枕草子/方丈記/徒然草 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集07)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309728773

感想・レビュー・書評

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  • 訳者がほぼ千年前の作者に憑依されてしまったのかってぐらいよくできている、日本三大随筆の現代語訳集です。

    ラインナップは、
    「枕草子」(清少納言著/酒井順子訳)
    「方丈記」(鴨長明著/高橋源一郎訳)
    「徒然草」(兼好著/内田樹訳)

    酒井訳「枕草子」
    読みだした時は、才気走って気の強い印象のある清少納言の言葉としては、落ち着いた静かすぎる語り口かなあ、と思いました。しかし、読み進めていくうちに、すぐに納得。

    八段目という、とても早い段階で(段の並びには学問的に諸説あるようですが)、清少納言が仕えた中宮定子が、父・藤原道隆の死と兄弟たちの失脚、そして、叔父・道長の台頭により、不遇の立場にいる最中に第二子(第一皇子)出産のため、実家でもない、ある身分の低い役人の屋敷に宿下がりをするしかなかった折、その役人の屋敷の手狭な造りや賤しい行為を皆でからかって笑った、というようなエピソードが語られています。

    その後も、繰り返し繰り返し、「春はあけぼの」に代表される清少納言の好きなもの・嫌いなものといった嗜好、宮廷人に褒められたというような自慢話のあいだ間に挟み込まれる、中宮定子やその家族に関わるエピソード。
    それらは、中宮一家の権勢が絶頂期のものであったり、不遇の時期のものであったりしますが、時系列は無視されて語られていきます。

    読み進めていくうち、明るさに貫かれているように思える枕草子の大半が、中宮定子の不遇の時代に書かれたものであったことがなんとなくわかり、その一部はもしかしたら、不遇の身の上のまま24歳の若さで世を去った定子の死後に書かれたものだったのかもしれないとまで思えてきます。
    しかし、基本的には、定子やその周囲が現実に直面していた悲しみや苦しみは、限られた状況描写などからうっすら滲み出ているに留まっています。

    今は亡き美しく気高い主人と華々しかった時代を思い出し、敬愛と寂寥の念を込めて書いたある種の懐古譚もしくは追悼書だったのかも、と思うと、酒井さんによる静かな文体は、どことなく感傷を呼び起こす点で、まさにぴったりだと思いました。


    高橋訳「方丈記」
    おっさんの中二病感が程良く絶妙に出ていると同時に、なんだかものすごく「しっくり」くる、斬新かつ見事な文体のおかげで、スラスラと読めた作品。
    平安末期から鎌倉初期の、源平動乱に加えて大きな災害が多発した時期に、不遇な一生を孤独に過ごした一人の男の人生観や時代の記憶などが、カタカナ英語混じりの独特な文体のおかげで、ものすごく身近に感じられます。
    表題の「方丈記(三メートル四方の庵のお話)」を「モバイル・ハウス・ダイアリーズ」、有名な「ゆく川の流れは絶えずして」を「リバー・ランズ・スルー・イット」と訳した高橋さんの挑戦に脱帽です。


    内田訳「徒然草」
    淡々とした文体が、徒然草の捉えどころのない、ある種飄々とした感じをよく表している作品。
    人生観や四季の風物の美しさだけでなく、意味不明な伝承や噂話、ちょっと皮肉だったりお馬鹿な話など、雑多な話を同列に記した徒然草らしさ全開です。
    毎日食べていた大根の妖精に窮地を助けられる男の話とか、言いっ放し感がすごく、だからなんやねん、とツッコミを入れたくなります。


    作品と訳者の個性が見事に噛み合っており、それぞれ全編を通して読むと、学生時代に有名な部分だけを習わされた時とは違う、深い味があって面白かったです。

    よくぞここまで!!と感嘆するほど、ぴったりの言葉で巧みに語ることができる人を訳者さんに据えた、池澤夏樹さんの見事なセレクトに恐れ入る、寄稿解説者の上野千鶴子さんの言葉をそのままお借りすれば、まさにキャスティングの妙に尽きる作品集でした。

  • 池澤夏樹編集のもと、気鋭の文学者を集めて現代ならではの「日本文学全集」を新たに編纂したシリーズの一冊。この全集から発刊された角田光代さん訳の『源氏物語』を先日読み終わり、次は『枕草子』でも読んでみるかー、と思っていたので手に取ってみました。
    収録されているタイトルからもわかるように、この巻は日本文学における「随筆」を中心にしており、時代をまたぎながら古典作品の良さを知ることができるようになっています。

    随筆の「随」には、「なりゆきに任せる」という意味合いがあるらしく、その意味で言えば最初に来る『枕草子』にもそんな気の向くまま、誰に気兼ねすることもなく、書きたいことを書いたという雰囲気が感じられました。四季の美しさや、行事の面白さをとらえ、想いを的確に文章とする感性の鋭さもさることながら、ちょっと腹立たしく感じたことや、個人的にいいなとおもってることについてもあれこれ書かれているので読んでて普通に面白い。1000年前の人だって「ドアをちゃんと閉めない人」に対してムカついたりするんだなあ、そりゃそうか。妙に親近感を覚えてしまう箇所も多数あり、そういう”繋がる”感覚が読んでいてうれしくなります。清少納言の視点には一種の「客観性」が常にあり、物事の風情をしっかりと感じ取り楽しみつつも、そんな自分の姿をひとつ上の位置から眺めているようでもあり、それらを的確に表現する冷静な筆致にこそ、独自性と先見性と文学性が宿っているように思いました。

    続いて『方丈記』についてですが、こちらは訳者が高橋源一郎さんでして、かなりトリッキー、というかクセつよな訳に仕上がっています。なんせタイトルのルビが「モバイル・ハウス・ダイアリーズ」なので。訳文にしてもタイトルにしてもカタカナを多用しているため、「翻訳」というよりも「吹き替え」と言った方がしっくりくる読み心地となっており、愉快な印象や異世界感が強まっているなあと思いながら読みました。私は『方丈記』を読むのが初めてなのですが、人によっては「ふざけんな!」と怒りを覚えそうな気がします。うーん、どうなんだろうなこの訳は。個人的に悪ふざけとかブラックジョークは嫌いじゃないですし、「日本文学全集」という場所でそれをやるという反骨精神も嫌いじゃありません。ただ、なんというか単純におもしろくない。いや、おもしろくないというよりも「スベってる」気がして、それが読む気持ちを阻害しちゃってる気がします。あー、でも内容がそもそも厨二病の人の叫びみたいなところがあるので、その意味では正しい翻訳なのかも。

    そんで最後は『徒然草』。訳者は内田樹。有名な冒頭文「徒然なるままに~」をそのまま流用することなく、現代の言葉に置き換えており、その時点で訳者の「清新な訳を心がけよう」という意気込みが伝わってきます。その後の文章も格式がありつつ読みにくさは無いのでリーダビリティは高い。文章に宿る「息づかい」は、現代の小説を読んでいる感覚と大差なく、おもしろい人のおもしろい文章を読むという、まさに随筆本来の良さを味わうことができた気がします。なんか夢で見たようなしょうもない話もいくつかあり、個人的にはこれが三作の中では一番好きでした。

    感情のおもむくままに書く。
    本を読んだら感想を書き、映画をみたら感想を書き、何か伝えたいことがあったら文章を書く。そんなことをWEB上でやっている身からすれば、共感するところはあるものの、それ以上に、こうまでなめらかに、先の時代まで残るような文章で、想いをぶつけながら書くのはそう簡単なことじゃないよな、と改めて感じます。こうやって頭に浮かんだ言葉をつらつら書いていても読み返せば言い回しを変えたくなったり、誤字脱字があったり、言い足りないことがあるのに気づいたり、文章を書くのは難しいなとしみじみ思います。ライターの武田砂鉄さんが巻末の書評で書いているように、「日本三大随筆」であるこの三作品は、いずれも作者が"粘着質"であり、細かいとこまで執拗に食い下がる傾向があり、そこが読んでて面白い。そんな感じで、ここまで何かに執着したり、念入りに書き綴ったり、細かいところまで気にしてこそ、後世まで残るような名エッセイができるのかなと思いながら、古典となるほどの超人気ライターによる日記帳を堪能しました。

  • <枕草子>
     「平安時代OLのブログ」らしく、酒井順子訳がしっくりくる。
     積もった雪がいつまで保つか賭けた話や「・・・そんな定子様が素敵」で終わるシリーズもよい。「こっそり書きためていたのが出回ってしまった」というくだりは笑った。

    <方丈記>
     まさかのカタカナ英語まじり訳。「モバイルハウス建てた」とはそういうことか。

    <徒然草>
     たしかにつれづれなるままに書いてある。出家の話、達人の話、妖怪の話、豆知識...。「ダメな奴は何をやってもダメ。見苦しいから人目につかないようにすればよい」とは誰もが思っていることかもしれない。現代は好き好んで目立とうとしているのではなく、無理やり競争の場に追い立てられて悪目立ちする結果になっている人が多いような気もするが。

    1000年前も現代も人の心はあまり変わっていない。

  • 訳すということは、普段、ただ文法通りに当てはめていくといった直訳から始まる。
    けれど、人が書いたものである以上、その人が抱いたイメージをどう「解釈」するか。
    また、その解釈をどの言葉を選んで表現するかという所に、訳者と作者の憑依なくしては得られないものがある。ように思う。

    そう考えると、池澤夏樹が、この三人に憑依を頼んだことがまず、面白いではないか。

    特に私が触れることの多い、高橋源一郎と内田樹に至っては、こりゃあ買わないと、と思わせるグッドチョイス。

    日本古典三大随筆が、一つの巻に揃って、尚且つ面白い憑依が見られるなんて、お買い得すぎます。

    青色大好き清少納言は、自分の自慢話を隠しきれない女性と評されているけれど、そうかなぁ。
    この時代において日記ではなく、これほど詳細に身の回りを描き、またその感情を温めていた女性を愛おしく思う。

    内田樹の『徒然草』は、テンポが良い。
    それが兼好法師のシンプルさにつきづきしい読み心地に仕上げてくれている。
    人から離れきれなかった兼好法師の愛着を見る人もいるが、それでも平安期の男女の想いとはまた違った、つれなさ?をこの文章からは感じる。

    高橋源一郎の『方丈記』は、どう読まれるか。
    一口では異色。だけど、鴨長明の偏屈さがそこにあるような気がして、楽しい。
    一体、どれほどの人が方丈の庵を作っていたのか。
    この人だけのことだったのか。
    けれど、心身共にストイックな生活において、鴨長明が思い及ぶ世界は広大無辺である。

    古典に学ぶ思いは必要である。
    けれど、古典を楽しむことが出来ると尚素敵だ。
    この時に、こんな人がいたんだな、と身近に感じさせる憑依の達人たちの一冊。
    面白かった。

  • これは面白い!日本三大随筆はそれぞれ、こんな話だったのか。
    春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
    行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
    つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
    いずれも冒頭の名文は知見がない私でも知っている。古文教育はムダではないw
    枕草子、「あれは素敵、これも素敵」「すばらしいのです」と好きなものを取り上げる。一方では時代を超えていいね!と共感し、他方では平安時代の暮らしぶりが興味深い。才気間髪に漢詩などをひいて受け答えする才女だが、それを褒められたことをしっかり自慢する自意識もある。イケメン、ファッション、貴族が好きなミーハーさも存分に。
    徒然草も枕草子の影響を受けている。こちらは仏教、人生、死に対する真面目な示唆と、「耳鼻欠けうげながら…」の仁和寺の坊さんなど面白話が入り混じっていて可笑しい。枯れたご老人の高説ではなく240段「(略)御垣が原の露を踏んで女の家を出た時の有明の空をわがこととしてしみじみ思い出すことができないような男は端から恋とは無縁の衆生である」とモテ男の恋話も披露してみせる。
    解説で言うとおり、作家と翻訳者のヴォイスが共鳴している。古典の現代語訳、面白いね。

  • 「枕草子」の冒頭を知らぬ者はおそらく居ないほどなのに、その本当の内容を知っている者は、果たして日本人の何%なのでしょうか。

    春はあけぼの、から自然を語って数ページで終わり、ではなく、正に延々と(宮中から見える)世の中の森羅万象を、清少納言の価値観で評価付けする所謂百科全書みたいなものだったのである。いわゆる自然と生活描写だけでなく、日記あり、掌小説あり、なのだ。私の思ったのは、これは日本最初の大衆雑誌ではないか?或いはヒルナンデス、或いはバイキング。時に知的で、時に下品、時に独断専行。1番の読者は中宮定子だったかもしれないが、いつからか宮中女房全員に読者は移ったのかもしれない。

    清少納言の知性は、隠しようがない。しかし、その知性は世界を作ろうとしない。その代わり、世界を語り尽くす。思うに、日本の女性の本性を描いて、日本は突然その高みの頂点近くまで行ったかもしれない。嘘だというのならば、現代の放送作家で、彼女よりも幅広く、深く、エンタメに、ホンを書ける人がいたら教えてほしい。

    「方丈記」は、三大随筆の中で、全文を読んでいる唯一の作品である(短いからね)。訳者は、大震災を経た現代、この人しかいないでしょ、と思える高橋源一郎。流石、ポップな現代文に蘇った。そうやって読んでみると、大震災の描き方が、ルポ的な というのだけが特徴ではない。前半の「現代の首都・京都」という大都会の有様そのもの(大厄災・飢餓・貧困)が、そのままストレートに現代の日本に繋がっているのである。大都会の人間どもが1000年経っても同じことをしている証しだと思われる。高橋源一郎の料理の仕方面白かった。

    「徒然草」は、もしかしたら他の訳書で全文読んでいたかもしれない。至る所に聞いたような事が、書かれている。しかし、読後の感慨は新たなものだった。兼好坊主はこう云う。「どれも『源氏物語』や『枕草子』などに繰り返し言われていることであるが筆に任せて書き散らすよ」と。これも、当時の週刊誌的な傾向を持っているが、枕草子のような繊細さはない。かなり説教くさい。もちろんエンタメ志向なので、ユーモアもある説教である。俗言も多いが、例えば第92段のような卓見もある。

    三大随筆。こうやって訳書でスラスラと読んでわかるのは、1000年前に日本語は突然随筆の頂点近くまで登ったのだということである。

    2017年10月読了

  • 宮仕えし始めのエピソードが微笑ましくて好き。定子様をお慕い申し上げているのが伝わってくる。
    定子様と清少納言が一千年前に実在していたことが絵空事のようで、にわかに信じられない。よくぞ今日まで伝えてくれたと頭を垂れたい。

  • 離れに引き蘢ってギターかき鳴らす高校生みたいなもんとも言われてきた?鴨長明の「方丈記」なので、ポップな訳も違和感ないような気がする。
    天災に苦しめられたり遷都がうまくいかなかったり、現代と変わらないよね。

    「枕草子」も、「まさか人が読みはすまいと思って(略)書きためたもの」と言いながら、好きなものや好きじゃないものを並べてるわけだけれど、それが着眼点も理由もうまい文章で、今の素人ブログの比じゃない。ただ者じゃない筆の運び。

    古びとたちとその暮らしが近く感じられる。

  • 230627*読了
    元来エッセイが好きなので、「枕草子」や「徒然草」ってこうして読んでみて、好きな部類の古典だなぁと思う。

    特に女性ならではの「分かるー」が多い「枕草子」はとても好み。
    山といえば、原といえばと名前をずらずらと並べる段あれば、見苦しいものなどテーマを決めて、あげていくものもあって、特に後者は「分かる分かる」と頷いてしまった。
    定子に仕えた華々しい時代を振り返って書いているのだけれど、当時の日記のようにいきいきとした文章。才女として生きた彼女の人生を思う。
    ちょっぴり自慢もあったりして可愛らしい。
    好きな古典は?と聞かれたら、「枕草子」と答えたい。

    「方丈記」は、これも確かに現代語訳といえばそうなのだけど、とたじろいでしまった。
    なんせ、モバイルハウスダイアリーズ。確かにそうなんだけれど。
    各章もすべてカタカナ。
    今っぽさ全開の方丈記。昔の出来事が今に類するところもあって、違和感はあるようでない。
    これはこれでおもしろい。

    「徒然草」ってどことなく「枕草子」に似てるよなぁと思っていたら、意識されていたってマジか。そんな気はしていた。
    より、おじいさんの人生訓の感じが出ていて、長く生きた人の言葉は勉強になります、という気持ち。
    人生は短いのだから、あれもこれもやろうとせずにやりたいことをやりなさいであったり、欲を持ちすぎないように、であったり、こんなに古くからこの考えはあって、今と少しも変わらない。
    これだけ古くから言われていることなのに、つい、あれもこれも手を出してしまい、何もなさぬまま命が絶えてしまうのが常。
    自己啓発本よりも啓発されました。ありがとうございます、兼好法師。

  • 酒井さんの枕草子の訳が素敵です。敬語の勉強になる。
    最高にテンションが上がるのが(呼び捨てゴメンなさい→)高橋源一郎の「方丈記」。「モバイル・ハウス・ダイアリーズ」で「リヴァー・ランズ・スルー・イット」だよ。もう読んでいるだけでテンションがあがる。楽しいとしか言いようがない。

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著者プロフィール

エッセイスト

「2023年 『ベスト・エッセイ2023』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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