灯台へ/サルガッソーの広い海 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-1)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (500ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309709536

作品紹介・あらすじ

灯台を望む小島の別荘を舞台に、哲学者の一家とその客人たちの内面のドラマを、詩情豊かな旋律で描き出す。精神を病みながらも、幼い夏の日々の記憶、なつかしい父母にひととき思いを寄せて書き上げた、このうえなく美しい傑作。新訳決定版(『灯台へ』)。奴隷制廃止後の英領ジャマイカ。土地の黒人たちから「白いゴキブリ」と蔑まれるアントワネットは、イギリスから来た若者と結婚する。しかし、異なる文化に心を引き裂かれ、やがて精神の安定を失っていく。植民地に生きる人間の生の葛藤を浮き彫りにした愛と狂気の物語(『サルガッソーの広い海』)。

感想・レビュー・書評

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  • 骨太の文学作品に出会った。時の流れ、大切な人の不在。すごく大事なものを感じさせてくれる名文。味わい深い。ゆっくり、ゆっくりと読んだ。

  • 221111*読了
    こちらも今となってはプレミアがついていて、世界文学全集の中で一番高値で購入。しかも古書。新品は高すぎた…。
    そもそも本を定価より高い価格で買ったのは、世界文学全集が初めて。

    ヴァージニア・ウルフはよく文学評論に登場する作家なので、名前は知っていたものの著作を読むのは初。
    文体が独特で、視点が突然変わるのが印象的でした。
    第一部で主として描かれていた夫人から、第二部は突然、誰も住まなくなった別荘を掃除する人たちの視点、そして第三部は第一部から見て10年後。第一部と第三部でたった2日間の出来事だったというのも驚き。
    大きな事件が起きるわけではないのだけれど、他人を見つめることで自分と向き合っている女性たちと、その周辺の人たちの心の声とが折り重なって、深みのある小説でした。

    「サルガッソーの広い海」の方は、未読なのだけれど「ジェイン・エア」での脇役となった夫人の物語。
    別の作家の小説の登場人物を主人公に据えるってすごい。文学ではたまにあることなのか?
    アントワネットの母親も、アントワネット本人もかわいそうで…。だけれど、誰を、何を責めればいいのやら分からず。
    時代と、生まれた場所と、運命と…そうやって片付けてしまえばそれまでなのだけれど、自分だったらもう耐えられない。
    そもそも植民地の入植者っていうのも、あまりにも自分とは離れている世界で共感しづらい面はある。
    こんな時代が現実にあったことも何だか信じられない。
    奴隷として生きた人、黒人として使われてきた人の憎しみや感情もあるだろうし、白いゴキブリと呼ばれる運命を背負ったアントワネット側の辛さも分かりたい。
    嫌いじゃない、むしろ好きではある小説なのだけれど、後味は悪かったです。

  • ヴァージニア・ウルフ(訳:鴻巣 友季子)『灯台へ』
    「意識の流れ」の例としてよく取り上げられる作品で,至るところ技巧に満ちている。ほとんど身体が動かないにも関わらず,精神は別に揺らぎ続けることを表現したかのよう。



    ジーン・リース(訳:小沢瑞穂)『サルガッソーの広い海』
    人々の関係が少しずつ崩れていく様が書かれている。『ジェイン・エア』に関連した作品。

  • 「灯台へ」だけ読了
    訳が読みやすく良かった

  • 4.11/329
    内容(「BOOK」データベースより)
    『灯台を望む小島の別荘を舞台に、哲学者の一家とその客人たちの内面のドラマを、詩情豊かな旋律で描き出す。精神を病みながらも、幼い夏の日々の記憶、なつかしい父母にひととき思いを寄せて書き上げた、このうえなく美しい傑作。新訳決定版(『灯台へ』)。奴隷制廃止後の英領ジャマイカ。土地の黒人たちから「白いゴキブリ」と蔑まれるアントワネットは、イギリスから来た若者と結婚する。しかし、異なる文化に心を引き裂かれ、やがて精神の安定を失っていく。植民地に生きる人間の生の葛藤を浮き彫りにした愛と狂気の物語(『サルガッソーの広い海』)。』


    「灯台へ」
    著者:ヴァージニア・ウルフ 訳者:鴻巣 友季子
    メモ:
    ・20世紀の小説ベスト100(Modern Library )「100 Best Novels - Modern Library」
    ・死ぬまでに読むべき小説1000冊(The Guardian)「Guardian's 1000 novels everyone must read」
    ・世界文学ベスト100冊(Norwegian Book Clubs)
    ・オールタイムベスト100英語小説(Time Magazine)「Time Magazine's All-Time 100 Novels」


    「サルガッソーの広い海」
    著者:ジーン・リース  訳者:小沢 瑞穂
    メモ:
    ・20世紀の小説ベスト100(Modern Library )「100 Best Novels - Modern Library」
    ・死ぬまでに読むべき小説1000冊(The Guardian)「Guardian's 1000 novels everyone must read」
    ・オールタイムベスト100英語小説(Time Magazine)「Time Magazine's All-Time 100 Novels」

    出版社 ‏ : ‎ 河出書房新社
    単行本 ‏ : ‎ 500ページ

  • 「灯台へ」鴻巣友季子バージョン
     待ちに待ったあの夢の塔に、ひとつ夜を越し、半日も海を行けば、手がとどくような気になった。齢六つとはいえ、彼もまたあの大一族に属していた。つまり、それはそれ、これはこれと、気持ちを分けることができず、楽しいにつけ悲しいにつけ、先のことを考えると、きまって手元がよく見えなくなってしまう質だ。
    (p6)
    一つの物、一人の人が、その延長を越えて重なり合って干渉し合う場、その場がこれから繰り広げられることを、最初のここで示しているような。
     これから大遠征に出ますのよ、そう言って夫人は笑った。町へ繰り出すんです。「切手や便せん、煙草などのご入り用はございません?」カーマイケルのそばに立ち止まって訊く。ところが、いや、けっこう。彼は大きな太鼓腹の上で両手を組み、こういうご親切にはねんごろにご返答したいところだが(ここの奥方は愛想はいいが、いささか細かい質だな)そうもいかんのでね、とでも言うように、目を瞬いた。
    (p14)
    「ラ・カテドラルでの対話」でも多用された、フロベール起源の自由間接話法。ここでも話者をぼかすために多用している。この例では大遠征に出るとか、町へ繰り出すとかもラムジー夫人の会話なのに、次の「」文と異なり地の文となっている。逆に言えば、どうして次の文はわざわざ「」付けなければいけなかったのか。対話している場に聞き手(読者)をそこで立ち合わせたかったのだろう。なぜならこれは対象人物が移り変わりますよ、というシグナルだから。夫人の内面にあるいはいた読者は、この直接話法で会話の場面に目を向け、そこにいるカーマイケル氏に乗り変わる。乗り変わりに成功したら、また地の文に戻る。彼が発話したのは多分「いや、けっこう」だけだっただろう。
    1、「ところが」は誰が言って(内言)いるのだろう?カーマイケル氏でなければ、ラムジー夫人? 作者ウルフ? それともこの北の島にいる何者か?
    2、こういうご親切には…というのは実際に発話していないカーマイケル氏の内言なのだけれど、これはカーマイケル氏の中に入って言っていることを取り出したわけではなく、誰か外部の人物が想定している(だからそれは誰か?)。では()内はどうか?内言の中の内言。一段深いところにそれは位置している。
    自由間接話法はとっかかると次から次へと気になることが出てきて長くなるのが難点?
    (2021 03/22)

    波とブヨとキッチンテーブル
     ふだん岸にうちよせる単調な波の音は、あるときは夫人がもの思いにふける傍らでおおむね規則正しくなごやかなリズムを刻み、子どもたちと一緒にいるときなどは、懐かしい子守歌を繰り返し繰り返し聞かせて、「わたしが守ってあげよう-わたしはあなたたちの味方だ」と、自然の優しい声で囁いてあやしてくれる気がするかと思うと、突如として、手がけている仕事から少々気がそれているときなどはとくに、ふっとそんな慈悲深い含みをなくし、一転して薄気味わるいドラムの轟きのように自然の拍子を無情に刻んで、いつかはこの島が崩れ去って海に飲みこまれる日のことを思わせ、生活のこまかい雑事に追われて毎日を過ごす夫人に、いずれすべては虹のごとくはかなく消えることを改めて思い知らせてくる
    (p22)
    長文引用…
    ウルフは「波」の作家なのだろう。前に読んだ「波」もそうだけど。一方、最近読んだとこだと、バスケスの「物が落ちる音」とか、ル・クレジオの「隔離の島」など聴覚が印象深い作品多かった。
    p27から始まるリリーとバンクスの話している場面。小説の文章はリリーに続いてバンクスに、と人物の意識に自在に分け入っていくので、それに読者はついていきながら、でも実際にこの二人の会話はどう進んでいっているのかな、と聞き耳を立ててみたくなる。そんなに活発な対話をしているとは思えないけれど、時々息継ぎのように現れる実際の発言がその対話を思い出させる。
    という中のリリーの意識にだいぶつきあったあと、
     などと、さまざまの思いが、ブヨの群れのように上へ下へと目まぐるしく踊っていた。ブヨたちはばらばらでありながら、目に見えない伸縮ネットのなかでみごとに統制された動きを見せ、リリーの頭のなかで上へ下へと踊り狂い、しまいには梨の木の枝間に踊りこみ、あたりを飛びまわり、見れば、その木の股には、例の使いこまれたキッチンテーブルがラムジー氏の肖像としていまも掛かっていた。
    (p33-34)
    アンドルーがリリーに教えたところによると、ラムジー氏の哲学者としての仕事は、「それが見えないところで、キッチンテーブルをじっと想像してみること」ということらしい。実体論か認識論か。とにかく、リリーはこれ以来、ラムジー氏の仕事を想定する時は必ずキッチンテーブルが念頭に浮かぶようになったという。
    キッチンテーブルに気を取られて、ブヨを見失ったぞ…
    (2021 03/25)

    Rの思考
     かなたを強く凝視するうちに、トカゲの硬い瞼のようなものが目の前にちらつきだし、Rの字を覆ってしまった。その一瞬の暗闇に、ラムジーはRには手が届くまい-あれは失格者さ-と言う声が聞こえてくる。Rには決して辿りつけまい。いや、もとい、Rだ。Rとは-
    (p45)
    ラムジー氏はAからZまで一瞬で手に取る天才ではないけれど、Aから順を追って進んできたと思う。そしてQまでは辿りつけたという。そしてR…
    (個人的にはQまで行ったという自信がすごいなと思う。アルファベットの半分以上だよな。この自分はAも行っていないと思う…さてラムジー氏の頭文字はLかRか)
    トカゲは現在のラムジーがいる場所の草むらになにがしかいたのかもしれない。ラムジー氏の意識はそれをかすめ取りつつRを考えている。ラムジーにはRには手が届くまいと言っているのも、彼のRの思考と何か別のところで聞いた(彼自身とは全く関係ないことかもしれない)言葉が合成して、現在の彼のRの思考から派生したのかもしれない。
    (2021 03/27)

    ラムジー氏は海を眺める。
     海に突き出した小さな岩場に立って人間の無知の闇とむかいあい、人がものを知りえぬまま、その足元にある地面が海に浸蝕されていくさまを直視する-それもラムジーの定めであり、天与の才だった。
    (p57)
     人生とは無数の小さな出来事から成り、人はそれを一個ずつ経験するものだけれど、そうした出来事が巻き込む波のようになってひとつにまとまる感覚。波にふわりと持ちあげられ、浜辺に打ちつける波とともに投げだされるような…
    (p61)
     そして、寝室の窓は開けてまわる。ドアは閉めてまわる(そのさまを思いうかべながら、頭のなかでラムジー夫人の口癖を思いだそうとする)。
    (p64)
    前に読んだ時にも自分でメモした表現。他者の侵入は拒むけど、他人の動向は観察する…というだけでもないような…
    (2021 03/28)

     夕方も遅い時間になってきた。庭に射す陽がそれを告げている。白んでいく花の色と、木の葉のつくる薄暗い影がいっしょになって、不安な気持ちをよびおこす。
    (p79)
     こんな夕まぐれにこんな気分で灯台にの光を見つめていると往々にして、目に入ったなにかにことさら自分を重ねてしまうものだ。というわけで、あの光、長く、しっかりと撫でていくあの条が、わたし。編み物を手にしたまま、身じろぎもせずなにかを見つめ、じっと見つめているうちに、見ているものと同化してしまう。
    (p82)
    灯台の光になった自分を想像してみよう。音でも光でもなにものでも、外部のものの原子を取り入れて、逆に自分の原子を外に放出している。そこで起こる内部と外部の原子の並列。窓を開けて、ドアを閉めるのは、こうした経験を求めてのことなのか。
    (2021 03/29)

     ほんのひととき、なにか世界がばらばらに飛び散ってしまったような、茫漠とした、心もとない感じがあたりに漂った。薄れゆく入り陽のなかに立つ彼らはみな、くっきりと際だち、空気のように軽く、たがいに遠く遠く隔たっているように見えた。
    (p94)
    一人一人がいる平面はそれぞれ違うけど、遠くから見るとそれらの平面を貫いて同平面化して見る。でも、それぞれの平面の軌道はお互いに遠ざかっている、とか、そんな感じ?
    で、この小説はだいたい登場人物の誰かの意識に入り込んでいる描写が多いのだけど、ここで「彼ら」とか「見えた」とか言っているのは誰? 作者? 作者の視線かもしれないけれど、だとしたら、例えばこの場面描き上げて悦に入っている画家の心持ちか、あるいは見てはいけないものを見てしまった感じか、この時点の何十年後の変化を知っている時間旅行者が物陰に隠れて見ている設定か。
    (2021 03/30)

    晩餐会に入り込む海
     見知らぬ無人の地へと漂っていく夫人に気づき、じっと見守っていたのは、リリー・ブリスコウだった。その地に彷徨いこんだ人を追いかけることはできないのに、遠ざかると心からぞっとして、その姿をせめて目で追ってしまうのだ。彼方へと消えゆく船の帆が、水平線のむこうに沈むまで見守るように。
    (p108)
    別に海上の描写ではなく、ここはラムジー家の夕食。リリーもバンクスもタンズリーもカーマイケルも集まっている。夫人は皆にスープを配りながら、心は海の涯へ? そしてそれを見るリリー…という構図。美しさと諧謔さが同居する、そんな表現。
     さて、彼もリリーに感謝して好意をもったようだし、お喋りも楽しみだしたようだし、と、ラムジー夫人は考えた。わたしはあの夢の国に、あの現実にはないすてきな場所に、そう、いまを遡ること二十年前、マーロウのマニング家の客間に、もうもどってもいいでしょう。あそこでは、なにかに急き立てられたり、不安に駆られたりすることなしに、動きまわっていられる。だって、将来のわずらいがないのだから。いまの夫人はマニング家のその後も、自分たち一家のその後も知っている。こうして思い出にひたるのは、おもしろい本を再読するようなものだった。なにせ二十年前のことで結末はわかっているし、人生は今夜の晩餐会から先も、流れ落ちる滝のように行く末も知らず下っていくわけだが、追憶のなかのひと幕はしっかりと封じこめられ、彼我の岸にはさまれた湖のように穏やかに横たわっていた。
    (p119)
    マニング家の思い出なるものがどういうものなのか、この前にちらっと話されるだけなのでよくわからないのだが、夫人にとっては最上の思い出なのだろう。何度も再読したのだろう。そうそう、この「灯台へ」自身も再読の本なのでした…結末は…わかっている…いない…
    この本で100ページがだいたい岩波文庫版の150ページ…
    (2021 04/01)

    「灯台へ」密やかな一夜を終えて
    第1部「窓」読み終え。
     ものごとにひとつのまとまりが、安定感がある、という実感。言うなれば、変化を被らないなにものかがあり、ひときわ耀きをはなっている(灯りを反射して波打つ窓を、夫人はちらりと見やった)。流れゆくもの、はかなきもの、幻影のようなものの面でルビーのごとく鮮やかに。そうして夫人は昼間にも一度味わった和やかで安らかな感覚を、夜になってまた味わったのだ。まさにこういう瞬間から、永久に残るものがつくられるんだわ。夫人はそう思った。いまこの時は、きっといつでも残る。
    (p134-135)
    はかないものの表(漢字変えてみた)の、靄のような変わらないもの…第3部と対になるような一日であることはわかるけど、未だ自分は実感できていない。小説内で擬似体感。
    第1部の表題になっている「窓」が( )内にちらりと出てくる。スコットの小説に対する議論、その中で「そういう本っていつまで残りますかね?」という言葉に敏感な夫ラムジー氏と、その為にこちらもそういう言葉に敏感な夫人。
     まるで、仕切りの壁がごくごく薄くなって、実質的にすべてがひとつの流れとなったような(つまり安らかで幸せな気持ち)、椅子やテーブルや地図が自分のものであり、彼らのものでもあるような、どちらのものでも構わないような気分になるのだった。
    (p146)
    こういう人物間の意識の交流というテーマは、このあといろいろ出てくるけれど、この小説はその走り。意識の交換は、人同士だけでなく物にも通じるのか。
    この章最後で、どうやらこの日に婚約が決まったポールとミンタ、そのミンタを見ているプルーなどで、夜の浜辺へ行く。が、この次の第1部最終章では、ラムジー夫妻の部屋での描写のみで、このポール・ミンタグループの夜の浜辺散歩はいわば宙吊り状態。
    と、これが第2部「時はゆく」の冒頭に繋がってゆく。
     「結局、将来のことは時がたってみないとわからんのだよ」
     「どこが海でどこが浜なんだか、見分けがつかないわね」
    (p162 から抜粋)
    とか、言いながら。そして、カーマイケル氏がウェルギリウスを読むからと読書灯をつけていた以外の灯りは、次々と消されていく…さて、そろそろ、時が動き出しますよ…
    (2021 04/04)

    「時はゆく」家は…
     ランプの明かりがすべて消えるころ、月は雲間にかくれ、霧雨が屋根をそっとたたきだすと、沛然たる雨のごときはてしない暗闇があたりを包みこんだ。こればかりはなにものも生き延びられまいと思うほどの闇の氾濫であり、その茫洋とした暗黒が鍵の穴や壁の罅に忍びより、窓のブラインドの奥にまわりこみ、寝室に這い入り、こちらで水差しや洗面器を飲みこんだかと思うと、あちらで赤いボウルや黄色のダリアを、衣装だんすのがっしりした塊を四角い角ごと飲みこんだ。
    (p163)
     [ラムジーはまだ暗いある日の朝、廊下を歩いていてよろめき、両腕を前に差しのべる。しかし前の晩、予期せず妻が急逝した身とあっては、腕を差しのべるのみだ。その手は虚ろに宙をつかむ]
    (p166)
    時々こうして[]内に一家ほかの情報が提供される。そしてここでは、ラムジー夫人が亡くなったことを間接情報としてラムジー氏を通して受け取る。他には、カーマイケル氏が詩集を出して好評だったということや、アンドルーは戦死し、プルーは出産後病死した、など。

    家は雑草が繁茂し、残してきた服が虫にやられて(こういうところから、一家がここを離れた状況がある程度推察できる)、もういつ倒壊してもおかしくないところまできた。しかし、ここで「娘さん」(誰?)からの指示でまた整備して元に戻すように。老婆二人とどちらかの息子の計三人。
     婆さんは呟いた。家じゅう荒れ放題じゃないか。ただ灯台の明かりだけがいっとき部屋に射しこみ、冬の闇にうもれたベッドや壁に突然のまなざしを投げて、床からはえたアザミやツバメ、ネズミや藁くずを、諦観したように眺めるだけだった。
    (p178-179)
     波は静かに砕け(リリーは夢のなかでその音を聞いた)、灯台の明かりがそっと照らすだろう(まぶたの奥まで届くかのように)。カーマイケルは本を閉じて眠りに落ちながら思った。なにもかもあのころと変わらぬ光景だ。
    (p184)
    この二文にはどちらも灯台が出てくる。定期的に回る灯台の明かりは、時の象徴か。
    前に読んだ時の記憶では、家は廃れていく一方だと思っていたのだけれど、そうではなかった…いい加減…
    (2021 04/06)

    第三部「灯台」開始。
     今朝の、なにか異様なまでの非現実感は恐ろしくもあったが、心をくすぐりもした。灯台行き。でも、灯台へはなにを持たせたらいい? 滅びぬ。独りで。向かいの壁に射す暗緑色の光。空っぽの席。それらはみななにかの一部のようだが、どうやってひとつにまとめればいいだろう?
    (p190)
     ラムジー夫人が亡くなったあと、第三部の中心人物はリリーへと移る。第一部の(幻の)灯台行き前夜から十年の月日が経ったとも、実は第一部の翌日ではないのかとも言える。ラムジー氏は灯台守の子供に贈り物をしようとしている。「なにを持たせたらいい?」というのはナンシーの言葉、「滅びぬ。独りで。」というのはまたもやラムジー氏の詩の朗唱…こうしたものがリリーに次々と落ちていく。どうまとめようか。そして以前このテーブルで考えていた絵の構図などを一人で考えたかったのだが、ラムジー氏が来て(以前は夫人が与えていた)同情を伺おうとする…
    (2021 04/07)
     
    水中から波を見上げて
     頭のなかでは単純明快に思えるものが、いざ描きはじめようとすると、とたんにことごとく複雑なものに変わってしまう。喩えるなら、波は崖の上から見ると均整のとれた形をなしているが、そのなかを泳ぐ人から見れば、深い波窪や白い波頭に分かれて凸凹している。そういうことだ。どれほどの困難があろうと、それを覚悟のうえで最初の一筆をおかなくてはならない。
    (p204)
    この小説はどこから「最初の一筆」をおいたのだろう。
    リリーは島から、ラムジー氏一行の船を見ている。
    そしてその船上では、キャムとジェイムズが灯台守への包みを持って従っている。しかし、この二人は「暴政」を拒否しようと「同盟」を組んでいる。
     少しばかり沖に出ただけなのに、もうずいぶん離れた気がし、景色までがすっかり変わって見える。それは遠のいていくものの静穏な眺めで、もはやその構図に自分は係りがない、というような。どれがわが家なんだろう? もう見えなかった。
    (p213)
    キャムの日常生活圏をはみ出て、そちらを見やると自分には手出しができない、自分は果てにいるのだという気がしてくる。臨死体験というのもこういうふうに始まるのかな。
    (2021 04/08)

    リリーとジェイムズの視点移動
    5章はリリーの視点。
     すみずみの細かいところまではっきりと見えるのに、あの場面の前はぽっかりとなにもなく、その後もまた空白なのだ、どこまでも。
    (p220)
     カンバスという空間がこちらをねめつけていた。絵全体のマッスがカンバスの重みの上にのっている。絵はカンバスの面では、美しく鮮やかで、羽毛のようにふんわりはかなげで、蝶の翅のごとく軽やかに色が融けあっているべし。しかしカンバスの下には、鉄のボルトで留めあわせたような、そういう堅固な構図がなくてはいけない。
    (p220)
    以前読んだ、丹治愛「モダニズムの詩学」にも出ていた箇所(だよね)。この小説自体にはそれは当てはまるのか。
     この絵画という道は、歩いてみるにずいぶんおかしな道だ。どんどん、先へ先へと歩いていくと、いつしかとうとう、海に突き出した細い板の上をたった独りで歩いていくようなことになるのだ。
    (p221)

     でも、わたしは間一髪のところで逃れたわ。リリーは思う。テーブルクロスを見ているうちにひらめいて、あの木を絵の真ん中にもっていこう。自分はだれとも結婚しなくていいんだと気づき、歓びに舞いあがったものだ。これでラムジー夫人と渡りあえる。そうも感じていた。
    (p226)
    ここは第一部の場面の思い返し。あの時も「あの木を真ん中に」といっていたけど、ここでその考えは結婚の放棄(リリー自身はバンクスよりポールにこの時は惹かれていたと、この直前でわかる)とセットな考えだったと判明する。何故だかわからないけれど、全く関係ないけれど随伴し一緒に動く想念というのがあるよね。
     結局、人はだれにもなにも伝えられないのよ。ここぞという火急のときほど、狙いをはずしてしまう。ことばはふわふわと斜交いにそれ、いつも的の何インチか下に当たる。そうして人があきらめてしまうと、やっと出かけた考えはまた胸の奥に沈みこんでゆく。そうやって人はいつしか大方の中年男女のように、用心深く、なかなか腹を割らなくなり、いつも眉間に皺を寄せて、愁いの晴れぬ顔をするようになるのだ。
    (p229)

    6章や9章の[]で閉じられた断章をはさみ、視点はやがて、リリーからジェイムズに移っていく。ジェイムズは父やキャムやマカリスターの親子とともに灯台へと向かう舟の上にいる。
     そう、とジェイムズは考える。舟は陽にじりじりと灼かれながら、静かに水を打ってたゆたっている。言ってみれば、雪に覆われた岩だらけの荒野だよ。寂れはてた極寒の荒原。で、親父が人を驚かすようなことを言うと、まるでこの寒い荒野に、僕と親父ふたりだけの足跡が点々とついているような、そんな気が最近ではするようになった。ふたりだけはわかりあっているってことさ。だったら、この恐れ、この憎しみはなんなんだ? 振り返ってみれば、心のなかには過去が降り積もらせた葉がぎっしりと折り重なり、その森の奥を覗けば、光と影が幾重にも交錯して、あらゆる形はゆがみ、彼はまぶしい陽に目がくらんでよろめき、暗い木陰でつまずきながらも、いまこの感情を鎮め、客観化し、形あるものにまとめるイメージを探していた。乳母車かだれかの膝に身をまかせる幼子のころ、荷馬車が人の足をそうと気づかずに悪気もなく轢いていく場面を目にしたことがあったとしたら?
    (p237)
    こうして、ジェイムズは、第一部冒頭の灯台行き前日のことを思い出していく。

    この小説のテーマは(今回は)、人間が他者をどうみるか理解しようとするのか。言葉がなくても(ない方が?)何かを通じ合うことはできる。もしくは、知らない間に何か他者が入り込む。
     その人の庭にちょっと腰をおろし、丘陵の斜面が紫に烟りながらはるかヒースの野へとつづいていくのを眺める。そんなふうにしてリリーはカーマイケル老人を知ったのだった。
    (p249)
     大気が汽船の煙をしばし留めるように、あの方の考えや想像や欲望を密かにとらえて、大切にとっておく。
    (p253)

    一方、舟の上のラムジー家の面々は、特別な言葉は会話でも地の文でも無かったのだが、父を拒否する中に、ジェイムズとキャムの中に、何か父と共にある場面が訪れていた。
    そして、島から舟を見ているリリーに戻ると。
     そうして老人がゆっくりと手をおろす仕草が、この場面のクライマックスを飾るものに思えた。あたかも、スミレとスイセンの花環飾りが長身の彼の手から放たれて、ひらひらと花を散らしながらゆっくりと落下し、ようやく地面に落ちるさまが見えるようだった。
    (p266)
    カーマイケル氏が「異教の神」に見えたという表現が、この文章がある段落の最初の方にある。そしてこの次の段落でリリーは「ヴィジョン」をつかみ、絵を描く。とすれば、このゆっくりと落下する色の動きが、彼女に啓示を与えたのだろう。
    (2021 04/10)

    「灯台へ」第三部補足。第三部のキーは「不在」ということではないか。場面がリリーとカーマイケル氏の陸側と、ラムジー一家の海側の二つに絞られ、陸側ではリリーがラムジー夫人の不在に、海側ではキャムとジェイムズがそこにいるのにもかかわらず会話をほとんどせず本を読み耽っていて視点人物にもならないラムジー氏の「不在」に、それぞれとらわれている。
    灯台に着いた時、何があったのか、「灯台へ」の「へ」という意味を考えてみなければ…

    解説から
     それどころか、ある人物の思考・言語のなかに作者/語り手の視点や意見が微妙に交じったり、逆に、作者/語り手がある人物の「口ぶり」を模して語っている印象の箇所もあった。この語り手は文章のスタイル、語彙、リズムなどを通して、人物の声帯模写ばかりか、一種の思考模写をおこなっているようにさえ見える。
    (p446)
    続いて、ウルフの「ユリシーズ」評。
     [こうした描き方をすることで]広々として自由になったというより、明るいながらも狭い部屋に閉じこめられている感じがする。それは心の問題のみならず手法によって生じる制限のせいである。そうも言えはしまいか。創造の力を抑えこんでいるのがこのメソッドなのだろうか?
    (p453)
    ジョイスの興味は意外と?「狭い部屋」に有り? あと「フィネガンズ・ウェイク」ウルフが読んだらどうだったのだろう(時期的な問題は未確認)。
    続いてp456の話題。元々ウルフの手書き原稿のラストは「これでお終い。でも自分のヴィジョンはつかんだ」というものだった。リリーだけでなく、ラムジー夫人の、また作者ウルフ(ここは語り手ではなくウルフ自身だろう)のヴィジョンが重なり合う。原稿の余白には「その白い形は完全に静止していた」とあったという。白い形・・・灯台か。マレーヴィッチか?
    P457では主にフェミニズムや社会階級論からのアプローチのまとめ・・・ここはちょっとわかりにくかったが、第二部の屋敷の掃除に来るマクナブ婆さんの位置。コーギーは「労働者階級の女性」だから、声は持っていてもヴィジョンは持てない、これはウルフの限界であったという。スナイスはマクナブ婆さんは認知力に欠ける設定でありながら自由間接話法で声が伝えられ物語の記憶をまとめあげて成立させているという。スピヴァクは叙述のロジックをここの「狂気の言語」で分解していると表現する。
    第二部に関しては他にも、ウルフが行なっていたギリシャ古典の翻訳からの影響というか谺を指摘。「アガメムノン」(アイスキュロス)には家が語る場面があるという。ウルフの語りもここでは古代悲劇の荘重さを帯びている。
     『灯台へ』において、passageはひとつのキーアイデアにあたり、移ろい、経過、小径、航路・・・・・・などの意味をもって随所に出てくるが、リリーは最後に、一本のラインを力強く引いて、自らのヴィジョンを集大成した絵を完成させ、それが『灯台へ』という小説が完結する時となる。このラインは絵をふたつの側に分かつものであると同時に繋ぐものでもあるだろう。この一本の線がpassageとなって、ひとつの世界が完結したのだ。
    (p464)
    (2021 04/11)

    「サルガッソーの広い海」の訳者、小沢瑞穂氏は、エィミ・タン「ジョイ・ラック・クラブ」の訳者。この訳は1996年出版(みすず書房)だけど、この前にも翻訳あり。リースはこの他、「あいつらのジャズ」の他にも、岸本佐知子氏が自伝的長編第一作を訳していて、短編もぽつぽつ訳されている。意外に?邦訳は恵まれている。
    ジーン・リースはドミニカ国(共和国ではない方)の生まれ。祖先はイギリス出身だが、スコットランドとかウェールズとかやはりそちらの方。ドミニカ島は佐渡島より小さく奄美大島よりは大きい。北にはグアドループ、南にはマルティニーク。ドミニカ国はこの辺で唯一カリブ族が残っていて、ある程度の自治も行っているという。名前はペンネーム。本名はエラ・グヴェンドリン・リース・ウィリアムズ。
     植民地の狭いヨーロッパ人社会というのは、ある意味では記号論的な世界だ。
    (p479 解説より)

    「ジェイン・エア」との関係で、第一部(三部構成は偶然にも「灯台へ」と同じ)はジャマイカに設定されているが、舞台のクリブリという農園はリースの出身ドミニカに近いという。
    第一部、古い白人と新しい白人、この差は奴隷解放以前か以後かというところにあるらしい。主人公アントワネット(「ジェイン・エア」ではバーサ)は母のアネットと障害を持つ弟、クリストフィーヌ(召使だけど、ダーと言う乳母のような、召使という範疇を越えてもう一人の母親と言っていいような存在。池澤氏解説のラフカディオ・ハーンの小説にもあるようにある程度一般的だったらしい)と住んでいた。「白いゴキブリ」と周りの黒人に蔑まれていたり、唯一できた遊び友達に服盗まれたり。
    空地だった隣に「新しい」白人の一家がやってきて、やがてそこのミスター・メイソンと母は再婚する。家の経済状況は良くなったが、今まで蔑みだけだった周りの黒人たちからは徐々に憎まれていき、「東インド諸島」(これがどこを指すのかよくわからなかったけれど、「苦力」という言葉があったから、本当のインド?)から労働者を入れようとした時、黒人たちに囲まれて放火される。
    弟は亡くなり、母は狂気に落ちる(元々母はここから逃げ出そうとメイソンに言っていたが、メイソンは聞く耳持たず)。アントワネットは修道院生活に入る。ここまでで一番安定した生活…しかし17歳になった時、メイソンがやってきて引き取る。メイソンはある計画を持っているらしい。それが「ジェイン・エア」のロチェスター氏との結婚話である(とは明言してないけど)…というところで第一部が終わる。
    第一部最後、母親の葬式の回想から
     クリストフィーヌはひどく泣いたけれど私は泣けなかった。祈ったが、言葉は意味も持たずに地面に落ちた。
     彼女に対する思いと私の夢が混じり合う。
     彼女が習慣を変えて、借りた馬に乗っていくのが見えた。クリブリの砂利道のてっぺんで手を振ろうとしているのが見え、私の目にまた涙が浮かんだ。「あんなに恐ろしいことが起きるなんて」私は言った。「なぜ? なぜなの?」
     「そういった不可解なことばかり考えてはだめよ」シスター・マリー・オーガスティンは言った。「なぜ悪魔が栄えるのかは私たちにはわからないの、今はまだね」
     そもそも彼女は他の尼僧とちがってめったにほほ笑まなかったが、今はにこりともしなかった。悲しそうに見えた。
     彼女は自分に言い聞かせるかのように言った。「さあ、早くベッドに戻りなさい。穏やかで平和なことだけを考えて、眠るようにするのよ。すぐに合図を鳴らすから。じきに明日の朝になるわ」
    (p314-315)
    なんの断りもなく、次々と話者とか場面が移り変わる書き方。果たして、アントワネットの「明日」はどんな日なのだろう。

    というわけで、第二部は語りをロチェスター氏に変える。リースはこの第二部が一番難しかったと言っていて「あのいまいましい第二部」と呼んでいたという。
    第二部はジャマイカからリースの本拠地、ドミニカ国に移る。ロチェスターはジャマイカに来て一か月後にアントワネットと結婚する。しかもそのうち2週間は熱病でふせっていたという。
    (2021 04/11)

    閉じること、開くこと
    うーん、なかなか手強いテクストだなあ。最近読んだ中では、表層だけ掬って読んでいる感が一番強い…ロチェスター、アントワネット、クリストフィーヌ、ダニエル…それぞれがいがみあっているのだけれど、コードが違ってすれ違って話し合いにもなってない、他者の声に自分の思いを投影させて完結させているような気がする。しかもそのうちの一人に絞っても納得できないで…例えば、ロチェスターは、アントワネットは、相手を愛しているのだろうか。当人が言うほど。
    と、いう感じなのだが(もちろん、わからないのは「ジェイン・エア」をまだ読んでいないということもある。でも解説の池澤氏も「何か読み落としているのでは?」と読むたび思う」と書いているから、手強いのは折り紙つき…)、とりあえず引用してみよう…
     …ここの人たちはひどく傷つきやすいのだと思った。ぼくが感情を顔に出さないことを学んだのは、幾つのときだっただろう?
    (p356)
    すれ違いポイントをそっと教えてくれる箇所その1(といっても今数えられるのはここだけなのだけど)。近代資本主義の精神教育(イギリスでも流行ったし、日本では心学とかいろいろ)は、今の現代社会に生きる人々から見える以上に、世界的、歴史的に見渡すとかなり異質、特殊なものなのだろう。でもアントワネット側が特殊ではない、とはそれも思えないし。
     母が鏡を見つめるたびに、希望を抱いて孤独じゃないふりをしているにちがいないと思ったわ。私もそのふりをしたの。もちろん母とはちがうことについてね。そのふりは長いことできるけど、ある日とつぜんすべてがくずれて一人きりになるの。私たちは世界でいちばん美しい場所に取り残されていたの、クリブリみたいに美しいところがほかにあるはずがないわ。海から遠くはなかったけれど潮騒をきいたことは一度もなく、いつも川の音がしていた。海じゃなくて。
    (p383)
    狂気になるのは、ひょっとして海の音を聞けないから、と思ってしまう。あるいは狂気なるものは現地社会と西洋社会が接した時に、西洋社会側が現地社会のある一側面を切り取ってそう名付けたものに過ぎないとも言えるのかも。といっても、現地社会が純粋無垢だとかいう意味ではなく、その社会内でも危険な萌芽を抱えていたが見えないようにして生活していた、と(まだ自分でも掴めてないけれど)。

    上記で言いたいことは、支配被支配とか西洋人非西洋人とかいう図式ではなく、ある人の世界の見方が開いているか閉じているか、ということ。アントワネットもロチェスターも進むにつれどんどん閉じていってしまっている気がする。
    (2021 04/12)

    厚紙の家にさまよいこむ幽霊(読者もまた)
     突風の中を歩く裸の赤ん坊のような憐憫
    (p417 「マクベス」より)
     だが安っぽい白い家を見たときに感じた悲しみ、それにたいしては心の用意がなかった。その家は前よりまして黒い蛇のような森から身をふりほどこうとしていた。前よりも大きな声で必死で叫んでいた。破滅と荒廃から救ってくれ。蟻に食われる緩慢な死から救ってくれ、と。だが、おまえはここでなにをやっているんだ。愚か者め。こんなに森の近くで。ここが危険な場所だってことを知らないのか? 暗い森がいつも勝つってことを。常にだ。
    (p420)
    「前」っていうのは「灯台へ」の第二部ではないよね。せっかく併録されているんだから、そのくらい遊んでも…
    物語に現れる家の概念の変容について…
    というのはともかく、「おまえは」とかいうのは家に言っているというより、ロチェスターが自分自身に言っていること。彼はアントワネットが狂っていると考えているみたいだが、それ以上に彼自身が狂っている。
     彼女が記憶にすぎなくなる日を。遠ざけ、錠を下ろして閉じ込めるべき記憶となり、すべての記憶が伝説となる日、または一つの偽りとなる日を……。
    (p426)
    第三部
     夜になって彼女が何杯か飲んでから寝入ってしまうと、鍵を盗むのは簡単だ。彼女がどこに鍵をしまっているかもう知っている。そして私はドアを開けて向こうの世界に足を踏み入れる。それは、前から知っていた通り、厚紙でできている。
     私が夜になると歩くこの厚紙の家はイギリスではない。
    (p432)
    厚紙というのは意表をつく比喩だ、と読んだ時は思ったけど、この厚紙の家というのは「ジェイン・エア」という本自体ではないか、という指摘が前に見た本にされていて、納得。ではジェイン・エアはそっちからこっちの厚紙の家に入ってきているのか。
     ときどき左右に目をくばったけれど後ろは振り向かなかった。この屋敷にとりついているという女の幽霊を見たくなかったから。
    (p438)
    ここまでくると完全にそういう仕掛けであることがわかる。幽霊とされていたのはアントワネットの方ではなかったか。でもジェインもアントワネットもその他大勢の女もこの列に加わって長い連鎖をなしているなら、どっちが先でどっちが後かなんて些細なことではないか。
    そしてお互い入り込んだ厚紙の家で火をつける。
    家、ヴィジョン、他人の理解…実は併録2作品に共通するテーマは多いのかも。
    (2021 04/13)

  • わざわざいうまでもなく、本作(「灯台へ」)が名作であることはまず間違いない。

    何より構成がグッときた。

    戦前。天気の都合で、けっきょく灯台に行けなかった、その前日を、本作の半分くらいが閉める。

    ついで、戦後、誰かが死に、誰かが生き延び、島の別荘が、ある老婆によってかろうじて維持されていたことの報告。

    そして、生き残った人たちが灯台へ。それは、かつての幸福な思い出に誘われて、という動機であるはずが、現実はそうもいかない。。。

    女性がまだ、当たり前のように差別されていた時代。同時に、男性ラムジー氏がこうも「怪物的」な存在として描かれていることに、また、ラムジー夫人ではなく、ラムジー氏が生き残ったことに、苦々しさと胸苦しさを感じざるをえない。
    しかしそこには、明確な肯定も否定もない。

    まるで、こうして「いま」が形作られたのだよ、と言われているようで。

  • 灯台へ
    鴻巣友季子の訳が素晴らしい。

  • 「灯台へ」で描かれているのは記憶の世界である、と私は思った。それが全章を通してみると、特定の人の記憶ではなく、不特定多数の誰か、という大変複雑な構造の作品ではないかと感じるのだ。
    「サルガッソーの広い海」に取り組むために、私はわざわざ「ジェイン・エア」を読んだ。しかし、本書に取り組み方には、私は先にジェイン・エアを読むことをお勧めする。でないと面白さは半減する。そのくらい関係の深い小説であると思う。

  • 2015.10.22

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著者プロフィール

1882年―1941年、イキリスのロンドンに生まれる。父レズリーは高名な批評家で、子ども時代から文化的な環境のもとで育つ。兄や兄の友人たちを含む「ブルームズベリー・グループ」と呼ばれる文化集団の一員として青春を過ごし、グループのひとり、レナード・ウルフと結婚。30代なかばで作家デビューし、レナードと出版社「ホガース・プレス」を立ち上げ、「意識の流れ」の手法を使った作品を次々と発表していく。代表作に『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『波』など、短篇集に『月曜日か火曜日』『憑かれた家』、評論に『自分ひとりの部屋』などがある。

「2022年 『青と緑 ヴァージニア・ウルフ短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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