「原っぱ」という社会がほしい (河出新書)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309631271

作品紹介・あらすじ

序文 草の海のキャッチャー 内田樹
第一章 「近未来」としての平成
1 昭和の終わりと平成の始まり
一 極私的な「昭和の終わり」/二 「時代」という壁/三 昭和の終わりと「時代そのもの」の終わり/四 平成になってバブルははじける/五 平成三十年はどんな期間か/六 昭和オヤジの受難/七 いつの間にか生まれていたもの
2 「時代」とはなんだ?
一 昭和への軽侮/二 「変革の心」ではなく/三 人気投票で動く社会/四 苦悩のない社会/五 改めて「時代そのもの」がなくなった
第二章 「昭和」が向こうへ飛んでいく
第三章 原っぱの論理 
1メンドクサイことなんか知らない/②女ばっかりやたらいた/③我が祖母、橋本千代のこと/④近所にも子供達がいた/⑤そこに原っぱがあった/⑥世界で、一番幸福だった時代/⑦原っぱが遠ざかる日/⑧中学だって遊んでた/⑨〝大人〟は、判ってなんてくれないんだ/⑩原っぱという社会がほしい/⑪少年の為に
第四章 遠い地平、低い視点 
闘病記、またしても/なぜこんなに癌になる?/窓からの眺め/観光客が嫌いだ
特別掲載 野間文芸賞贈呈式スピーチ原稿

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    「誰のものでもない土地で空いているだけだから、使い途が何もない土地は、大人にとってみればなんの意味もない土地なのね。ところが子供にしてみれば、草の海があるようなもので、そこに来て遊ぶっていうことするのね」

  • ・つまりさ、そこに何かがあってーそれははっきり言って”社会参加に関する基本ルール”なんだけどーそこに自分が第三者としているんだったら、入りたいのか入りたくないのかっていう意思表示をするべきだし、入れるか入れないのか、入って一人前にやれるのかどうなのかっていう能力っていうこと、自分で見極めなくちゃいけないんだけれども、そういうこと分かんなくて、ただボサーッと立ってるだけなんだよ。ほんで俺、なんでその「入る?」とかって「入らない?入る?」ってそういうことをワリとしつこく言ってたのかっていうと、俺はそうやって見てた子だからなのね。

    ・でもそれは、シチュエーション、シチュエーションでしょうがないのね。そこで「ダメ」って言われないようになるにはどうすればいいかっていうと、うまくなるしかないんだよ。ほんで、うまくなる為には、恥かいてでも損してでも、やって、慣れていくしかないわけで、俺やっぱしそういう風にやって克服しちゃうからさ、ある瞬間、ビー玉がいちばん強い人にはちゃんとなるのね。なんか、みんな何やってもなっちゃうんだよね。ビー玉なんか、持っているか持ってないかははっきりしてるし、メンコだって同じだけれども、そうじゃなくて、もっとわけの分かんない遊びもあるんだよ。たとえば鬼ごっこやってる、隠れんぼやってる、缶蹴りやってる、っていうのあって、それでも「入れて」つっても「いや!」っていうやつはいるのね。だから「ダメ!」っていうような言われ方することだってあるわけでさ。それはその遊んでるやつらが一体感っていうのを満足させてるから、まだ他人を入れるだけの余裕がないわけさ。だから「ダメ!」が出てくんの。

    ・だから、ルールがあってないようなものなのね。その時に一番盛り上がれて「これで満足できてうれしい」っていう、そういうものがルールの根本であるみたいなところがあって、それは俺達だけじゃなくて、どっこもかしこもみんなそうだったと思うんだよね。
    で、昭和の30年代くらいはなんで「原っぱの時代」かっていうと、戦争っていうのがあって、空襲で焼けたところがあって、その焼けたところはそのまんまになってて、っていうのもあるのね。だから原っぱっていうのは、ただの原っぱじゃなくて、今とほとんど同じなんだけど、家の土台みたいなのがあって、その土台石をトイレにする、そこに穴を掘ってあるところを隠れ家にするみたいな形で、言ってみれば人工的にプロデュース出来ていけるような、ただの野原っていうのではなくて”人為的な跡地”なのね。入口がここにあって、今は廃墟になっていて、草っぱらになっていて、自由に使っていいですよって、そういうような土地で、ほんで、そこに家を建てるっていう時代も始まってくんだけれども、昭和の30年代くらいまでは、家がゆっくりゆっくり建ってくわけ。ちょっと大きなアパートが空き地に建って、っていう風に塞がっていくんだけど、まだ空き地はあるのね。

    ・たとえば『練鑑ブルース』歌えてさ、「おー、オサン」ってー俺のこと「オサム」って言わないで、「オサン」って言うんだけど、のれば平気で乱暴してさ、なるべく痛くしないように、っていうのもあるんだけど、のってくると平気でバシバシぶってしまうっていう乱暴なイサムちゃんだって、やっぱしその子なりに取り柄があるんだけど、学校へ行ってしまうと、なんかやっぱし、普通の家の子よりもちょっと貧乏な子でっていう風に変わっちゃうのね。トウジンバラのテッちゃんなんて、サブリーダーって感じでわりと張り切ってた子なんだけど、学校行ったら下級生なんだよ。だから学校行ったって、昨日の原っぱの友達に次の日新学期で会うと、もうみんな「学校に捕まった」って顔してんの。原っぱの顔じゃないんだよね、全然。

    ・好き放題っていうのは、俺一人で好き放題やってたんだと思うんだけど、その辺はなんか、『恋愛論』の中で、中学三年の頃こういう風にやってたっていうことを読んでもらえば分かると思うんだけど、俺やっぱり「みんなが助け合うと変わってって」っていうことが、それこそ小学6年の時、原っぱん中で知ったから、今度はその原っぱが中学三年の教室の中に登場しちゃったと思ったの。思って、「ああもうちょっとでーメデタシメデタシにならないで、落ちた子もいたし」とかっていう風な形で終わってたねェ、みたいなのがあるんだよね。

    ・俺、ワリと他人に対して譲歩するの平気っていうのは、原っぱを作っておかなければ一緒に仲良く出来ない、お互いが仲良くなる為の場所っていうのが絶対に必要で、そこに入っていかなかったら、そのかわり他人の変な中に踏み込んでいっちゃうっていう風になっちゃうから。出てってー出ていって、その出ていったところで、「やっぱり君ってこういう人間だよね」っていう形で、それをどうしていくかっていう風に変えてかなくちゃいけないし、世の中っていうのはそういうもんである筈なんだけど、今の世の中っていうのはそういう風になってないんだよね。今の世の中、学校になってるだけで、原っぱには全然なってないと思う。
     だって、そうだとしたらービー玉が禁止だったらおはじきを格闘技に変えていくんで、その変えていくことからどういうロジックが導き出されて、そのことを踏まえて、どう自分達で生きていけばいいのかっていうことが分かる筈だから、俺はいくらでも生きていける筈だと思うのね。だから自分が譲歩するのはいいけれど、他人に譲歩されるのはいやなんだよね。他人に譲歩されるっていうのは原っぱの人間じゃなくて社会の人間だから。

    ・<原っぱの論理>っていうのは、場所の論理であって、人の論理であって、時間の論理であってって、その三つっていうのが全部一つであるっていうのは、自分っていうのは色んな要素から出来上がってるから、”色んな要素の中の何か一つ”ではなく、色んな自分ーその自分の手を取ってくれる他人っていう形で広げていかない限り、目って何も見えないと思うの。

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著者プロフィール

1948年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒。小説、戯曲、舞台演出、評論、古典の現代語訳ほか、ジャンルを越えて活躍。著書に『桃尻娘』(小説現代新人賞佳作)、『宗教なんかこわくない!』(新潮学芸賞)、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(小林秀雄賞)、『蝶のゆくえ』(柴田錬三郎賞)、『双調平家物語』(毎日出版文化賞)、『窯変源氏物語』、『巡礼』、『リア家の人々』、『BAcBAHその他』『あなたの苦手な彼女について』『人はなぜ「美しい」がわかるのか』『ちゃんと話すための敬語の本』他多数。

「2019年 『思いつきで世界は進む』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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