アレクサンドリア四重奏 2 バルタザール

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (340ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309623023

感想・レビュー・書評

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  • 「アレキサンドリア四重奏」二冊目の「バルタザール」の巻。
    地中海の島でメリッサとネッシムの娘と暮らす“ぼく”の元に、バルタザールが訪ねてきた。
    “ぼく”の原稿を読んだバルタザールは言う。「ジュスティーヌが本当に愛していたのは誰だか知っているのか?自分だと思っていたのか?」
    “ぼく”はあの都会から解き放たれるためにすべてを知らねばならない。あの都会での記憶を再構築しなければならない。
    「彼女がもし本当に誰かを愛していたというなら、それはパースヴォーデンだ。だがパースヴォーデンは彼女に対して全くその気が無かった」

     …ええーパースヴォーデン?語り手もびっくり、読者もびっくり。
    第1巻ではパースヴォーデンはそれなりに成功している作家でちょっと冷酷な印象のあるお坊ちゃまっぽいやつで、無名作家である“ぼく”はパースヴォーデンへの苦手意識を持ち、そして彼が謎の自殺を遂げたことが書かれている程度の出番だったよねーー。

    シリーズ1冊目の「ジュスティーヌ」は、“ぼく”の心情描写だったため全体的にふわふわした印象でしたが、今度はバルタザールが自分の知っていることを書き伝えたことを改めて“ぼく”が考える構造のため、1冊目よりは現実的な印象でした。

    登場人物の関係を軸とした筋紹介。
    ❐ジュスティーヌとクレア
    ジュスティーヌは最初の夫アルノーティとの間に生まれた娘を誘拐されて離婚する。
    その後生活のためにモデルをしていた時に女流画家のクレアと知り合った。クレアはジュスティーヌをモデルとした絵を描くが、その絵はキスで中断された。

    ❐ネッシムとその家族
    ジュスティーヌの二度目の夫、ネッシム・ホスナニには弟のナルーズと母のレイラがいる。
    口唇病のナルーズは、異形には神が宿るというこの地方の考えにより何の治療もされていない。莫大なホスナニ家の財産で地方のお大尽として暮らしている。一度見かけただけのクレアに愛情を抱いているが、直接訪ねることはできない。
    母レイラは、天然痘で崩れた顔を隠し、屋敷に閉じこもっている。レイラの楽しみは、亡き夫の秘書で、今はイギリス外交官のマウントオリーヴとの文通だ。マウントオリーヴが世界中から送る手紙は、レイラが正気を保つ唯一の理由となっている。
    どうやらホスナニ家は、何らかの集会を開き、そこで国家間の情報も得ているようだ。

    ❐ネッシムとジュスティーヌ夫妻
    ネッシムとジュスティーヌの間に愛情はなく、だからこそ二人は完璧な夫婦の彫像のような生活を送っていた。
    ジュスティーヌがネッシムと結婚したのは、誘拐された自分の娘を探すためだったのだが、
    ネッシムは占い師により「その娘はすでに死んでいる」と言われる。
    ネッシムは最初に愛が無くてもともに暮らすうちに芽生えると思っていた。
    しかし娘が死んだとなればネッシムとジュスティーヌの繋がりはなくなる…ネッシムは奔放に男との逢引を続けるジュスティーヌに対して激しい嫉妬を示すようになる。

    ❐バルタザールの人間観察
    バルタザールは、ジュスティーヌが唯一何でも話せて相談できる相手だった。
    人の本質は、その人が表に出すものではなく、その奥にあると“ぼく”に示唆する。

    ❐ジュスティーヌとパースウォーデン
    ジュスティーヌがパースウォーデンに惹かれたのは、自分を求めもせず自分がいなくても平気でいられる男に初めて出会ったからだった。そこで彼女は、この男こそ本当に愛しても良いのかと思ったのだ。
    パースヴォーデンがジュスティーヌに興味を持ったとすれば、少女の頃に親戚の男に強姦されて精神を患い、しかしそれを下地にして作られた彼女の複雑な性格のためだ。
    しかしパースウォーデンは皮肉を含んだ微笑でジュスティーヌを拒絶する。
    パースヴォーデン死を聞いたバルタザールとジュスティーヌが駆けつけると、ネッシムが側にいた。
    ジュスティーヌの絶望がいかばかりであったか。

    ❐カポディストリアの死と謎
    幼いジュスティーヌを強姦した男とはカポディストリアだと明かされる。
    これに関しては、1巻からヒントが出ていたのでまあそうだろうな、というところなのだが、彼自身は「路地にいる少女を裏道に連れ込むのはこの都市では誰でもやっている遊び」として忘れ去っていた。
    1巻で狩猟大会の最中に事故で死んだカポディストリアの死体に不審体には不審な点があったこと、彼の蔵書が運び出されていることから、死んだのは本当にカポディストリアなのかと怪しまれている。

    ❐パースウォーデンの性質
    半端な仕事をしてふらふら生きてきたために、芸術家としての“餓え”を知らないと自嘲している。
    ジュスティーヌがパースヴォーデンに惹かれたのは、自分を求めもせず、彼女なしで平気でいられるおことkだったからだ、そのために相手を「本当に愛して」良いのかと思った。
    パースヴォーデンは皮肉めいた優しい笑みでジュスティーヌを拒絶する。

    ❐スコービーの死の真相
    “老海賊”スコービーは、エジプト警察、秘密情報組織に勤めながら自らスキャンダルを起こす。
    同性愛を楽しむ彼は見るからに怪しい女装姿で港に現れていた。
    奔放なスコービーだが、アレキサンドリアでは当たり前に見られる割礼小屋、特に女の子への割礼には嫌悪感を示していた。
    港で見つかったスコービーの死体は、女装で、群衆に踏みつぶされた姿だったため、エジプト警察はその死体を装った。

    ❐男娼トトの死
    男娼のトト・デ・ブルネルは、魔女のような萎びた目鼻と少年のような瞳を持っている。
    感謝祭の仮装でジュスティーヌの身代わりを務めたら死体となって発見された。
    ジュスティーヌは、嫉妬に狂う夫のネッシムが自分と間違えてトトを殺したのではないかと怯える。

     …この物語はアレキサンドリアという都市を主体とした恋愛人間模様かと思っていたのだが、“ぼく”の周りで複数の不審な死が続いているので、実は殺人犯探しのミステリー物語だったのだろうか、などと思いながら読み進めたのですが、このトト殺しだけはすぐに犯人が明かされる。
    ネッシムの弟のナルーズが、兄という夫がありながら色目を使ってきたジュスティーヌ(本当はトト)に腹を立てて殺したと告白する。

    ❐マウントオリーブ
    アレキサンドリア四重奏シリーズ3冊目は「マウントオリーブ」。
    最初の2冊ではチョイ役なのだが3冊目は彼の目線が入るのか。
    人に対しては気楽な態度を取っているが、それは訓練された外交官としての表面的なものだという。
    それなら次の巻で語り手になる彼の本性は、見てきたものは何なのか。

  • 前巻と同じく語り手は「ぼく」であるが、バルタザールから受け取った前巻の手記への「行間解説」を受けて、物語が再構成される。時系列的には前巻と同じ時期だが、新しい登場人物やエピソードが語られるほか、同じ登場人物でも違った面が掘り下げられていく。目立たないが、前巻で語り手に徹していた「ぼく」に対する他の登場人物からの言及が増えている。

    よくわからん言い回しや抽象的な議論に難渋させられるのは相変わらずだが、物語がすごく動き出してきた感がある。

    「芸術における古典的なものは、意識的に同時代の宇宙論と肩をならべて進むのだ。」とのことで、この小説の時系列をバラバラにした手法は相対性理論を意識しているとか作者は称しているそうだが、現代で同じことを考えると多元宇宙論的小説になるのだろうか。しかし、ここで描かれる多層的なストーリーが、既に多元宇宙論的と言えたりして。

  • 2作目に入ってこの4部作の構造・狙いがわかった。語り手を変えることにより複眼的に人間関係や事象を浮かび上がらせるということか。人物・話に厚みとドラマが生まれた。
    バルタザールが明かすのは、ジュスティーヌが愛していたのは実は死んだパースウォーデンで、主人公(ダーリー)は当て馬だったということ。さらに、ひたすら愛と嘆きの「ジュスティーヌ」と比べて、ドラマが多様だ。子供の誘拐、殺人、女装などの事件が起こり(または明かされ)、ネッシムの弟ナルーズなどの新キャラがずっしりと存在感を発揮。トトの殺人をめぐる真実は?ジュスティーヌの人格も、単なる恋多き女というだけではすまない。
    相変わらず謎めいてエキゾチックで、それ自体が主人公のようなアレクサンドリアを舞台に、群像劇が繰り広げられる。一人称語りようでありながら、パースウォーデンも知っているはずがないことが含まれている。なるほど、ここにきて複雑な糸を解きほぐすためには全能の語り手の視点が必要だろう。
    相変わらずもやもやっとした美文調で読みやすいわけでもすごく面白いわけでもないが(苦笑)、次が気になる。4部のクレアはいろいろありそうだが、3部がマウントオリーヴ、このキャラはまだほとんど紹介されていない。

  • パランプセストというものがある。中世ヨーロッパにおいては、羊皮紙は貴重な資源だった。そこで、一度使った羊皮紙の表層部を削った後、再度使用するのが習いとなっていた。中には、新しく書いた文字の下から以前に書いた文字が浮かび上がって見えてくるようなこともあったらしい。パランプセストというのは、そのような羊皮紙をさして使われる言葉である。

    『アレクサンドリア四重奏』という小説には、パランプセストを思い出させるものがある。第一巻「ジュスティーヌ」で、一つの世界が書かれながら、第二巻「バルタザール」において、小説家は一度書き上げた小説世界を消し去り、同じアレクサンドリアを舞台に、同じ登場人物、同じ事件を使いながら、別の図柄を描いてみせる。しかし、一度頭の中に作り上げられた世界は新しい物語を読んだ後でも消えてしまうことはなく、新しく描かれた図柄の下から、第一巻で描かれた図が浮かび上がることによって、ひとりの人間に二つの感情、一つの言葉に二つの意味がかぶさり、人間心理の複雑さがいや増す結果を生むことになる。

    まるで、今見終わったばかりの映画と同じ物語を、同じ俳優を使って、別のキャメラ、別のアングルで初めからもう一度見せられるようで、読者は、何が本当なのか、いったい誰の言うことが事実なのかという、芥川龍之介の『藪の中』の読者やそれを映画化した黒澤明の『羅生門』を見た観客と同じ状態に置かれてしまう。

    作者は登場人物のひとりで、早々と自殺して舞台から退場する作家パースウォーデンの言葉を借りて、次のように述べている。「ぼくらは選びとった虚構の上に築かれた生を生きている。ぼくらの現実感覚は自分たちが占める空間と時間の位置に左右される―ふつう考えるように、ぼくらの個性に左右されるのではない。だから、あらゆる現実解釈はそれぞれ独自の位置にもとづいてなされるのだ。二歩東か西に寄れば、画面のすべてが一変する。」

    この世界に確実なものは何もない。みな、それぞれが自分の立つ位置からしか見ることのできない世界を現実と思いなすことによって、この世界は成立している。そんなことは分かり切っている。ただ、それを認めてしまうと、その中に存在している人間の数だけ世界が在ることになる。そうなれば、誰もが自分の見ているものこそ真実だと主張しはじめ、世界は統合失調状態になり安定を保てなくなる。

    だから、現実感覚としては、自分の視点を括弧に入れて、世間一般というものを仮定し、みんなが見ている「共同幻想」を一つの現実解釈として受け容れることで、世界を安定させている。政治や社会一般の問題ならそれですむ。ところが、恋愛ばかりは共同幻想で処理する訳にはいかない。吉本に倣って言えば恋愛は「対幻想」の世界である。AがBを好きになり、BもAが好きであれば、それなりに安定が保てようが、Cという存在が中に割って入ることによって、簡単に崩れてしまうのが「対幻想」の世界なのだ。

    ましてや、錯綜する人間関係が特徴的な『アレクサンドリア四重奏』の世界では、AはBを、BはCをという鎖状の恋愛関係で結ばれている上に、秘された恋愛感情や、隠さねばならぬ関係に溢れかえっている。これをできる限り誠実に描こうとすれば、複数視点の導入しかないだろう。ダレルは、「ぼく」という作家志望の青年を視点人物に据えることにより、一種のメタ小説を試みている。

    第二巻は、「ぼく」によって書かれた「ジュスティーヌ」を読んだバルタザールが、「ぼく」の住む島を訪れ、「ぼく」の思い違いや錯誤を指摘した分厚い「行間解説」を置いていったことからはじまる。それによれば、ジュスティーヌが本当に愛していたのはパースウォーデンであり、ネッシムの嫉妬から彼を守るために囮にされていたのが、「ぼく」だったことが明らかになる。パースウォーデンが「ぼく」とメリッサに遺産を残していく理由もそれで分かる。

    「ジュスティーヌ」が、アレクサンドリアという都市に眩惑されたような詩的な文章で、しかも断章的に描かれていたのに比べると、「バルタザール」は、よりリアリズム小説的な文体が採用されている。「ぼく」は登場人物としては背後に退き、話者として他の人物の感情に寄り添いながら事件を語ることに徹している。「ぼく」という紗幕が剥がれたことにより、読者は人物の近くで事件の推移を見守ることになり、臨場感溢れるドラマが展開される。「ぼく」の作家的成熟を感じさせるのが目的なら充分にその目的は充分に達成されているといえよう。

    『アレクサンドリア四重奏』が、なぜ「四重奏」と謳っているのかが、おそまきながら分かってきたように思う。一つのテーマを異なる音色を持つ楽器、ちがった天分を持つ奏者によって演奏させることによって、ソロとは異なる効果を得ようというのが作家ダレルの野心的な目論見だったのだろう。しかも、まだ展開されてない重要なモチーフはいくつもある。第三巻、第四巻で、それらがどう動くことになるのか、今後の展開が待たれる。

  • 図書館本です。暖色系の表紙が素敵な第2巻。原題“The Alexandria Quartet: Balthazar”。

    1巻で提示されている関係と事実にもとづき、語り手のぼんやりとして、でも多弁な思考がさらに広がります。「彼」っていわれても、その候補がタイトルロールを含めて、3人くらいは常に出てくるので、「この『彼』って、このヒトだったっけ?」と迷いながら、行きつ戻りつ読み進む。これってダレルの思うつぼなんだろうな(笑)。

    自分がとらえきれていると思っていた甘美な事実に「それ、違うんじゃない?」と疑問を突きつけられて、近しい人との離別や死をうろうろと考え直してみたりする語り手の姿には、事実をとらえ直すというよりも、「そうかもしれないけれど、そうは考えたくない」という空気がありありと漂っていて、冷めない熱を追いかける感じがなんとも堂々めぐりっぽい。でも、その堂々めぐりの中で、知りたかったこと、知る必要のなかったことの輪郭がくっきり浮かび上がってくるような。外堀から埋めるのね〜。

    第1巻を読んだときには、ギリシア・ローマ神話由来の比喩や文献の引用がちりばめられた文面に、「これって、英文学っていうより地中海文学だよなぁ」と思ったんですが、この巻ではシェイクスピアやキーツ、ディケンズなどなど、英文学の引用が上乗せされて、英文学そのもの。訳注がないと、ついていけませんわ(笑)。

    人物関係だけ取ったらソープ・オペラだろうし、提示されていなかった事実がつぎつぎと掘り出されていくところは、ミステリ感覚もあるような。でも、それが1点に集約されていく気配はないような気もするから、献辞のとおりの「忘れられぬ都市のこの記録」なのかもしれません。ザラついた甘美さがあとをひくまま、次巻へ(時期未定だけど)。

    [2008.7.15 未読リストにアップ]

  • このような構成の作品は初めて。連作長編といういうべきなのだろうか。前巻で描かれた物語を別の視点から再構成するというもの。それがまた入れ子になっていて複雑で不思議な味わいがある。
    人物間の感情のすれ違う様子を描いた描写が見事だと思う。

  • ゆつくりとまはる毒

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著者プロフィール

1912~1990。イギリス系植民者の息子としてインドに生まれ、イギリスで育つ。小説『黒い本』『アレクサンドリア四重奏』『アヴィニョン五重奏』、紀行『苦いレモン』、詩集『私だけの国』他。

「2014年 『アヴィニョン五重奏V クインクス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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