対等かつ対称的であるがゆえにどちらが実像でどちらが虚像であるのかが決定不可能となる「鏡像」の構造であったり。或いは、裏がいつの間にか表と地続きになりどちらが裏でどちらが表であるのかが決定不可能となる「メビウスの帯」の構造であったり。或いは、自分は誰かの夢の中の存在でありその自分が見る夢の中の誰かが見る夢の中に・・・と始まりも終わりも無限遠に消失してしまっている「無限遡行」の構造であったり。そしてその無限遡行の彼方で、尻尾が頭に咥えられた蛇を見出さないとも限らない・・・。
夢は、"基底としての主体、世界を構成する眼差しの始点としての近代的主体"という観念を無化するかのようだ。
「第一原因を独断的に措定する形而上学を回避するなら無限背進か無限循環に陥るしかない」とするミュンヒハウゼンのトリレンマが思い出された。
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夢にまつわる先行研究と云えば何よりもまず『夢判断』をはじめとするフロイトの精神分析が挙げられるところだが、本書の中にフロイトの文章は収録されていない(ユングのものは「意識と無意識」がひとつだけ含まれている)。「ボルヘスは徹底したフロイトぎらい、精神分析ぎらいで通っている」と澁澤龍彦は「ボルヘス追悼」の中で書いているが、確かにフロイトとボルヘスとでは夢に対するアプローチは全く異なる。
フロイトは、夢を性的なものと結びつけて解釈しようとする、云わば人間の内部に沈潜していく方向で捉えようとする。そこでは、人間存在の前意識的な実相がその内側から暴かれる。
それに対してボルヘスは、夢を人間の外部(にあるヨリ大きな何か、「コールリッジの夢」で語られている《永遠客体》?)へと通じる秘密の抜け穴のようなものとして捉えようとしているのではないかと思う。ボルヘスの文章を読んでいて感じる、人間のスケールを超えて時間的にも空間的に遠くに高まっていくあの「高度の感覚」、そこから見ると人間は微小な一点となりついに消失してしまうような上空に連れていかれる感覚、に通じるところがあるのではないかと思う。
ボルヘスの世界観は、「あらゆる文化現象がセクシュアリティとの葛藤の色を帯び」(田中純『建築のエロティシズム』)ている世紀転換期ウィーンの雰囲気とは、やはり全く異質である。
人間は、世界を構成する主体などではないということ、世界によって夢見られた影でしかないのかもしれないということ。
ボルヘスの「白鹿」という詩は、それをとても美しく表現しているように感じられる。
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巻末の解説で、フーコーが『言葉と物』の序文で言及した「中国の百科事典」の話が『幻獣辞典』所収とされているが、正しくは『続審問』に収められた「ジョン・ウィルキンズの分析言語」からの引用である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読書家のボルヘスおじさんが古今東西の夢にまつわる話を集めたアンソロジー。
最初は聖書からの引用と古代ギリシャローマが続き、単調ですこし辛かったが、途中の『病める騎士の最後の訪問』あたりからぐっとバリエーション豊かになる。合間に挟まる程度の分量だと聖書の引用もくどくない。
ゆっくりとかみ砕き文そのものを愉しみつつ、前の話・次の話とのコントラスト、「ここにそれを挟むか~」という選集だからこその楽しさも。
枕元に置いておき、子どもが寝物語をせがむように少しずつ読みたい。 -
古今東西の書物や伝承から「夢」にまつわる断章を集めた膨大なアンソロジー。たぶん年代順なのか序盤は聖書からの引用が多く、聖書の夢は大体預言でご都合主義なこじつけが多いのでちょっと退屈。
そして全体的に「夢」に関する解析や論考のようなもののほうが多い印象で、期待していたものとちょっと違ったかも。勝手に、もっと夢が題材になった小説や、物語の中での夢の部分の抜粋を集めたような本をイメージしていたので。
ところどころに入るボルヘス自身のエッセイは面白い。病める騎士の最後の訪問(ジョヴァンニ・パピーニ『悲劇の日々』)よくあること(ホルヘ・アルベルト・フェランド『パロ・ア・ピケ』)塔の郷士の見た夢(エッサ・デ・ケイロース『名門ラミーレス家』)など、いくつか原本を読んでみたいと思う作品もあった。
でも結局シンプルに好きなのは、鉄板の、荘子の夢やアリス、テンペストからの引用。あと『紅楼夢』も面白そうだったのでいつか読んでみたい。 -
書物の王国「夢」の後はやはりここに落ち着いた。ナイトキャップ姿で眠っているキャラクターがかわいい。300頁ちょっとでもたいへんボリューミーな夢のアンソロジー、全113篇。
ところでなかなかいいお値段。河出文庫は好きだからいいのだけど、講談社文庫がこれと同程度の規模で同じ値段だったらためらう(レーベル好き嫌い)。
神話、歴史書、小説、評論等々様々なジャンルから夢に関する記述を集めたもの。まとまったボリュームで抜粋されている章もあれば、1行2行程度のまるで箴言のような章もある。自由度と柔軟性、そして何より出典の広範なことで驚かされた。自分が行う本のチョイスからは絶対に辿り着けないであろうものがたくさんある……。これもアンソロジーのありがたさ。
古来より人間が夢に抱く関心の深さには感嘆の一言。古典が直接間接に引かれているおかげで、読みたいものがまた増える(思い出される)。ル=グイン『ラウィーニア』で夢が重要な役割を果たすのもこういうことかとあらためて納得。
聖書からの抜粋はさすがに宗教的な説教臭さを感じて聞き流したくなるのだけど、それ以外はいずれも面白かった。人間が現実を説明する理知、あるいは弄ぶ機知、世界の神秘を解く鍵、もうひとつの現実。
ボルヘス自身の作品では「夢の虎」がひときわ気になる。そしてちょっとだけ「I Dreamed a Dream」を連想する。 -
ある外国語から別の外国語に翻訳されてから、日本語に翻訳されたもの、というのを読む経験は少なくて(実際は聖書やら触れてはいるけれど)、けどこの本を読んで、翻訳という言語の壁のちょっとした奇妙さを知ることができた。書き下し文に直すとはいえ、漢語を白文のまま触れる経験をしていると、こういう海外を仲介した作品は外国の文化にさらされた味がするみたい。これからはこういうことも考えながら海外の文章を読みそう。
それはそれとして、夢を描いた話を集めてくれと言われて、これだけ集められる作家もいないと思う。作品の文化圏が偏っている以外は、とても興味深い。私なら夢十夜は必ず入れるだろうな。 -
神話、聖書、小説、詩などなど。西洋から東洋まで。古今東西の「夢」をテーマに編まれた113篇のアンソロジー集。各作品の一部が抜粋されているため、ダイジェスト集のようにも見えました。以前から「ギルガメシュ叙事詩」を読んでみたいと思っており、この本で部分的に内容を確認できたのは幸いでした。好みは分かれそうですが、この本くらいでしか触れることができなそうな作品も読める個性的な一冊でした。
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なんだか世界が広がったような気がする。コールリッジの詩、『証し』がとても印象的だった。