日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 08)
- 河出書房新社 (2015年9月11日発売)


- Amazon.co.jp ・本 (506ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309728780
感想・レビュー・書評
-
仏法説話集4作品を集めたもの。
仏教の教えに基づき、どう生きるかなどのテーマをわかりやすく説話形式に。
4編とも何となく似ていたり、同じテーマがあったりして、読んでいるうちに自分がどれを読んでいるのか分からなくなってきた(笑)
読みながら日本が仏教でなく神道が主流になったらどのような説話集になったのだろう?と思った。仏教説話集だと「被害者になったのも因果応報」「お経を唱えて死ねば極楽に行ける」という結論なのでちょっと消極的と感じてしまうことも。
いくつか「ラテンアメリカ文学で読んだぞこのテーマ」と思ったら巻末の解説でも描かれていました。距離と時代が隔たっていても人が語る物語は似るのだろうか。
【景戒(薬師寺の僧)「日本霊異記」新訳:伊藤比呂美】
平安時代初期に印された仏教説話集。
『わたくし薬師寺の僧、景戒はつらつらと世間を見るに目に入るは人の卑しい行いばかり。
人は善悪の報いを識るべきだ。
中国のとても面白くてためになる説話集に倣い、私もこの国の不思議な話を書き記そう。
…ただ困ったことにこのわたし、景戒はあまり頭がよくないんだ。元の良い話を私がうまく伝えらるだろうか?
だがこの話を読むみなさんが、邪な道に進まず善い道に進むことを祈り記して行こうと思う。
諸悪莫作 (わるいことをするな)
諸善奉行 (よいことをするのだ)』
説話集の中身は、人の恩を忘れず善行を進め、仏への祈りを忘れず、日々感謝の心でいきるんだよ。悪い行いをすると戻ってくるよ、というようなもの。
話は唐突で脈絡がないことも。
いきなり雷を捕まえたり、女が龍になったり。
また仏教の”徳”の現れ方も少し不可思議。
ひたすらお経を読む高僧は死後頭蓋骨で舌だけは生きているように残るとか、身籠った女が肉団子を産んだら吉相とか。
人の世の不条理さ、酷い目にあった、不思議なことがあった、という説明の出来ないことがあっても生きていくために編み出されたのが宗教や説話なのだとしたら、「前世の行い」「仏の御心」として受け入れていったのでしょうか。
訳しかたは軽めで流れるような感じです。
「風のように生きる女がいた」という文体が格好いいなあと思った。要するに「極貧で合っても仏に感謝し自給自足で子供たちに感謝の気持ちを伝えていけば、身分は低くとも神女になれますよ」ということ。
要するにこの説話集の言いたいことはこれに尽きるような。
【「今昔物語」新訳:福田武彦】
平安時代末期。
冒頭は「今は昔のこと」で始まり、これは「古い昔」と言う意味と「最近過ぎた昔」ともなる。
訳が福永武彦なのでほかの”新訳”より砕けていないが文章は綺麗で読みやすい。
個人的には”新訳”だからと言ってあまり現代調にするよりこのくらいの文章が状況を感じやすいと思う。
テーマは「因果応報」となっているなのだけれど…一方的にストーカーされた側が「ストーカーされたのも前世の因果」となったり、「盗賊から身体を守るためにわが子を捨てた女」が褒められたり、みたいなのは現代とは価値観が違うけれど、それだけ生きるのが厳しかったたのか。(…というのは巻末の解説にも書いてあった/笑)
のちに「安珍と清姫」「羅生門」「藪の中」となる作品の元の話も収められていう。
「芋粥」の元の話、「東国の武士が一騎打ち」の話などは当時の武士の猛々しくもまっすぐな気性が生き生きと描かれているが、郎党引き連れて殺し合いが日常ってのもやっぱりコワいな。
盗賊や詐欺師の出てくる話は彼らがどのようにして人々から金品を奪っていたのかなどが生々しく伝わってくるが、まさに騙される方が悪い、殺される方が悪い時代だ。
【「宇治拾遺物語」新訳:町田康】
鎌倉時代初期。
ある大納言が夏の間の避暑地として宇治に住み、退屈しのぎに道行く人を身分の上下を問わずに招き入れて面白い話を聞いて、それをまとめたものが「宇治大納言物語」。それが伝わっていくうちに話が追加されたりしていったのが「宇治拾遺物語」ということ。
「アラビアンナイト」がやはり原典からヨーロッパの話し手が加えて行った話が増えていっているが(アラジン、は原典にはなくヨーロッパで追加されたとか)、そのような伝わり方をしているということですね。
しかし生活は安定して、人々と交わり話を聞いて過すなんて、なんて羨ましいのだろう!!
新訳は軽目。
「今は昔」の訳を章ごとに
「これは結構前のことだが」「これも前の話だけど」「前」「そうとう前」などとなっていて、訳者さん遊んでるなと(笑)
使われている言葉も「マジマジマジ?」「ヤバいじゃんマズイじゃん」「『良かったね、問題ないね』とはならない話で…」みたいな(笑)
「こぶとりじいさん」「わらしべ長者」の元の話あり。
「こぶとりじいさん」は「人の真似したってダメだよ」というのが教訓だったのか。私は「無芸は身を滅ぼす」だと思って、無芸な私はこういう場面に自分が出くわしたらどうしようもないじゃないか~~と昔からびくびくしていたのだが(笑)
【鴨長明「発心集」新訳:伊藤比呂美】
鎌倉時代初期。
『何事につけても自分の心の弱くて愚かなことを忘れず、仏の御教えのまま気持ちを緩めず次の生こそ生成流転する苦しみから逃れて浄土に生まれ変わりたいと願う。』
訳者は「日本霊異記」と同じ伊藤比呂美さんだが、訳の調子はこちらのほうが少しはかっちり目で断定的。
高僧が解脱するために入水や生きたまま土中に入ったりと要するに自殺するに当たる心の美しさや、いやその瞬間に湧き上がった恐怖や疑問など…
現代の価値観だと「念仏を唱えることだけに生きて自殺して極楽往生や来世をを願うなら、善行を積んだ方が良いのでは」と思ってしまうのだが…詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
結構ダイレクトなエロや煩悩丸出しだったりするくせに、オチはあったりなかったりする、なんとも自由な、平安から鎌倉までの時代に書かれた四つの説話集(今でいう短編集というか、ショートショート?)から選んだエピソードを現代語訳した作品集。
読み終わってみて、説話集って、成立当時に楽しんでいた人にとっては、現代人でいうところの、「爆笑系からしんみり系、はたまたホラー系まで!盛りだくさん!編集部セレクト四コママンガ傑作集」とでもいう感じだったのかもしれないなあ、と思いました。
読む前は、単調で途中で飽きるかな、と思っていましたが、絶妙な訳文のおかげで、純粋に軽い読物として、大笑いしたりニヤニヤしたりしながら、楽しく読み終わりました。
ラインナップは、
「日本霊異記」(伊藤比呂美訳)
「今昔物語」(福永武彦訳)
「宇治拾遺物語」(町田康訳)
「発心集」(伊藤比呂美訳)
伊藤訳「日本霊異記」
平安時代初期に奈良薬師寺のお坊さんによって書かれた作品集で、主なテーマは「因果応報」。前世とか後世よりも、一回の人生のうちで、何かやらかしたら割と直後に自分に跳ね返ってくる系のエピソードが多かったです。懲らしめどころでないこっぴどい結末も多くて、今時の作品だったらまずこんな風に書かないよな、という、逆に斬新な魅力がありました。
福永訳「今昔物語」
平安時代末期に成立したとされる日本最大の説話集。原本では、日本に加え、インドや中国の話も多くありますが、本編では、日本を舞台とした、怪談系、人情系、滑稽系など、雑多な題材だけど、ラストを教訓系で締めるお話が多く選ばれており、色彩豊かだけどなんとなくまとまってるかな、という感じがよかったです。
町田訳「宇治拾遺物語」
町田さんのあまりにもパンクで大胆な訳に、ずっと大笑いしながら読み終えました。この楽しさを、町田さんの文体っぽく言えば、「めっさおもろいやん。笑ける」でしょうか。さすが、小説家兼パンク歌手。
鎌倉時代初期成立の物語ですが、日本昔ばなしでおなじみの「舌切り雀」や「わらしべ長者」や「こぶとりじいさん」、芥川龍之介の「鼻」や「芋粥」や「地獄変」などの題材になった、馴染みやすいエピソードの数々が、もはや町田さんのオリジナル短編集なんじゃないかと錯覚してしまうほど、実に活き活きとリライトされています。切れ味抜群のギャグマンガっぽいテイストです。かなりドスケベかつ下ネタも満載の作品ですが、一読の価値ありです。
伊藤訳「発心集」
鎌倉時代初期に「方丈記」で有名な鴨長明が記したものですが、悟りの極致にたどり着くためならどんな奇行も厭わないお坊さんたちの姿が主に描かれており、その超絶クレイジーな姿は実に興味深く、面白い作品でした。どのくらいクレイジーかっていうと、もう、「悟りを開きたいと思い詰めるその心が煩悩やん!?」て、突っ込み入れたくなるレベル。
相変わらず、編者である池澤夏樹さんの解説も示唆に富んでいて魅力的で、何重にも楽しめる作品集でした。日本中世の説話集を、ガルシア・マルケスの作品と結びつけて論じるなんて離れ技、この方しかできないと思います。 -
「日本霊異記」(伊藤比呂美訳)
訳者あとがきで、伊藤比呂美さんはこの書に惚れ込んだ理由をこう記す。「なにしろエロい。グロい。生き死にの基本に立ち戻ったような話ばかりである。しかしそこには信仰がある。今のわれわれが持て余しているような我なんてない。とても清々しい。しかも文章が素朴で直裁で、飾りなんか全くない。性や性行いについても否定もためらいも隠し立てもない。素朴で素直で単純で正直で明るく猟奇的である。」(469p)
何しろ雄略天皇のセックスをたまたま見た小姓に向かい、天皇は場を取り繕うために「雷神を連れて来い」という話もある(15p)。これが、奈良県飛鳥の里に今もある「雷の岡」の謂れだというのだから、かなり有名な話なのであるが、実際の場所の立て看には「セックス」の話は一切ない。現代って、なんてツマラナイ。
9世紀初めに成立した日本最古の仏教説話集。奈良薬師寺の僧・景戒の筆。行基の大ファン。どうやら本気で行基は菩薩の生まれ変わりと信じていたようだ。彼の信じる仏教は、普通に読めば因果応報、現世利益なのであるが、本人は現世利益とは思っていなかったのだろうな、とも思える。でも、その「俗っ気」がとっても貴重で、彼の採取した話はホントに俗世間が多い。行間に当時の庶民の飾らない本音が垣間見えてとても興味深い。子育てをほっぽらかして男と寝てばかりいて死して苦しむ母親を、成人した子供たちが許して仏を作る話がある。「でも、私たちは恨みになんて思ってやしません。そんな母でも、私たちには慈しみの母でした。」(49p)あゝ人間ってそうだろな、と思うのである。
「今昔物語」福永武彦訳
「日本霊異記」より300年後の12世紀初めに成立。欠損はあって未完成だが、天竺震旦本朝の3部構成、壮大な意図で作られたはずだが、作者の名前も意図も不明。最後に無理やり仏教説話にこじつけているので、仏教関係者のはず。しかし、内容は無常観と淫蕩か漂い、不可解さもある。芥川が世間に知らしめ古典と変えたが、この物語が芥川を作家にした面もある。霊異記と比べれば気品があり、文章の構成力も増している。福永訳の選択には、芥川の入れた七つの話は出てこない。また、谷崎潤一郎は「少将滋幹の母」、堀辰雄は「曠野」、福永は「風のかたみ」を此処から想を得て小説を書いている。実際現代でも、何処かのエンタメ小説に出てきそうな話もある。天皇の母を鬼の霊力でもって邪淫する場面は、少なからずショックである(「天狗に狂った染殿の后の話」)。安珍清姫の道成寺のタネ本も此処にあったし(「女の執念が凝って蛇となる話」)、「異端の術で瓜を盗まれる話」は、中国で有名な説話の見事な和風になっているのだが、本朝話に載っている所を見ると、作者はそのことを知らなかったのかもしれない。「高陽川の狐が滝口をだます話」は、仏教説話にさえなっていない。1度騙した青年が少し情けをかけてくれて、2度目は騙しさえしなかったのに殺されそうになった。「人を騙そうとしたために、可哀想にひどい目にあった狐である」とつい作者もまとめてみせる。この狐に当時の庶民の女の姿が見えるのは、私だけだろうか。
「宇治拾遺物語」町田康訳
13世紀成立、「宇治大納言物語」の拾遺という意味で書かれた。付け加えた話も幾つかある。かなりくだけた文体になっているのか、町田訳もかなりくだけている。「道命が和泉式部の家で経を読んだら五条の道祖神が聴きに来た」は、現代で言えば、アイドルの桜井が石原に手をつけたあとインターネットしていたら「実は海外アーチストの多くがファンなんですよ」と外国人の下衆なファンが盗撮の報告のメールをしたというような話である。確かに、嘘か真か文春のスクープネタのようで、一般大衆の我々には、そんな話は頗る楽しい。「利仁将軍が芋粥をご馳走した」は、単なる芋煮会を開催しただけのように感じるのだけど、まあいいか。「楽人である家綱と行綱が兄弟互いに騙し合った」は、現代の兄弟芸人の間でもありそうな話だ。それにしても、訳がいいのか、選択がいいのか、それとも原作が素晴らしいのか、あまりにも傑作が多すぎ。
「発心集」伊藤比呂美訳
鎌倉時代初期、鴨長明が「方丈記」(1212年)を書いた数年後に編んだとされる仏教説話集。「宇治拾遺物語」は太田光がブラウン管の中で広く世に向かい得々と毒を吐いたのだとしたら、これは又吉直樹が教育テレビの中でボソボソと心情を語っているようなものだろう。両極端な見栄えはするが、語っているのは同じ芸人だということ、人に語っているということでは同じである。
鴨長明はマイナーな番組で、マイナーな人々(僧侶たち)に語っているのだから、内容は如何にして往生を遂ぐか、に尽きる。基本的には延々と執着を捨てよ、と書く。いくら書いても書いても、易行と難行の間を往来したり、至る所俗気満々である。ところが、細部に至ると、「玄賓、大納言の妻に懸想する事。そして不浄観の事」の最終節のように、真理に至る。(437p)彼は俗世間をよく観察した。ホントは「俗世間を離れる」ことに執着するのではなく、「俗世間を記録する」ことを生業と定めるべきだったのではないか。蓋し、事さに成り難しが人生也。 -
「宇治拾遺物語」町田康訳 を読む。
今春中学生になる甥にオススメしたい。
ドリフのコント、志村けんのバカ殿、新喜劇的な情景が、脳内でどんどん再生される。あ、この内容だったら放送禁止か。 -
刊行時に町田康さんの訳による『宇治拾遺物語』が激烈に面白いとの評判を聞いていたが、手に取るまでにちょっと間が空いてしまった。
高校古文で何編かずつ習う説話集、『日本霊異記』『今昔物語』『宇治拾遺物語』『発心集』を現代作家が各自のテイストで訳していく。「こういうことがありました」だけのお話から、「こういうことになりましたから、みなさんも行いを正しくしないといけません」的な教訓話までが、今の感覚とは若干違ったストレートっぷりで迫ってくるので面白い。技巧が凝ってくると教訓が結構入ってきて面白さが若干そがれてくるなか、福永武彦訳・今昔物語の「大きな死人が浜にあがる話」が投げっぱなしのストーリーで好き。
凄まじく評価の高い町田康訳・宇治拾遺物語以外もみな面白く、それぞれの個性を楽しめる。宇治拾遺物語の中では、「小野篁の才能」はもともと好きな一編なのだが、町田訳によって、地味に面白い原文に、嵯峨帝のややポンコツな感じに由来するのかと思われるふんわりとした面白みがトッピングされていて気に入っている。それに、下男下女を「スタッフの男性/女性」と訳して、妙に軽やかな風味を加えたところも面白い。
実は町田訳よりも好きなのが、伊藤比呂美訳の日本霊異記と発心集。淡々としているけどしすぎているわけでもなく、よく練られたシンプルさと語感のよさが印象に残る。発心集は学生のころに退屈さしか残らなかった記憶があるんだけど、実は鴨長明さんのコメントの雰囲気が地味に面白い説話集なんだな。
古典は大学受験のための訳読や、大学その他での研究なら、自分で精読して正確に把握したうえで楽しむものであるのだろうと思うけれど、プロの手によって面白みを抽出されたこういう訳は必要だろうと思った。それに、福永武彦は故人だから別として、ご存命の作家さんにはすごくいいフィードバックなのだろうと思う。伊藤さんは日本霊異記の訳を以前に出していらっしゃるけど、町田さんの『ギケイキ』は明らかにそんな感じがするし(執筆の時系列は実際にはわからないけど、勝手にそんなイメージを抱いている)。 -
古典を読んで、こんなに笑ったのは初めてです。
池澤夏樹さん個人編集で刊行されている「日本文学全集」ですが、私は本書に収録されている町田康訳「宇治拾遺物語」が読みたくて図書館で借りました。
宇治拾遺物語は、鎌倉時代前期の説話集。
それを作家の町田康さんが現代語訳しています。
古典の現代語訳と云っても、そこは町田さん。
古典に特有の固さや難解さなど無縁、現代の若者言葉も取り入れつつ融通無碍な語り口で面白おかしく仕上げています。
いや、誠に滑稽で、何度も吹き出しました。
現代語訳を読んで面白かったら原文も読みたい、と思うのが人情(いや、そうか?)。
というわけで、インターネットで宇治拾遺物語の原文を見つけて、何話か拾い読みしました。
えええ?
おもろいっ!
少々手こずりましたが、原文の宇治拾遺物語も実に面白いのです。
私は町田さんがかなり意訳というか、もっと云うとかなり大胆に物語を改変しているのかと思い込んでいましたが、むしろ忠実に訳していることが分かりました。
ということは、どゆこと?
そう、宇治拾遺物語そのものが面白く、それを元々面白い町田さんが面白おかしく現代語訳しているから、稀に見る面白さのスパーク状態となっているのです。
それにしても、この宇治拾遺物語の何と低俗なこと。
男たちが不思議な力で陰茎を取られるわ、師の教えに背いて女と交接していて気付くと女が師になっているわ、お坊さんが宮中で「チ○ポ、チ○ポ」と連呼して脱糞するわ、紳士淑女にはとてもおススメできません笑。
でも、これも私たちの遠い遠い先祖の営為ないしは想像の産物。
つまり、日本人は古来、阿呆だったのです。
そう考えると、何だか肩の荷が下りるじゃないですか。
日本の心だか体だかを取り戻すと傲然と肩を怒らせる政治家たちもいますが、ぜひ宇治拾遺物語にあるような日本の伝統にも思いを致してほしいと念願して止みません。
それから、文部科学省にもこの際、提言したいです。
自分は高校時代、古典がとても苦手でしたが、全部、町田さんに現代語訳してもらえば、「古典嫌い」をかなり減らすことができるのではないでしょうか。
古典、おもろ。 -
芥川龍之介が取材し、「鼻」や「地獄変」、「芋粥」等、極限状態に置かれた人間を活写する短編に落とし込んだことで知られる宇治拾遺物語。
古語から現代語までの日本語の文章を射程に収める日本文学全集の8巻となる本書でその現代語訳を担うは——パンクロッカー町田康。穏当に済むはずがない。
私はかつて、氏の著作を一つ読んだことがある。『パンク侍、斬られて候』。
ノイズのごとく文中に湧き出すカタカナ、ふいに放たれ虚を突く屁、ラインの文面かと見紛うような軽い口調、教科書の隅に殴り書きされた棒人間さながらの安易な死、すべては時代小説の定番を茶化す小手先などではない。物語の画面をひたすら殴りつけ、歪曲させる彼の筆致に、ウッと呻いて覆いかけた読者の目に飛び込む世界の映像は、拳骨の形そのままの深々と陰影を帯びた立体としてある。プロジェクションマッピングを前に踊る人間のように、表皮に辛うじて浮かべる物語はあれど、パンク侍は斬られ斬られてなお意に介さず、こちらに食ってかかる。町田康は猛烈に血腥い作家、いや、噴き出す血が描く流動的形態そのものを生きる作家なのである。
宇治拾遺物語と対面して、町田はやはり殴りつけた。何度も、何度も。一発や二発ではなく、数十発。「目の前が…一面の荒野だ…」(寺山修司)。 -
町田康さんの『宇治拾遺物語』のみ読み終わったので、その感想を書きます。
今回、イベントで町田さんが朗読するのを生で聴いてから読めたのがよかった。聴いたのは、『奇怪な鬼に瘤を除去される』(こぶとりじいさん)だけだったけど(いや、あと一篇短いのも聴いた気もするけど、忘れた。すみません)、そのほかの物語を読むときにも、実際に体感できた息遣い、間合いみたいなものを思いだせながら読めた。町田さん、さすがロック歌手だけあって、声がいいんです!
時代ものに若者言葉や外来語を入れるのは、町田さんはこれにかぎらず、昔からやっていることで、『告白』の盆踊りで「勘違いをしたおっさんに、セッションをしかけられる」場面は、今でも思い出すたび笑いながら泣ける。だから、そういう意味で、おおーっと唸るほどの新鮮さはなかったけど、どれも面白くて満足。
個人的ベストは『滝口道則が術を習った話』。昔の人も下ネタ大好きだったんだね。
併せて収録された『日本霊異記』や『今昔物語』もおいおい読みたいです。 -
『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』の中には、こんなにもおもしろい話が載せられていたのかと、あらためて目を開かさる思いであった。確かに、ここに掲載されているような、特に性愛に関する説話の類は、中高生の古典学習の教材として取り上げるわけにはいかないであろうが、もしもこのような話が載せられているということを知ったなら、いつか読んでみようと興味を持つ?中高生もいるのではないか。
『今昔物語集』の福永武彦訳もよいが、出色は『宇治拾遺物語』の町田康訳。適度に関西弁が混じって、それがまた絶妙の味わいを出している。
著者プロフィール
池澤夏樹の作品





