天海 (人物文庫 ほ 1-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (363ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784313750487

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  • 家康のブレーンの一人。日光東照宮の造営に大きく関わったという、いわくの多い怪僧。明智光秀じゃあないと思う。


     もう一人の黒衣の宰相である崇伝に比べると、政治から一歩引いた、ちゃんと信仰を大事にした人ってイメージになる。

     天海が日光に東照宮をプロデュースしたのは、壮大な呪印を日本地図に刻むためだという胡散臭い話を聞いて伝記を読んでみた。当然そういうことは書かれていなかった。しかし、東照宮の奇跡的な配置を見ると、この天海という坊主もなかなかな狸だと思えてならない。

    _______
    p7 船木兵太郎 八歳
     天海は福島県会津高田の船木景光の子に生まれた。彼が八歳の時、御着の芦名家に恨みを持つ者の夜襲を受け、目の前で父を殺される。この経験から、幼くして出家することを心に決めた。

    p39 龍興寺
     福島県の龍興寺は慈覚大師円仁が創立したと言われる天台宗の古刹。ここが天海のホームになる。

    p62 十一歳
     沙弥隋風、天海が11歳の時に出家した時の法名。彼はここで三年間修業する。親もとに近い龍興寺では特別扱いを免れない、それを嫌って宇都宮の粉河寺(現:宝蔵寺)に出向する。17歳でそこでの修行に限界を感じ始めた隋風は、延暦寺を目指した。

    p74 落胆
     比叡山の腐敗ぶりに落胆する。聖域に侵入する俗人、特に女人までいる。僧兵が我が物顔で闊歩する。仏の教えとはなんだったのか、こんなところで自分は成長できるのか、落胆と不安にかられた。
     
    p75 悪い差別、悪い平等
     宗祖伝教大師の御言葉に、「およそ差別なきの平等は仏法に順ぜず、悪平等のゆえに。また、平等なきの差別は仏法に順ぜず、悪差別のゆえに」とある。
     長幼の所、師弟の礼、父母への敬といった自律の心のない平等はただの傲慢であり、言わずもがなの悪だが、やたらと畏まって人間関係に格差をつけてしまうのも、人は本来平等であることへの矛盾になり、悪平等である。
     礼節を弁え、それでいて無暗に他人にバリアを作らない、そういう囚われのない平等を作れという。

    p87 円仁、良源
     比叡山を開いたのは三代座主の慈覚大師:円仁である。そして中興の祖として慈恵大師:良源がいる。角大師として有名な良源は、伝説がおもしろい。

    p95 あっさり灌頂
     延暦寺では、實全という和尚のもとで修業した。二年間の修行で師の膨大な蔵書と経典を読破し、三十日回峰行も完了した。隋風は二十歳を超える前に灌頂してしまった。

    p132 日光や!
     日光は比叡山開山の二十数年前766年に最初の草庵である四本龍寺(のちの輪王寺)が建てられた。ここの開祖は下野薬師寺の勝道上人であった。その後、日光には二荒山を神体とする権現神社が建ち、空海が真言宗の寺も建立して、東国随一の霊場となっていった。慈覚大師円仁もここを訪れ、天台宗の寺を建てた。そしてその後天台を中心に統合されていった。
     鎌倉時代になると、日光山は修験道の中心地として開花した。
     實全和尚に東北で第二の延暦寺を築けとエールを送られた天海は、この日光にその未来を見た。

    p150 信長登場
     天海は信長の天下布武に疑問を持った。人はなぜ戦わなければ平和を作れないのだろう。幼いころに目の前で父の死を目の当たりにした天海は、争うことの無意味を悟り、出家を志した。天海は信長のやり方には共感できなかった。

    p204 御影
     信長の比叡山焼き討ちを、元三大師堂(四季講堂)の元さん大師御影は不穏な空気を察知した堂僧が堅田の大檀那のところへ避難していて焼失を免れた。

    p227 秀吉の下心
     秀吉は家康に関東八州を与えた。秀吉の下心には、家康が領国統治を急いで武断統治に走って、内乱によって勢力がそがれればと思っていたという。

    p233 芦名は秋田へ
     天海の出身の芦名家は関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後は秋田へ転封となった。これで天海と芦名の関係は終わった。

    p238 小早川秀秋
     関ヶ原の戦いで西軍を裏切り家康の勝利を決定づけた小早川秀秋。しかし、家康は彼に大した褒賞を与えなかった。そのため彼は不満を募らせ粗暴になった。とはいえ、そんな簡単に裏切るやつを厚遇はしない、因果応報だ。

    p251 延暦寺を救うのだ
     72歳になり、天海に復興する比叡山の立て直しを依頼された。

    p295 天海ねばる
     家康をどう神式に祀るかという話になって、初めは梵舜(家康御用達の神道家、家康が源氏姓の系図ねつ造に携わったらしい)の実家の吉田流唯一神道で日光に大明神として安置する予定だった。しかし、天海が日光に移譲するに際して、山王一実の習合神道によって大権現として祀るのが、真の遺言であると言い出した。
     家康の遺言は本田正純や崇伝が天海と一緒に聴いていたので、そんなことは言っていないと言ったが、その前に家康とサシで対談した時に言われたと食い下がった。

    p297 大権現
     豊臣秀吉は豊国神社に吉田流唯一神道で大明神として祀られた。家康も同じように祀るのは縁起が悪い、これが天海の論理だった。
     秀吉も京都や近江で結界を作ったと言われるが(豊國廟と豊国神社と西本願寺が直線に並ぶ)、徳川家はそれを壊すために豊國廟を取り壊し、東本願寺を立てて直線を分断した。そんな貶められた神:豊國大明神と同列に並べるのは良くないと。この結界破りも天海が裏で絡んでそうだが、とはいえイニシアティヴ取るためって感じだよな。

    p311 家康vs後陽成帝
     家康は秀忠の子女を天皇家に輿入れさせ、藤原家さながらの外戚になって朝廷に首輪をかけようとした。それは間違いない。後陽成帝はそれを悟って家康の一筋縄にならないように抗った。

    p320 紫衣事件
     禁中公家諸法度で、天皇家に認められていた僧侶の上人認可や色衣授与の権利をはく奪した。そして、後水尾帝によって与えられた色衣を無効、破棄させた。この所業に天海は深入りはしなかったが、不条理に重罪に処されそうになった坊主たちの減刑を求め活動した。

    p322 崇伝への酷評
     紫衣事件で世間の好評を受けた天海に対して、もう一人の宰相:金地院崇伝は「大慾山 気根院 僭上寺 悪国師」とあだ名をつられ、世間の酷評をうけた。

    p323 保科正之
     徳川秀忠は恐妻お江の方のせいで、側室をもてなかった。しかし生涯に一度だけお静という奥女中に手を出して隠し胤を残した。それが後年、会津松平家の藩主になった保科正之である。

    p331 寛永寺の延暦寺化
     天海は上野の地に比叡山と比肩する天台宗の江戸の総本山を建立することに熱中した。不忍池は比叡山の眼下に広がる琵琶湖になぞらえ、竹生島に喩えた中の島に弁財天をつくった。境内に配した清水観音堂は清水寺を模して舞台造にした。
     山号は東の比叡山である「東叡山」とし、延暦年間に作られた延暦寺と同様、寛永年間に作られた「寛永寺」と名付けた。
     こだわってる。
     
    p335 春日局
     天海が比叡山焼き討ちの際にふもとでお世話になった明智の家臣:斎藤利三の娘:福姫が回り回って秀忠の長男:竹千代の乳母になっていた。お江は乳母の福姫に反発して次男の国千代を溺愛し後継者にしようと考えていて、福姫と女の争いを繰り広げた。
     のちに大奥の春日局がこの福姫である。その福姫でもこの天海には頭が上がらなかった。権威を得て大奥で増長がみられる竹姫は天海に戒められて、こういわれた。「自分の弱みを握られている、怖い人がいることはありがたいことだ。おぼえておけ。」いい言葉だなぁ

    p342 家光の深い尊敬
     家光は両親との確執があった。両親は弟の国千代を後継者にたてようとしたし、春日局の強い影響も大きかった。そのため、家光自身は秀忠ではなく、祖父の家康に多大な関心と尊敬を持っていた。天海と面会すれば家康の話をねだった。

    p348 東照宮普請
     東照宮の普請には50万両かかることが発覚。この巨額の費用を諸藩に負担させるとなれば、いよいよ暴動になりかねない。いくら諸藩の力を削ぐための公共事業と言えども限界だった。
     そこへ、家光がすべてを徳川家が出すと漢気を見せた。この絢爛豪華な大伽藍の造営は、ただの贅沢ではなく、公共事業として民衆の経済を潤し、建築技術の向上と伝承に繋がると、賢帝らしさをだした。

    p355 家綱のため
     実は男色の気が強かった家光、跡継ぎ問題がでて、春日局も気が気でなかった。三十を過ぎてようやく夜の務めに精を出して、お振という側室を身籠らせた。
     春日局は天海に健康な男児が生まれるように祈祷を依頼した。天海は三日二夜の護摩祈祷をし、同じ日八月三日に男児が生まれた。のちの家綱である。
     すべてを出し切ったからか、寛永二十年(1643)十月二日にこの世を去った。百八歳といわれる。

    p359 天海の自演
     天海が家康を天台宗に習合される山王一実神道で祀ることをゴリ押しした。家康の遺言を自分は聞いたという自演は印象悪いが、作者がここで言いたいことはそういうものを超越した、天海の本意がどこにあるかというてんだろう。それを明らかにするため、天海の生い立ちを語り、彼の純粋に仏教に帰依する信条を描いてきた。権謀術数で政治に介入した僧侶の崇伝とは対照的な天海が、ここにきて、ここ一番でみせた政治介入それの意味するところを考察するのが、この本の命題だろう。

    p360 天海=光秀 説
     天海は明智光秀が出家して家康に仕えたという伝説もある。天海の教授の場である比叡山南光坊に「慶長十二年二月十七日 奉寄進 願主光秀」と刻まれた燈籠がある。また、光秀の木造と位牌が安置される京都の慈眼寺の名前は、天海の諡号である慈眼大師と同じである。この二点の関連性が、この伝説を熱くする。天海が死んだと死から逆算すると光秀と同じくらいの年齢になるのも奇跡的。
     本当かどうかわからないが、何らかの関わりはあるはず。これだから歴史のミステリーはおもしろい。


    ______


     この本の命題、天海が大権現にこだわった理由、私はこう考える。
     やはり、家康を自分の野望のために使ったのだと思う。彼の野望は「戦のない平和な世の創造」である。そのために幼くして出家し、厳しい修行に励んできた。しかし、崇伝はじめ、あまりに政治的な面々に祀られては、純粋な神格化にはならないと危ぶんだのだ。
     このままでは家康の魂は、後の世で簡単に政治的に利用され、新たな権力闘争を引き起こす道具として扱われかねない。そんな辱めを受けさせないよう、政治的な物とは一線を画す自分が彼の魂を守らなければならないと義憤に駆られたのだと思う。
     彼の願いが通じたのか、その後270年に続くパクス・トクガワーナが実現した。安定政権の社会では違う形の悲劇があっただろうが、とりあえず戦による理不尽な悲劇は激減した。天海のずっと後を生きる我々は、彼に学んでやはり戦争は蜂起しなくてはならない。そして、戦以外の悲劇から互いが解放できる社会を創造していかなければならない。そんな壮大な感想でした。





     家康は自分の側近のバランスをよく考えた、本当に賢い将軍だったと思う。もし、能力は高いが仁徳を二の次にする崇伝だけを側近にしていては、権謀術数に長けた者が跋扈する権力闘争の渦巻く世の中に、江戸の世は早々になっていただろう。他にも大久保長安と後藤象三郎の組み合わせなど、真逆の人選をうまく使ってバランスを取っているように感じられる。

  • 謎に包まれてる天海の一生がうまく肉付けされてて面白い。
    よくある光秀ネタじゃないのも良かった。

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