- Amazon.co.jp ・本 (127ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309726151
感想・レビュー・書評
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見方によって、若い女の人に見えた老婆に見えたりする、いわゆる「だまし絵」について知ろうと思い買った。ただ、著者は、そうした錯視を利用した絵は、本当の意味での「だまし絵」ではないのだ、というところから話を始める。
この本でいう「だまし絵」とは、描かれたものの写実性と迫真性によって、見た人が「本物そっくり」だと思うような絵画のことである。それは、「本物そっくり」であるために、見る人の目を「だます」もので、しかし、そうは言っても絵であるがゆえに必ずしも「だまされない」ものだという。この「だます」「だまされない」の間の微妙な境界線に、その作品の「だまし絵」としての芸術性があると、著者は考える。
注目するのは、絵の中に描きこむことで、それを本物だと想わせようとするモチーフの数々である。まるで絵の表面に止まっているように見える蠅。貼ってあるように見える張り紙。壁にかければ、あたかもそこに窪みがあるかのように見える壁龕。こうしたモチーフは、美術史の中に、繰り返し現れて、見る人を騙そうとしてきた。
たしかに筆者の言う意味での、人の目を騙す絵画を「だまし絵」と呼ぶなら、自分が最初に挙げたような見方によって絵が変わるような「隠し絵」は、「だまし絵」ではないかもしれない。ただ、そこは、ただの言い方の問題ではないか、とも思う。
この本で面白かったのは、そうした美術史の中で、繰り返し描かれるモチーフが、どのように繋がっていて、どういった意味のものとして解釈できるのかを説明しているところだろう。特に、「ウァニタス(虚栄、虚しさ)」の表現として、髑髏を解釈していくところなどは参考になった。
歴史の流れの中で、複数の作品を見比べることによって初めて分かる、作品の楽しみ方を知れる本だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
この本でいう「だまし絵」は、エッシャーに代表されるような錯視を利用する絵のことではない。架空のものであることを認識しながらも、リアリティーを感じられるような絵のことである。人を「だます」ためには単に写実的であれば良いのではなく、どのように見せるかという文脈も重要らしい。本書では、多数の「だまし絵」とその面白さが紹介されている。通常とは異なる観点から美術史を俯瞰することで、意外な発見があるかもしれない。
(機械系エネルギーコース M1) -
5/23 読了。
"もっともらしさ"、"本物らしさ"を売りにしている絵、という定義によって括られたトリックアートを見ていく。古くは古代ローマから、食べ物の残りやゴミが散らかっているように見える床(に描かれた絵)、柱の向こうに気色が広がっているように見える壁(に描かれた絵)など、生活空間を拡張する遊びとして楽しまれていた。中世になると、画家はキャンバスに止まっているかのような蠅や、キャンバスを蔽っているかのような垂れ幕、ピンで留められているかのような紙の切れ端などを、画題には関係なく自らの力量を誇示する目的で描くようになる。やがて静物画の黄金時代がやってくると、その性質上"だまし絵のためのだまし絵"化が加速してゆく。 -
コルネルス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ。だまし絵の帝王。
ジョン・フレデリック・ピート。アメリカ。
ウィリアム・マイケル・ハーネット。アメリカ。
出会えて感謝。 -
資料番号:010332724
請求記号:723/タ -
実在性のある古典的なだまし絵について非常に網羅的に採り上げられており、見た事の無い作品と解説が面白い。
ただし、エッシャーやマグリットなどのモダンなだまし絵を「だまし絵ではない」と切って捨ててしまっているので食い足りない。 -
著者は美学専攻の方なので、著書は(私にとって)難解なのだが、この本は美術史寄りに、解り易く書かれている。
読んでいくとだまし絵の魅力にぐいぐい惹きこまれてゆく。