- Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309474144
感想・レビュー・書評
-
森山大道が自身が写真家として活動するようになったきっかけや、駆け出しの時代について回想したエッセイ集。
ジャック・ケルアックがひたすた旅をしながらその様子を小説という媒体で表現したように、徹底的に路上を舞台にして写真という方法を選択するまでのいきさつや、デビューに至るまでの修行時代などのエピソードは、”巨匠の青春時代”ともいうべき面白さに溢れている。
また、本書のラストでは友人たちと興した同人集団「provoke」の創設と離散を経て1972年発表の「写真よさようなら」で自ら”青春の終焉”と記した時期について語られている。この後、1976年発表の「遠野物語」までスランプとも呼べる時期を送るわけだが(その顛末は文庫版「遠野物語」で生々しく語られている)、その直前に何が終焉をもたらしたのかという点を本人の口から聞けたのは、その謎を知りたかった自身として興味深かった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「思想家としての森山大道」が垣間見える著作だった。こんなウィットな文章を書かれるなんて! 自らの記憶をたどるという作業、都市に埋め込まれた記憶が現在=自分の中で想起され、内在化していくというプロセス。写真家としてはドラスティックなストーリーだけど、アイデンティティの出自に苦しみ、写真を撮ることに悩み抜いた人の自伝。彼の「目のつけどころ」は真似のできるものじゃない。
-
記憶は内部にあるものではない、という彼の視点は、脳の外にあるものは情報・中にあるものは記憶、とでもいうような認知論を扱う心理学や神経科学のそれとは全く異なる。(クロノスとカイロス、精神の時間論と物理の時間論のようなものだろう)
個の私にある記憶は、世界の記憶から覚醒されて拝借しているにすぎないかもしれない。 -
すごいセンチメンタリズムだ。しかしこのセンチメンタリズムを否む人がいたとしたら、その人はきっと嘘つきだ。「僕が現実かと思って見ている記憶、記憶かと思って感じている現実。その谷間のどこかに、僕がひたすら見たいと思いつづけている風景が溶け込んでいるように思える」「いったん逃げた風景のかずかずは、僕の内部でもうひとつの風景となってある日とつぜん立ち現れてくる。それはまったく時空を超えた視覚のなかと脈絡を絶った意識のなかに、ふと再生されてくるのである」彼の文章と狭間に差し込まれる写真とのハレーションが目に染みる。
-
いい写真家は、得てして、いい言葉を紡ぐ。その法則は、この人にも、勿論、当てはまる。(13/9/7)
-
文章がとっても読み辛い。。。
-
ひとりの写真家の記憶と風景を巡る物語。
ハードボイルドというには内省的にすぎ、ビートニクと呼ぶにはあまりに理知的であり、つまり彼の写真にとても似ている。
今まで読んだどんな写真論より、実践的で説得的でした。
もっと早くに読んどきゃよかった。