存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)

  • 河出書房新社
4.06
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  • Amazon.co.jp ・本 (390ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309709437

作品紹介・あらすじ

優秀な外科医トマーシュは女性にもてもて。しかし最初の妻と別れて以来、女性に対して恐怖と欲望という相反する感情を抱いている。彼は二つの感情と折り合いをつけ、複数の愛人とうまく付き合うための方法を編み出し、愛人たちとの関係をエロス的友情と呼んで楽しんでいた。そんな彼のもとにある日、たまたま田舎町で知り合った娘テレザが訪ねてくる。『アンナ・カレーニナ』の分厚い本を手にして。その時から彼は、人生の大きな選択を迫られることとなる-「プラハの春」賛同者への残忍な粛正、追放、迫害、「正常化」という名の大弾圧の時代を背景にした4人の男女の愛と受難の物語は、フランス亡命中に発表されるや全世界に大きな衝撃を与えた。今回の翻訳は、クンデラ自身が徹底的に手を入れ改訳を加えて、真正テクストと認めるフランス語版からの新訳決定版である。

感想・レビュー・書評

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    存在の耐えられない軽さ :ミラン・クンデラ,西永 良成 | 河出書房新社
    https://www.kawade.co.jp/sp/isbn/9784309709437/

  • 75/100人生は(物の数にも入らない)1回きりで、どの決心が正しくて、どの決心が間違っているのか知ることはできないなら、自分が望むように行動しているという確信を持てれば、上出来なのかもしれない。

  • 新訳で再読。生の不条理、愛の不確かさについてこれ程までに向き合いながら、なぜクンデラは正気でいられたのだろう。人間が本当に耐えられないのは軽さや重さそのものではなく、全ての決断の裏に潜む可能性の存在だ。プラハの春とその挫折という歴史は政治の持つ不条理さを暴き出し、それは恋愛の不条理さと呼応する。安易な人間らしさ=キッチュなものに対して抵抗しようとする生き方は苦痛と困難を伴うものであるが、だからこそ最後には至福の感動に辿り着く。例えそれが喪われる事を前提とした、手の平程の小さな幸福だとしても。圧倒的大傑作。

  •  作者のキッチュ観…多くの人を取り込もうとして受けの良い、わかりやすい要素で固めてしまうこと。逆は、わかりにくくても自分なりに一つ一つ事実と思考で行動すること、かな。私としても安易にキッチュ的なものに取り込まれず、後者の姿勢でやっていきたいものだ。
     作中の人物ではトマーシュに興味を惹かれた。自分の行動原理を逐一説明できるような理知的なタイプだがセックスが趣味。テレザとの恋愛は彼にとってイレギュラーパターン。なだけに恋愛はどういうことか、が描かれていると思う。
    テレザのほうは、行動原理が現状の環境に不満で変えたい、というかんじであまり感情移入できず(断然サビナが格好良いと思える)。やはり現状の暮らしに満足していると誰かの家に駆け込むということは無いだろうな。
    最終的にペットの犬との気持ちの通い合いのほうが男女のそれより信頼できる、という風に読めてしまったがどうなんだろう。

  • 1日1章1時間、7日かけて読み終わった。なんでも音楽畑の出のクンデラは、シンフォニーの構成を小説に取り入れて7章構成にするのがこだわりらしい。

    各章でさまざまな角度から語られて、と言うよりもはや論じられて、と言った方がいいくらいに説明を尽くされていたのは人生というテーマ。人生は一度きりであるがゆえに重要でもあり無意味でもあるということを大きな枠組みとして、この紙一重の両面性を登場人物達の孤独や愛や幸せに落とし込んでいく物語だったと言える。

    東洋人の私はやはり「行く河の流れは絶えずして...」の思想が根底にあるからだろうか、「人生は大事だけど取るに足らないですよ」と言われた段階では、そりゃそうだと早合点してしまった。
    しかしさすがは「我思うゆえに我あり」の文化だからなのか、それを個人の愛や幸せに敷衍していった過程にこの本の感動があった。倦怠の中にこそ愛はあり、悲しみの中にこそ幸せがある...。第7章でこの境地に至るために、それまでの文章は人生の孤独や齟齬を語ることに費やされていたのだと知る、そんな構成だった。


    ボルヘスがカフカを教えてくれ、カフカからこのクンデラに辿り着いた。この作家が、次に誰のもとへ連れて行ってくれるのか楽しみだ。

  • <blockquote cite=\"http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2008/11/2008-5e16.html\" title=\"わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる: この本がスゴい2008\"><P> <B>物語の体裁をした長い長いクンデラの独白</B>。「プラハの春」を歴史背景に、愛し合う男と女を鮮烈にエロチックに描いている。新訳で10年ぶりに再読できた。物語を読んでいるのに、「人生の一回性について」という哲学の問題を考えさせられる。未来からの重みを感じれば、一回きりしかない人生はとてつもなく重要に思えてくるだろう。しかし、わたしたちはそれを確かめるすべを持たないのではないか? 著者クンデラは物語の合間合間に、そんな疑問をナマで問い合わせてくる。</P>

    <P>人生が一度きりなら、そして予め確かめるどんな可能性もないのなら、人は、みずからの感情に従うのが正しいのか、間違いなのかけっして知ることがない。それでも彼・彼女はよく考えたり感情的になったりして、かなり重要な決定を下す(あるいは下さない)。結果が偶然なのか必然なのかは、わからない(著者は指し示すだけ)。</P>

    <P> 肝心なのは、その「決定」だ。結果によって「決定」が運命になったり偶然に扱われたりするのなら、未来によって選択の軽重が決まってくる。結果は重いかもしれないが、決定は(決断すら思い及ばず偶然の連鎖も含めて)下されるそのとき分からない</P>

    <P> 読み手はぐるぐる回りながらも、この問い合わせに応えることができない。そんな読者をよそに物語は転んでゆく。塞翁が馬と片付けられればいいのだが、それはそれ、男と女の物語なのだからそうはいかない。</P></blockquote>

  • 我々の選択は極めて軽いもの。その軽さが不安だから、メタファー象徴偶然…色んな要素を加えて、重みを与える。のだという。本編は難しかった。
    第5部の詩的記憶に関する記述が妙に印象に残っている。

  • 220816*読了
    こんなにも小説内に作者が作者として現れる小説は初めて読んだかもしれない。
    そんな違和感がある部分があっても、時系列がめちゃくちゃになっていても、それでも夢中にさせるのだから、クンデラ氏の凄さを感じずにはいられない。

    トマーシュ、テレザ、サビナ、フランツ、誰にもさほど共感はできないし、時代背景も私が生きていない時代であり、自分が過ごしてきた日本ともまるで違う。
    それでも、おもしろい。
    共産主義に対する考え方、それぞれの「こうであらねばならない」による衝動、誰もが思い悩む。
    4人とも幸福そうには見えなくて、でもその日々のどこかにはきっと幸福があったのだろうし、それを幸福だった、不幸であると読み手が決めることもできない。
    登場人物を通して、作家は自身の考えを押し付けるだけでなく、自分が生み出した人物達なのに、いかにも客観的に彼らの人生を語る。自らの手を離れ、勝手に彼らが動いているのだ、というように。

    クンデラ氏の他の小説も読んでみたい。

  • もしすべてが反復するのだとしたら、いまの人生も繰り返している反復の一回にすぎず、すべてのことはあらかじめ確定していることになる。いまの瞬間に続く次の瞬間は、いまの瞬間が創造する新しい時間なのではなく、かつてあった過去の「いまの瞬間」の次に続く凡庸で必然的な帰結としての「次の瞬間」にすぎなくなる。そしてこの「いまの瞬間」も、未来にわたって何度も繰り返される「いまの瞬間」の一回にすぎないことになる。
    Es muss sein! 永遠回帰の教説はすべてが「そうでなければならない!」と説く。それはすべてを耐えがたいほど重くする。ニーチェは永遠回帰を超人が受容し乗り越えねばならない真理として描いた。その真理を克服して「軽さ」を身につけたものが超人なのだ。
    必然性と一般性と反復は相互に結びついて人生のひとつの真理を表している。季節は巡り、毎日は同じことの繰り返しである。物を投げれば、必ず放物線を描く。しかし一方で、登場人物たちは逆のことに気づき始める。偶然性と偶有性と一回性だ。「歴史は反復するが、思うままにではない。」マルクスは『ブリュメール18日』で偉大な歴史を反復しようとしてファルスを生み出してしまう滑稽な政治状況を描いた。人は、反復しようとして失敗し、異なる結果を生み出すこともあれば、反復から逃れようとして、かえって反復してしまうこともある。この小説では、大国に翻弄されるチェコの歴史について語られる。所与の条件のもとで歴史上の人物は判断し、その判断が間違っていたかどうかさえ、まったく同じ歴史が繰り返されない以上、分からない。歴史に「もし」がないのは、歴史は繰り返すことができないからだ。
    この小説の主人公のひとりトマーシュは偶然によって出会った女性テレザを、偶然に川辺の葦のあいだからファラオの侍女に拾われたモーセになぞらえる。女性遍歴を重ねるトマーシュは、その出会いに運命を感じたのではない。むしろいくつもの偶然が重なったことを認識したからこそ、必然性から逃れようとするトマーシュはテレザを特別な女性だと感じるようになるのである。
    トマーシュとテレザは事故で死に、フランツはカンボジアで暴漢に襲われて死ぬ。登場人物たちの呆気ない死、だれにでも不可避的に訪れる究極の一般性である死までもが、無意味で、軽いものであるかのように感じられる。だがそう捉えること正しいのだろうか。
    最終章では、これまで否定的にとらえられてきた反復のポジティブな側面が表れてくる。キルケゴールにとって反復とは失われた楽園を回復することだった。原初的理想郷への回帰。輪廻転生を説く仏教では時間が円環的であり、一神教では世界の創造から終わりまで時間は直線的であると、通常は考えられている。しかし実際には、一神教の時間性は決して直線的ではなく円環的なのだ。肉体は自然の元素へと還り、魂は神のもとに戻される。天国のイメージは、エデンの園のイメージと同じだ。では、良い反復と悪い反復があるのか。そうではない。実は反復してくる強迫観念として権力をふるっていたのは直線的な時間性なのではないか。
    トマーシュとサビナは、反復してくる強迫観念としての直線的な時間性から逃れ、反復する/反復しないものとしての永遠という時間性に気づかされる。そのきっかけとなっているのは、おそらく、カレーニンという彼らの共通の友人(ペットの犬)の死である。必然性・運命・使命感から逃れ、田舎にまで来た彼らは、老いと死という事実は避けられない。しかし彼らは楽園に到達したのであり、もう逃げる必要はないのだ。彼らは田舎に移住して間もなく事故で死んでしまう。だがたとえそうならなかったとしても、余生を幸福に暮らしたに違いないのである。

  • 文学

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著者プロフィール

1929年、チェコ生まれ。「プラハの春」以降、国内で発禁となり、75年フランスに亡命。主な著書に『冗談』『笑いと忘却の書』『不滅』他。

「2020年 『邂逅 クンデラ文学・芸術論集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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