信長政権 ---本能寺の変にその正体を見る (河出ブックス)

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  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309624563

作品紹介・あらすじ

明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか-異説・新説が飛び交い、いまだ論争が絶えない「本能寺の変」。光秀の性格はむしろ信長に似ていた?四国出兵は長宗我部氏討伐が目的ではなかった?信長は天皇を蔑ろにしていたわけではない?将軍・足利義昭の黒幕説は成り立たない?史料を真摯にひもときながら、日本史永遠の謎を改めて検証。あわせて織田政権の実像を浮き彫りにする。

感想・レビュー・書評

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  • 結論から言えば本能寺の変が無くても織田信長の末期はロクなものにならなかったろうという事。
    インテリで権威を重視する光秀像では無くフロイスの資料から策謀の達人として分析しているよが面白い。

  • 織田信長については多くの本が出ていますが、私が興味を持っているのは、彼のデビューした桶狭間の戦いと、明智光秀にやられた「本能寺の変」です。

    明智光秀がなぜ事件を引き起こしたか、様々な説があるようですが、この本では、多くの説には信憑性が無いということを丁寧に解説したうえで、結論として「単独説」を導いています。その原因としては、今までの説をいくつかは否定しているものの、決定的なものはまだ出ていないようです。

    この本を読んで私が理解したことは、信長は、当時の日本の中心地である近畿地方については、信長の三人の子供に継承させて、有能な部下を使い捨てしながら全国制覇をしていくという考え方を持っていたということでした。

    これに対して、明智光秀だけでなく、豊臣秀吉・徳川家康も、一家臣として、いつクビになるかもしれない不安を持っていたというのが実情のようですね。

    以下は気になったポイントです。

    ・永禄12年(1569)の木下秀吉との連署状において、秀吉が日付の下、光秀が奥に署名をしている、奥に署名をするほうが身分が高いので、この当時は光秀は秀吉より高い地位にあった(p37)

    ・信長は中世的権威を否定して近世への道を切り開いたと言われるが、政治運営については、旧来の勢力の出方を見ながら慎重に進めたと考えられる(p38)

    ・光秀は義昭に仕えているというよりも、信長から派遣された「付家老」的な要素が強い(p45)

    ・長宗我部元親と信長が結んだ背景には、阿波や讃岐で抵抗する三好氏の存在があった、かつて細川氏がその地域を主語として君臨していたが、16世紀半ば以降に家臣である三好長慶が台頭した、その三好氏が信長に反抗していた(p52)

    ・天正10年(1582)、信濃の木曽義昌が同盟関係にあった武田勝頼を裏切り、信長方についた。勝頼はこれを討伐すべく1.5万の兵を遣わせた。義昌の援軍要請を受けた信長は、信忠を派遣してついには勝頼を死に追い込んだ、この時活躍した滝川一益は関東管領の地位を手に入れた(p82)

    ・天正3年(1575)、信長は従五位下に叙されて昇段を果たした、翌年11月には権大納言と右近衛大将を兼ねた。近衛大将とは、幕府の「唐名」、朝廷は信長を将軍と同じように処遇した(p176)

    ・天正6年、信長は突然、右大臣兼右近衛大将を辞したが、重要なポイントは、正二位を返上していないこと(p179)

    ・天正10年6月1日、信長は自身で日食を確認し、宣命暦の不正確さを再確認した。信長が三島歴への変更を迫ったのは、天皇を不吉な光から守るためであった(p188)

    ・明智が攻めてきた時に信長が発した有名な言葉(是非に及ばす)は、今では、是非を論じるまでもない、もはや行動あるのみ、という解釈がなされている(p209)

    ・本能寺の変の後に明智に付き従ったのは、旧若狭守護の武田元明と、旧近江半国守護の京極高次であった、他の大名(筒井順慶・細川幽斎)は拒否した、このことから黒幕説は成り立ちにくい(p214)

    ・秀吉と光秀の対決ではあったが、総大将は信孝であった、なので摂津富田で信孝を待った(p222)

    ・本能寺の変後、さまざまな側面で無計画性を露呈した光秀には黒幕は存在せず、単独犯であると考える(p224)

    ・統治を任された配下の大名たちは一定程度の自立性はあったが、譜代や一門が優遇されたのに対して、外様は絶えず危機感を抱いていた、荒木村重・別所長治はその代表であり、謀反の危険性は絶えず内包していた(p232)

    2013年8月25日作成

  • 続いて大門氏の本。

    秀吉に関する記述は、「秀吉の出自と出世伝説」からもってきていると思われ、続いて読むととても面白かった。
    こちらも、これまでの光秀の印象はほんとうか?という部分から入っているのでとても興味深い。
    彼は本当に美濃土岐氏なのか、将軍義昭に仕えていたのかなどなど、これまで普通に語られてきた光秀像とは、違い、
    しかし、本能寺の光秀単独説で語られる光秀を考えるとき、この本でいう光秀の方がしっくりと来ることは間違いない。

    これまでの教養人、信長に虐げられ追いつめられていた、というような光秀像は、そんなことはなかったんじゃない?と思える。
    一読するに値する本だと思う。
    しかし、帯の文言はどうかと思う。かなり本書の印象とは違う気がする…。

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著者プロフィール

(株)歴史と文化の研究所代表取締役。専門は日本中近世史。
『豊臣五奉行と家康 関ケ原合戦をめぐる権力闘争』(柏書房、二〇二二年)、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書、二〇二一年)、『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、二〇二一年)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房、二〇二〇年)。

「2022年 『江戸幕府の誕生 関ヶ原合戦後の国家戦略』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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