アフリカの日々/やし酒飲み (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-8)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (572ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309709482

感想・レビュー・書評

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  • 池澤夏樹の世界文学全集って、いい意味で偏ってますよね。全集のリストを見たら、今でもわくわくします。当時、これをそろえようか迷って、本棚のスペースもそんなにないことだしとあきらめたのですが、やっぱり、そろえておけばよかったかなあ。
    『やし酒飲み』で、アフリカ文学なるものを初めて読みました。ラテンアメリカ文学のマジックリアリズムとはまたちがう、独特の突拍子のなさが楽しかったです。(2015年12月13日読了)

  • 「アフリカの日々」を読めば、アフリカに行ってみたくなるだろう。それほどまでに、本書の中で描かれているアフリカでの生活は魅力的だ。筆者自らの経験よるものだが、現実の世界はむしろ厳しいものであったに違いない。にもかかわらず、このような作品に仕上げたということは、筆者にとっても魅力的な生活であったに違いない。
    「やし酒のみ」は奇想天外で楽しい物語だ。人間と妖怪が入り乱れて、まるで水木先生の世界だと思ったが、解説にも同様のことが書いてあった。

  • アフリカの日々は風景描写、土地の人々の描写が見事だった。アフリカには行ったことがないけれど、土地の匂いみたいなものをまざまざと感じることができた。小説というよりはエッセイに近いような。
    文章一つ一つが平易だけど、いい文章。手帖からの章は小話が連続しており、そちらのエピソードも魅力的だった。

    やし酒飲みは絵本を壮大なホラ話まで思いっきりふくらませた感じだった。時系列も常識もぜんぶ無視してるので荒唐無稽そのものなんだけど、子供のころは木から突然手足が生えても、死神を網でつかまえても、なんとなくそんなものとして受け入れていた感覚を思い出した。子供に読み聞かせたら結構ウケるかもね。

  •  エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」(土屋哲訳)のすごさが圧倒的。やし酒飲みというキャラ付けをされている主人公が、亡くなった専属のやし酒造りを捜して旅に出てから戻ってくるまでの話なのだけれども(最後にちょっとおまけがあって、そこもまた面白い)、まるでリレー小説のように、次から次へと前のエピソードから次のエピソードへと妙な形でつながっていき、荒唐無稽な話がどんどん広がっていく。一体このままどこへ連れて行かれるのだろうと、わくわくしながら読んでいると、いつの間にやら主人公はやし酒造りと邂逅したうえに、ひゅうっと元いたところへと戻ってくる。その間、まるで狐につままれたようなとても楽しい読書時間を楽しめた。面白かった。

     訳文もちょっと凝っているのだけれども、解説によると、元の英語文が「クレオル英語」で、いわゆる標準英語ではないらしい。英語の日本語に移すときの文体には、いろいろな観点からの取り入れ方があって、そのことについても解説で触れてあるけれども、物語る言葉として、とても楽しく読めたので、訳者の方の技ありだなぁと思った。

  • 世の中の大多数の人達が知らないであろうし、
    読まないであろう作品だと思うのだが、
    こんなに素晴らしい作品がひっそりと存在していたんだねえ。
    「アフリカの日々」
    すばらしい。少し引いた視点で、
    アフリカの大地、空、動物、空気、人々に包まれる。
    「やし酒飲み」
    ホメロスの「オデュッセイア」や
    夏目漱石の「坑夫」みたいな冒険譚と言うかロードノベル的面白さ。
    管啓次郎氏の解説は鋭い視点で深い感銘をうけた。
    巻末著者年譜に、ブライアン・イーノと
    デヴィッド・バーンが出てきてびっくりした。

  • −アフリカの日々

    「私はスワヒリ語の詩句をつくって、働く人たちに向って口ずさんだ・・・『ンゴンベ ナーペンダ チュンビ、マラヤ ムバヤ。カンバ ナークラ マンバ』・・・『もっと言ってみて下さいよ。雨みたいに言葉を出して下さい。』」

    「アフリカの日々」を読む。じりじりと時間が過ぎる。頁は進まない。呼吸をしに海面に上がってくるクジラのように、時々思い出したように本の中ら頭を持ち上げて、思いの外時が経っていることに気付く。読んでいる間に、時間というものの意味が少しずつ確実に失われていくことを意識する。

    大部であり決してすいすいと読み進められような文章ではないのだが、じわじわと沁み込んで来る心地好さを拒めない。この文章群にはそもそも明確な時の刻みがない。語られる出来事が進行しているのか過去を思い返して後退して行っているのかも定かではない。一つ一つの文章を読む内に、道に迷っていつの間にか同じところをぐるぐると廻り続けているだけであるような錯覚が襲って来て、やがてそれは現実となる。目は何度も同じ頁の同じ文字を読み返し、脳は必死に時と共に進む筈の物語を理解しようともがくが、やがて酸欠状態となりまどろみの中に思考は埋もれていってしまう。

    時の刻みだけではなく、この文章群には物語を支えるはずの接続詞もほとんど出て来ない。一つの文章が生まれ一瞬聞こえたかと思う間もなく消えていく。その繰り返しにだけが意味があるかのようである。単調に繰り返されてきた古い太鼓のリズムのように詳細を失い、物語の芯として残っている何か大きなことだけが、繰り返しによって新たに再生される。音の高低や大小のコントラストは滑されて、そんなものはそもそも必要なかったかのようになる。

    ひどく単調であるように見えつつも、実は過度に抑制された優れたジャーナルが逆に深く胸を打つ物語を紡ぎだせるように、イサク・ディネセンの文章は、一つ一つ読み終える度に少しずつアフリカの風景を色鮮やかに語りかけてくる。

    ここにあるのは全てディネセンの目を通した事実である。事実ではある。ディネセンの乾いた文章は確かに感情の抑制が利いたもので客観的な響きを伴っている。だがしかし、これはやはり、外に居る立場のものが理解し得た範囲での事実であることに変わりはない。ディネセンもそのことを何度となく独特の表現で言葉にする。全ての旅行記やルポルタージュが根源的にそうであるように、それは完全な姿の提出ではない。それでも彼女の描くアフリカが一段高いところから見下ろされたアフリカとはぎりぎりなっていないことは記して置くべきだろう。それはやはりこの不思議な乾いた手触りの語り口のためであると思う。

    スケッチ風の短い文章の並ぶ4部「手帖から」には、文学好きの女性が本来持っていたであろう冗舌さが伺える。読み易い、と言ってしまってもよい。ここには水彩画に写し取られた眺め易いアフリカがある。その他の風景は余りにも多くの点描が重なり合い焦点が合っていない二重撮りの白黒写真のようである。それでも、風に乗って聞こえる太鼓の音のように、どこから来てどこへ向かうのかもよく解らないフレーズたちが、過去と現在を奇妙な糸でつなぎ、聞こえたかと思えば遠くへ消え去ってしまうさまを見るのは心地好い。それは、やがて時だけではなく、こちらとあちらの境もまたあいまいにし、読むものにとっての夢と現の境にも影響し始めるのだ。

    「目のさめている状態で夢にいちばん近いのは、誰も知人のいない都会ですごす夜か、アフリカの夜である。そこにはやはり無限の自由がある。」


    −ヤシ酒飲み

    「やし酒飲み」が「アフリカの日々」の後に出てきてしまうと、それが土地の人々の間で伝承されてきた物語であるという印象を拭い去るのは容易ではなくなる。語りのための物語。つまり聞く者の存在なしには決して成立しないものが、この「やし酒飲み」の中にはあるからである。

    物語は理屈の数珠つなぎではない。聞く者を怖がらせ、楽しませ、時に悲しませる、そのことに意義がある。物語は、だから、一人称で語られる必要がある。それは決して万人に聞かれることを前提としない。語り手と聞き手の距離はごく近く、一つの火を囲んだ円陣の直径を最大とするであろう。語り手は長であろう。集団の揉めごとを時に裁いたりするであろう。だからこそ、どんなに不思議な話であっても、聞く者はそこに現実の出来事の欠けらを見出し何が語られているのかを理解するだろう。

    物語はまた語り手の倫理となり聞き手の倫理となる。一人称で語るものはあらゆる災難に遭遇しそれを乗り越え今ここに居る。そのことが彼の正しさを証明する。苦労の結果が報われること、そのことこそ最も必要とされている物語の要素である。

    「やし酒飲み」は、死者に会いに出かけた主人公が様々な目に逢った末に元の町に戻ってきて幸せになるという、どの世界にも似たような話を見出せる、単純な物語である。しかし、その道行は単純とは程遠い。一つ一つの小さな物語はかろうじて旅の道程によって繋がってはいるものの、夢で見る夢のように唐突に生まれ唐突に消え去ってゆく。その自由な発想は余りに濃い色使いの絵を眺めるようで、色の濃さにむせる思いすらある。

    このスイフトばりの物語には、だがしかし、何かが善悪の基準として通底しており、それが決して一神教的価値観とは一致しないだろう事が伝わってくる。人智を超えた自然のふるまい。全て人の手によって制御しているかのようなふりをし続けられる都会に住む者からはとっくに忘れ去られた本能の教える倫理がそこにはあるように思うのである。

  • 230317*読了
    「アフリカの日々」は小説ではない。といっても紀行文でもないし、旅行記でもない。
    デンマーク人の女性がアフリカの植民地で暮らした日々の記録。それは確かに現実の話なのだけれど、見事にアフリカ人との交流や友人についての大事なシーンなど、巧妙に切り取られている。
    巻末の年譜を見ると、何度となく帰国していたり、夫との離婚があったりするのに、夫が出てくるのはわずかに1度のみ。それも名前ではなく「夫」として。
    植民地に農園を切り拓いたことは現代から見てよかったのかどうかは何とも言えない。
    でも、確かに彼女はアフリカ人たちから慕われ、必要とされていた。
    いくつもの濃密で印象的な場面が蘇ってきます。

    「やし酒飲み」は突飛すぎておもしろかった。
    「アフリカの日々」はアフリカ外出身の人から見たアフリカだけれど、今度はアフリカ人が書いた小説。
    こんなことも許されるのか、と思う文章。これは、翻訳者さんの技によるものなのだけれど。
    時折挟まれる、ですます調に違和感を感じながらも、妙にストーリーとフィットする。次はどこで表れるのかと気になってしまう。
    実際は英語で書かれていて、ですます文体でもないのだけれど、英語を母語とする小学生が書いたような原文だった。
    生きている人も死者も、よくわからない生物や神も、いろんなものが混ざり合い、当たり前かのように繰り広げられるありえないストーリー。
    解説でカフカの「変身」があげられていて、またそれとは違うんだけれど、読んでいて、ぞわっとしてしまう。
    「アフリカの日々」の3分の1ほどのボリュームだったのだけれど、印象としては強烈でした。

  • アフリカの日々、美しい描写と淡々とした文体、まったく色あせないユーモラスなエピソードの数々、著者のアフリカへの深い愛情。読後、深い余韻を残してくれる作品。

    土地の人々に対して、簡潔ながらも深い洞察に満ちた文章の数々に驚嘆したり、妙に納得したりしながら読み進めた。猟銃の事件やガゼルを飼うことになった話など、印象深いエピソードがたくさんある。

    農園の調理師として働いていたカマンテが、真夜中に遠くの草火事を見て、神様が来るからと、著者を起こしにくるエピソードがある。何気ない日常のエピソードの1つだが、妙にアフリカの農園での生活を表しているような気がして、特に印象に残った。

    自分のとっては、異文化や他者へのまなざしについて、振り返るきっかけになるような本なのかもしれない。

  • アフリカの日々、途中で休止期間を経てやっと読了。淡々とアフリカでの生活を描いていて、地に足のついた、強い女性だな、と感嘆。人生いろいろ。。やし酒飲みはちょっと異世界すぎた。

  • 『移動祝祭日』でも傑作と言及。

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著者プロフィール

1885年デンマーク生まれ。本名カレン・ブリクセン。1914年にアフリカに渡り17年間農園を経営する。帰国後、本書のほか、『七つのゴシック物語』『バベットの晩餐会』など、物語性豊かな名作を遺した。

「2018年 『アフリカの日々』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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