生きるということ

制作 : 佐野 哲郎 
  • 紀伊國屋書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (284ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314001816

感想・レビュー・書評

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  • 『TO HAVE OR TO BE?』
    原題のほうがやはりしっくりくる。<持つ>か<ある>か?

    産業主義社会って<持つ>ことが即ちあることであるような社会だ。ランボルギーニ持ってる人は<ランボルギーニの人>って認識されるし、品川のタワマン高層階に住んでる人はやっぱり<タワマン高層の人>って認識される。
    こういう思考が根っから備わっているから、学歴や職業も同じように<持つ>様式で語られる。

    でもみんながみんなタワマンの高層階に住めるわけではない。資源や土地や資産は有限であってみんなに行き渡るほどはないし、そこには必ず競争があり、競争が生むのは羨望や嫉妬、他人を貶めるずる賢さ……であったりする。

    <持つ>様式はエゴイズムと結びついて、人間をどんどん生きにくくさせてしまう。
    フロムは<持つ>ことと対比させ<ある>生き方を提唱する。

    テニソンは花を根から断ち切って持ち帰った。
    松尾芭蕉は花を見た。
    ゲーテは花を根っこごと持ち帰り、家の庭に植えた。

    テニソンは対象を所有することにより喜びを得た。しかし対象はそれによって死んでしまっている。
    松尾芭蕉は「見る」そのことによって喜びを感じている。
    ゲーテは彼らの中間を取り、「共にある」「共に生きる」ということに喜びを見出している。

    フロムは<ある>ことをこう説明する。
    <人が何も持つことなく、何かを持とうと渇望することもなく、喜びにあふれ、自分の能力を生産的に使用し、世界と一になる存在様式である。>


    冒頭はスリリングだが、後半にいくにつれどうすればこのラディカルな社会変革を起こせるかに主題が移っていく。宗教的な話も多く、自分の現実感覚としてはちょっとズレていくのを感じた。

    <「人びとは何をなすべきかより、自分が何であるかを考えるべきである……。かくしてなすべきことの数や種類でなく、善くあることに重点をおくように心掛けよ。あなたの仕事のよって立つ基本を、むしろ重視せよ」>

    <ある>ということは、生産的な能動性である。
    鈴木大拙
    スピノザ

  • 「生きるということ」Erich Seligmann Fromm


    なすべき道は「ある」ことである。-老子

    人が考えるべきことは「何をなすべきか」ではなく、自分が「何であるか」である。-マイスター・エックハルト

    君が「ある」ことが少なければ少ないほど、君が君の生命表現することが少なければ少ないほど、それだけ多く君は「持ち」、それだけ多く君の生命は疎外される。

    アルバート・シュバイツァー(ノーベル平和賞受賞者)
    1.全ての欲求の無制限な満足は福利をもたらすものではなく、幸福に至る道でもなく、最大限の快楽の道ですらない。
    2.自分の生活の独立した主人になるという夢は、私たちみんなが官僚制の機械の歯車となり、思考も感情も好みも、政治と産業、およびそれらが支配するマスコミによって操作されているという事実に私たちが目覚め始めた時に終わった。
    3.経済の進歩は依然として豊かな国民に限られ、豊かな国民と貧しい国民との隔たりはますます広がった。
    4.技術の進歩そのものが生態学的な危険と核戦争の危険を生み出し、そのいずれかあるいは両方が全ての文明、そして恐らくは全ての生命に終止符を打つかもしれない。

    人類の歴史は豊かな者が徹底的快楽主義を慣習とした。

    人間性がある以上、徹底的快楽主義は幸福をもたらし得ない。

    我々は不幸な人々の社会である。孤独で不安で抑うつ的で破壊的で依存的で、必死になって節約に努めている時間を、一方でつぶして喜んでいる。

    持つことへの情熱は終わることのない階級闘争をもたらす。

    貪欲と平和は相容れない。

    中世社会では、経済行動は倫理的原理によって決定されていた。価格や私有財産のような経済的範疇は、道徳神学に属した。

    18世紀以降の経済体制の発展を決定させたものは、「人間にとってためになるものはなにか?」という問いではなく、「体制の成長にとってためになるものはなにか?」であった。この食い違いを隠すために、体制の成長のためになるものは、一般の人々のためにもなると説いた。

    歴史上初めて、人類の肉体的生存が、人間の心のラディカルな変革にかかっているが、心の変革の可能性は、その機会と達成する勇気と理想を与えるような極端な経済的、社会的変革がどの程度起こるかによって決定される。

    大衆も、自分たちの私的な事柄に利己的に専念するあまり、個人的な領域を超える全ての事に対してほとんど注意を払わない。

    「ある」ことと「持つ」ことの違いは、東西の違いではなく、人を中心とした社会と、物を中心とした社会との間にある。「持つ」方向づけは西洋の産業社会以降の特徴であり、そこでは金や名声や力への貪欲が人生の支配的な主題となってしまった。

    「持つ」ことと「ある」ことに対する重点の置き方の変化は、過去2,3世紀の内に西洋の諸言語における名詞の使用が多くなり、動詞の使用が少なくなった事。

    「私は悩んでいます」ではなく、「私は問題を持っています」と言うのは、私は私自身を「問題」に変貌させ、私の創造物によって所有されているという、無意識の疎外を露呈している。

    持つ事が少なければ少ないほど、多く愛する事ができる。

    持つ事が人間存在の極めて自然な範疇であると信じている人々には、多くの言語が「持つ」にあたる言葉を持たない事を知ると驚くだろう。持つにあたる言葉は、私有財産の発達と結びついて発達する一方、財産において機能性が支配的である社会、つまり、使用するために所有する社会においてはその言葉は存在しない。

    持つ事と対照をなすもので、「生きていること」は、世界と真正に結びついている事を意味する。あることのもう一つの形は、見えることと対照をなすもので、偽りの外観とは対照的に人あるいは物の真の本性、真の現実に言及する。

    余暇に関する限り、自動車、テレビ、旅行、セックスが今日の消費主義の主たる対象であり、私たちはそれを余暇活動(能動性)と呼んでいるが、それはむしろ余暇不活動(受動性)と呼ぶ方がよい。なぜなら、消費は持つ事の一つの形態(それも産業社会にとって最も重要な)であるから。それは一瞬不安を除いてはくれるが、すぐにまたより多くを消費する事を要求する。

    現代の消費者が自分を確認する定式は、「私はある=私が持つもの及び私が消費するもの」

    「持つ」存在様式の学生は、試験に合格する為に講義を聞き、受動的にできる限り全ての言葉をノートに書き込む。しかし、その内容が彼ら自身の個々の思想体系の一部となってそれを豊かに広げる事はしない。講義の内容と学生は無縁に終わる。新しいものを生み出したり、創造せず、或る主題についての新しい思想や観念に会うと狼狽する。なぜなら、新しいものは、彼らが「持っている」決まった量の情報に疑いを挟むから。

    「ある」様式で世界と結びついている学生は、彼らなりのある種の疑問や問題を持っているので、講義の題目についても関心を持つ。彼らはノートを取らずに聞く。そして能動的に受け入れ、反応し、彼ら自身の思考過程を刺激する。そして、新しい疑問、観念、展望が頭に生まれ、講義後は新しい生命を得る。

    読み書きができない人々や、滅多に文字を書かない人々は優れた記憶力を持っている。

    「持つ」人が「持っているもの」に頼るのに対して、「ある」人は、「ある」という事実、生きているという事実、抑制を捨てて反応する勇気を持ち、新しいものを生み出す。「持っているもの」に対する不安な気がかりの為に自分を押し殺すことがないので、会話の際には大いに活気づく。彼らの活気は伝染しやすいので、しばしば相手がその自己中心性を超越する為の助けとなる。かくして会話は、商品の交換ではなくなり、誰が正しいかは問題にならない対話となる。不毛な勝利や悲しみではなく、喜びをもって別れる。

    「知る」ことは、私たちの平生の感覚的知覚の欺瞞性に気づく事から始まる。その意味は、私たちが見ている物質的現実世界の姿は真に実在するものに対応していないという事。

    たいていの人々は、半ば目覚め、半ば夢を見ており、彼らが真実で自明の理だと思う事の大部分は、彼らが住んでいる社会の暗示的な力によって生み出された幻想である事に気付いていない。「知る」ことは、その幻想から覚めること。

    結婚について、今や、互いに愛し合う代わりに、彼らは持っているもの、すなわち金、社会的地位、家庭、子供の共同所有で満足する。愛に基づいて始まった結婚が仲のよい所有形態に変貌してしまうのだが、これは二つの自己中心主義を一つの合同資本とした「家庭」という名の会社である。

    ユダヤ教のシャバット(安息日)では、人はあたかも何も持っていないかのように生活し、「ある」こと、すなわち自分の本質的な力を表現することのみを目標として追求する。つまり、祈る事、勉強する事、食べる事、飲む事、歌う事、愛の行為を行う喜びの日。財産や金が嘆きや悲しみと同じくタブーとなる日であり、最も厳格に守られた戒律。

    真の生産性の条件としての自由は、自我を捨てる事以外の何ものでもない。

    産業社会では、どうして財産を得たかは問題ではない。また、所有によって財産の所有者にいかなる義務も課せられない。

    private(私有)の語源は、ラテン語のprivare(奪う)。

    私的所有権は、自然で普遍的な範疇であると考えられているが、欧州以外の諸文化ではむしろ例外的。自分自身の働きの結果である「自己蓄積財産」や、同胞を援助する義務に限定される「限定財産」、仕事の道具、楽しみの対象からなる「機能的、個人的財産」、一つの集団が共通の絆の精神で共有する「共有財産」などが存在する。

    社会の機能を律する規範は、その構成員の性格(社会的性格)をも形づくる。

    自らの本性によって成長しようとする傾向は、全ての生き物に共通している。それゆえ、私たちは、自らの構造が決定する方法で成長するのを妨げようとするいかなる試みにも抵抗する。生きているものに対する他律的な力の使用は抵抗を引き起こす。

    人は、自律的で偽りのない欲求や関心、意志の大部分を捨てる事、そして他律的な思考と感情の社会的な型により、それらの上に押し付けられた意志と欲求と感情を選ぶ事を強いられる。教化、報酬、懲罰、適当なイデオロギーの入り組んだ過程により、いかに当人に気づかれる事なく、その人間の意志をくじく事ができるのかを上手く解決されているので、たいていの人は自分は自らの意志に従っていると信じ、その意志自体が条件づけられ、操作されている事に気づかない。

    人々をその個性を制限する事なく合一させる最上のものは、賞賛と愛を分かち合う事、思想、音楽、絵画、シンボルを分かち合う事。そして悲しみを分かち合う事。分かち合う経験は、個人間の関係に生命を与え、それを維持する。

    徹底的快楽主義者の快楽、常に新しい貪欲の満足、現代社会の快楽は、様々な程度の興奮を生み出すが、喜びはもたらさない。この喜びの欠如の為に、常に新しく常に多くの興奮的快楽を求め、苦しむ。

    社会の変革は、社会的性格の変革と相互に作用し合う事。新しい社会は、人間の心の中に根本的な変革が起こった時、新しい献身の対象が現在のそれに取って代わった時に初めて生まれる。

    たとえ社会的構造を変えても、そこから新しいエリートが生まれれば、彼らが古い社会の諸条件を再生する。

    個人の純粋な精神変革は、常に個人的な領域にとどまり、その影響は小さなオアシスに限定される。また、精神的な価値の説教と、その反対の価値の実践が結びつく時には、それは全くの無力である。

    動物界の生物学的進化において、人類の定義は、進化の途中で、本能による行動決定の度合いが最低となり、脳の新皮質の発達が最高となった時に出現した霊長類。

    多くの人は自分の全ての概念が自分の周りに受け入れられた準拠枠に基づいている事に気付いていないので、総体として根本的に違った人生観に直面すると、それを「キチガイじみている」とか「非合理的」とか「子供じみている」と判断し、自分は全く「論理的である」と考える。この準拠枠への根深い要求は、精神年齢に依拠する。

    ローマ時代、殉教者の特徴は、あること、与えること、分かち合う事であり、英雄の特徴は、持つ事、搾取する事、強制する事。異教の英雄の形成は、母親中心の社会に対する家父長制の勝利に関連している。

    指導者たちはより多くを得る為に、人よりもより強欲である事が多かったが、この征服し、勝ちたいという望みが過去も現在も社会的性格の一部でなければ、彼らも計画を実現する事はできなかったであろう。

    キリスト教の背後に起こった産業宗教は、人々を経済や彼ら自身の手で造る機構のしもべとし、新しい社会的性格に基礎を置いた。
    この性格は個人主義と自由を促進し、利己心と相互対立により人間の連帯、絆を消滅させた。

    歴史の目的は、人間が知恵と神の知識の研究に専念できるようにする事であり、力でも贅沢でもない。

    現在の文化的、社会的構造は破局へ向かって突き進んでおり、そこから生まれるのは昔よりはるかに大規模なルネサンス。絶滅を望まないのであれば、新しい信条と態度によって自己革新をしなければならない。

    新しい人間の資質
    ・十全に「ある」為にあらゆる「持つ」形態を進んで放棄しようとする意志。
    ・安心感、同一性の感覚、自信。それらの基礎は自分の「ある」姿であり、結びつき、関心、愛、周りの世界との連帯への要求であり、世界を所有し、支配し、ひいては自分の所有物の奴隷になろうとする欲求ではない。
    ・自分の外のいかなる人間も物も人生に意味を与えることはなく、このラディカルな独立と物に執着しないことが、思いやりと分かち合いに専心する最も十全な能動性の条件になりうるという事実を容認する。
    ・自分が今あるところに十全に存在すること。
    ・貯蓄し、搾取することからでなく、与え分かち合うことから来る喜び。
    ・生命のあらゆる現れへの愛と尊敬。それは物や力や全ての死せるものでなく、生命とその成長に関係する全てのものが神聖であるという知識の中に見られる。
    ・偶像を崇拝する事なく、幻想を抱く事なく生きる。幻想を必要としていない。
    ・愛の能力を批判的で感傷的でない思考の能力とともに発達させること。
    ・人間存在に内在する悲劇的限界を容認する。
    ・自己および同胞の十全の成長を生の至高の目的とする。
    ・この目的に到達する為には修練と現実の尊重が必要である事を知る。
    ・自分の知らない自己をも知っていること。
    ・自分が全ての生命と一体である事を知り、自然を理解し、自然と協力する。
    ・目的に到達する野心を持たない。その野心も貪欲の形態である事を知る。
    ・どこまで到達できるかは運命に委ねて、常に成長する生の過程に幸福を見出す。生の歓喜を味わいながら生きる事は、自分が何を達成するかしないかなどと懸念する機会をほとんど与えないほどの幸福をもたらす。

    夢見るユートピアンではなく、目覚めたユートピアンたれ。

    物質的利益ではなく、精神的幸福が効果的な動機付けとなるような労働条件や、全体的な風潮を作り出す事。

    最大限の快楽の追求ではなく、福利と喜びを味わう事のできる条件を創り出す事。

    我々は技術的ユートピア実現の為に費やしたのと同じだけの精力、知性、熱意を人間的ユートピア実現の為に費やす時がきた。

    中世後期の文化が栄えたのは人々が神の都の理想を追い求めたから。これからは、中世後期世界の精神的核心と、ルネサンス以来の合理的思考と科学の発達をインクルージョンさせた「あることの都」を創る時代。

  • 現代は to have or to be。
    持つことにこだわる生き方と、自分らしく「ある」ことにこだわる生き方の2つがあり、人はより持つことからあることにこだわる生き方をすべきではないかというお話。

  • その大半を『持つ』ことと、『ある』事について述べられている。この本は何気なく接している社会概念、常識を覆すに値すると思う。
    人は一般的には、欲しいものを入手した喜び以上に、持っていないものを欲しくなる欲望が強く、それはキリがない事である。それを追求する事は、それを持っている人への羨望、嫉妬を生み、本当の幸せは得られない。(私たちが<喜びなき快楽>の世界に生きている。)
    所謂、仏教における煩悩を排する事で、それらの欲望に縛られることなく生きられるのだと。初版が1977年となっているが、すでに、現在の資本主義社会の限界、社会状況を見切っている着眼点が凄い。

    ・消費の物質的な増大は必ずしも福利の増大を意味しないこと、性格学的、精神的な変革が、必要な社会的変革に伴わなければならないこと、天然資源の浪費と、人間生存のための生態学的条件の破壊とをやめなければ、百年以内に破局が起こることが予想される。...、『限りない成長は限りある世界にはそぐわない』
    (第七章 宗教、性格、社会)

    ・私たちの教育は一般的に、人びとが知識を所有として持つように訓練することに努め、その知識は彼らがのちに持つであろう財産あるいは社会的威信の量とだいたい比例する。
    (第二章⑥知識を持つことと知ること)

    ・<愛>とは抽象概念であり、...、実際には、愛するという行為のみが存在する。...、人びとが愛と呼ぶものは、たいていが彼らが愛していないという現実を隠すための言葉の誤用である。
    (第二章⑧愛すること)

    ・子供の成長過程および児童期以後の人間の成長過程に対する他律的な妨害は、精神的病理、とくに破壊性の最も深い根源である。
    (第四章 持つこと――力――反抗)

  • 一人ひとりの人間としての成熟が必要。依存から抜け出し、考える能力を身につけないと、「持つこと」が幸福と思ってしまうが、本当の幸福はえられない。理性の成長が必要。

    1.この本を一言で表すと?
    ・生きるということを「持つこと」そして「あること」の二つのモードから捕らえている

    2.よかった点を3〜5つ
    ・学習すること
    「持つ」学生は、授業の内容を聞き、書きとめ、それを自分の知識の一部として保有する。
    対して、「ある」学生は、授業の前に予習をして、その授業について、自分なりの考えや問題点を考えて出席する。その授業に対して能動的に受け入れ、新たな疑問や展望が生まれる。ただ、知識を取得するのでなく、学生が動かされ、変化したのである。

    ・安心と不安
    持つことは、あらゆるものを物質的に持つことになる、お金、職業、家族、生命保険などなど。しかし、持つことは自分以外のものにたよっている。持っているものを失ったらどうなるのか?不安をかかえながら生きていくことになる。ある様式では、そのような不安とは無縁である。


    2.参考にならなかった所(つっこみ所)
    ・第三編は、資本主義の否定?

    3.実践してみようとおもうこと
    ・とくになし

    4.みんなで議論したいこと
    ・社会の経済構造を「在ること」の様式に生きる人間を最大限にサポートできる形に変えることができるのか?

    5.全体の感想・その他
    ・とても難解な本です。深い理解はできませんでした。
    目指すべき姿はある程度理解しましたが、それは非現実的にも感じました。

  • 登録番号:22

  • なかなか難解。内容というよりも、今回も訳によって
    さらに意味をとることが困難になっているような
    気がします。
    エイリッヒフロムは、『愛するということ』『悪について』
    に続き3作目。今回も難解ではありましたが、興味深い
    内容でした。
    『持つこと』と『あること』の2つの人間存在の様式
    についての考察と、その善悪について。そこから
    資本主義と社会主義の双方に対する批判。決して
    社会主義を称賛するのではなく、マルクスは
    一定の評価を行うが、社会主義はマルクスから
    大きく離れて、持つ様式の最たるものと位置付ける。
    宗教の問題。キリスト。イスラム。ユダヤ。仏陀。
    東洋思想と仏陀の涅槃。悟りと『持つ様式』と
    『ある様式』についての論評。
    などなど、面白い切り口の内容が多く
    論述されてあります。
    1960年から70年代において、これらの論評を
    行うことを考えれば、なかなか興味深い人だったのでは
    ないかと思います。
    ただし、後半の『ある様式』の人間社会をつくるための
    提言については少し、疑問に思うところもあります。

  • そつろん

  • 持つこと、と、あることの2つの人間本性の様式の対比の中で、真の人間性の確立と現代資本社会への鋭い批判を込めたフロムの名著。仏陀キリストやマルクス、フロイト、エックハルトら先人の本質的な思想と、フロムの言う「あること」についての主張を絡み合わせているが、その中でシュヴァイツァーが人間の労働時間を減らしてその過酷な労働から忌避させるための消費や依存行動を減じるべきだ、と述べているという箇所があって目から鱗だった。シュヴァイツァーの著書も読んでみたくなった。

  • 示唆に富む。
    表題を掲げた目的的な行動、労働、仕事は人間の疎外を産む。
    それは短期的に見れば技術や能力の向上、
    それに伴う仕事の成果をもたらすのかもしれない。
    しかしもろ刃の剣とはまさにこのこと、
    能動性に不可欠な、
    動力の発生源である情緒の働きを弱らせることとなる。
    目的も所有、理想も所有、
    必要なのはその都度の行動が「目的」となっており、
    今確かな成長をこの心に刻みこめる状態にあることである。
    社会変革と言う名を掲げて行動をしてはならぬ。
    それが例え「善的」に見えることばであっても、
    それは神が望む「それ」ではなく、
    あくまで自分の主観により形成された「思考」に過ぎぬ故。
    思考の行きつく先は欲望とイメージの肥大。
    どんなものをも所有してはならない。
    必要なのは自分が世界と確かにつながっているという「ある」という確信のみ。
    「働きたい」すらも、いらない。観念はいらない。行動があるだけ。

    ●以下引用

    「仏陀は人間の発達の最高段階に到達するためには所有を渇望してはならないと教える。」

    「イエスは教える。たとえ全世界を得ようとも、自分を失い、自分を損するならば、何の益があろうか」

    「あること。人が何も持つことなく、何かを持とうという渇望することもなく、喜びにあふれ、自分の能力を生産的に使用し、世界と一となる存在様式。」

    「ゲーテのファウストは、あることと持つこととの間の葛藤の劇的な記述。私は知っている、何ものも私のものではなく ただ私の魂から妨げるものなく流れ出る 思想のみがあることを そして愛に満ちた運命が 心底から私に楽しませてくれる すべてのありがたい瞬間のみがあることを」

    「この疎外の過程において人間は愛を経験することをやめ、<愛>という女神に屈服することによってのみ、自己の愛する能力との接触を保つ。彼は能動的で感じる人物であることをやめ、その代わりとしての偶像の疎外された崇拝者となった」

    「私はあなたに対して大きな愛を持つと言うのは無意味である。愛は持つことができる物ではなく、一つの過程であり、人が主体となる内的能動性である」

    「多くの言語が「持つ」にあたる言語を持たないと知ることは、一つの驚きであろう。それは間接的な形で表現されなければならない」

    「持つ存在様式においては、世界に対する私の関係は所有し占有する関係であって、私が自分自身をも含むすべての人、すべての物を私の財産とすることを欲するという関係」

    「関心と言う言葉。ラテン語の語源では、<中にあるいは間にある>に含まれている」

    「読み書きの能力は決して宣伝されているほどありがたいものではなく、まして経験や想像する能力を貧困にする」

    ●p59「会話において、あらかじめ何の準備もせず、どのようなささえもしないで事態に臨む人々である。彼らはその代わりに、自発的、生産的に反応する。彼らは自分についても、自分の持つ知識や地位についても忘れてしまう。彼らは自我を妨げられることはない。ある人物はあるという事実、生きている、そして捨てて反応する勇気がありさえすれば、何か新しいものが生まれるという事実にたよる」

    「自明の理だと想うことの大部分は、彼らが住んでいる社会の暗示的な力によって生み出されている」

    「私たちの教育は一般的に、人々が知識を所有して持つように訓練することに努め」

    ●「ある様式での信念は、まず第一に、或る観念を信じることではなくて、一つの内的方向付けであり、態度である。人が信念を持つというよりも、人が信念の中にあると言う方がいいだろう」

    ●「実を言えば、<愛>というようなものはない。「愛」とは抽象概念であり、おそらくは女神であり、異邦人である。実際には愛するという行為のみがある」

    「愛が生産的な能動性である以上、人は愛の中にいること、あるいは愛の中を歩むことができるだけで、愛に陥ることはない」

    「なんじに持てるものを捨てよ。すべての足かせからなんじ自身を解放せよ」

    「シャバットの役割。それは肉体的あるいは精神的に努力をしないという意味での、休息それ自体ではない。それは人間と人間との間、および人間と自然との間に完全な調和を回復するという意味での休息。」

    「シャバットには、人はあたかも何も持ってはいないかのように生活し、あること、すなわち自分の本質的な力を表現することのみを目標として追求する、すなわち祈ること、勉強すること、食べること、飲むこと、歌うこと、愛の行為を行なうこと。それは喜びの日である。十全に自分自身となるからだ。」

    「あること、分かち合うこと、そして連帯の倫理」

    「人は神の意志を行なうことすら欲してはならない。それもまた渇望の一形態であるから。何も欲することのない人物とは、何ものにも貪欲でないじ人物である。非執着」

    「すべてのものが、何でもが、渇望の対象となりうる。日常生活で使う物、財産、儀礼、善行、知識、思想」

    「能動性の現代的な意味は、能動性と単なる忙しさとを区別しない。しかし、この二つの間には根本的な相違があって、それは能動性に関連した<疎外された>と<疎外されない>という用語に対応している。疎外された能動性においては、私は能動性の行動主体としての自分を経験しない。むしろ私の能動性の結果を経験する。しかも<向こう>にある何ものかとして、私から切り離され、私の上に、また私に対立して存在するものとして。疎外された能動性においては、私はほんとうに働き掛けはしない。私は外的あるいは内的な力によって働きかけられるのである。」

    「疎外された能動性の最も適切な症例は、脅迫=強制症状の人物である。自分の意思に反して何か、たとえば歩数を数えたり。」

    「疎外されない能動性においては、私は能動性の主体としての私自身を経験する。疎外されない能動性は、何かを生み出す過程であり、何かを生産してその生産物との結びつきを保つ過程」

    ●「単なる忙しさの意味での疎外された能動性は、実は生産性の意味においては、受動性である。一方、忙しくはないという意味での受動性は、疎外されない能動性であるかもしれない」

    「最高の形の実践、すなわち能動性は、真理の追求に専心する観照的生活である」

    「主として金や所有や名声への貪欲にかりたてられる人物は正常でよく産業社会に順応している。そして彼らは根本的に病んでいると見なされる。彼らはいわゆる正常な能動性にはほとんど順応していないので、ノイローゼぎみではないかとさえ思われる」

    「外観、すなわち私の顕在的行動は、私を動機づける真の力と極端に矛盾することがある。私の行動は私の性格と異なっている。」

    「人間には両方の傾向が存在することを指摘しているようである。一方は持つ、所有する。他方は分かち合い、与え、犠牲を払う」

    「持つことを中心とする人物は、自分の好きな人物、あるいは賞賛する人物を持つことを望む。それゆえそれぞれが、自分の相手をやはり<持つ>ことを望む人々に嫉妬する」

    「金持ちになったり、有名になったりするためには、個人は忙しいという意味で覆いに能動的にならなければならない。それは【内なる誕生】の意味においてではない。目的を達成した時、彼らはわくわくし、強烈な満足を覚え、絶頂に達したと考える。しかしいかなる絶頂なのか。おそらく興奮の、満足の、恍惚状態あるいは狂乱状態の絶頂」

    「このような情熱は、人間のより大きな成長と力をもたらすのではなく、反対に人間を不具にする。徹底的快楽主義者の快楽、常に新しい貪欲の満足、現代社会にの快楽は、さまざまな程度の興奮を生み出す。しかしそれは喜びをもたらさない。じっさい喜びの欠如のために、常に新しく常に多くの興奮的快楽を求めることが、必要となる」

    「喜びは、自分自身になるという目的に近づく過程において、私たちが経験する者なのである」

    ●「ある様式は、今ここにのみ存在する。持つ様式はただ時の中にのみ、すなわち、過去、現在、未来の中に存在する」

    「過去を再創造し、よみがえらせることができる。このようにするかぎり、過去は過去であることをやめる。それは今ここである」

    「成功はいかにして自分のパーソナリティを売りつけるかに大きく左右される。人は自分を商品として、というよりは、同時に売り手でもあり、売られる商品でもあるとして、経験する」

    「市場的性格は自分にも他人にも何ら愛着を持っていないので、彼らは言葉の深い意味での思いやりというものを持たない」

    ●「頭脳による操作的思考の至上権に伴って、情緒的生活は委縮する。情緒的生活は促進されることもなく、必要とされることもなく、むしろ最適度の機能を妨げる。その結果として市場的性格は情緒的な問題に関するかぎり、奇妙に単純である。」

    ●「疎外された人間。この性格の人物は仕事から、自分自身から、ほかの人間から、自然から、疎外されている。精神医学の用語でなら、市場的人物は分裂病質の性格と呼ぶことができるであろう」

    ●「目的は、かのそれ自身を目的とする人間的な力の発達であり、真の自由の領域。」

    「それ自身の目的としての人間的な力の発達。」

    「全世界は主を知ることにのみ専念するだろう」

    「人間の務めは世間的なことがらから遠く離れた、精神的な自己中心主義の雰囲気の中に引きこもることではなく、能動的な生活を贈って社会の精神的完成に寄与するようにつとめること/シュバイツァー」

    「産業努力を特徴づけるものとして、過剰努力をあげる。人間としてではなく、働く者としてのみ生きてきた」

    「人間社会と世界とが、産業化した生活の慣習によって衰えている。」

    「愛の能力を、批判的で感傷的でない思考の能力とともに発達させること」

    「自己および同胞の十全の成長を、生の至高の目的とすること」

    「きままではなく、自分自身になる可能性としての自由。貪欲な欲求のかたまりとしてではなく、いつ何どきでも成長と衰退、生と死との選択を迫られる微妙な均衡を保つ構造としての自由」

    「野心もまた貪欲の形態であり、持つ形態である」

    「どこまで到達できるかは運命にゆだねて、常に成長する生の過程に幸福を見出すこと」

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著者プロフィール

エーリッヒ・フロム (Erich From)
1900年ドイツ・フランクフルト生まれ。フロイト理論にマルクスやヴェーバーを接合して精神分析に社会的視点をもたらし、いわゆる「新フロイト派」の代表的存在とされた。また、真に人間的な生活を可能にする社会的条件を終生にわたって追求したヒューマニストとしても有名である。しだいに、禅や東洋思想へも関心を深めた。
著書に、『愛するということ』『悪について』『生きるということ』『フロイトを超えて』『希望の革命』『反抗と自由』『人生と愛』『破壊』(以上、紀伊國屋書店)ほか多数。1980年歿。

「2016年 『ワイマールからヒトラーへ〈新装版〉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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