愛するということ 新訳版

  • 紀伊國屋書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314005586

感想・レビュー・書評

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  • 「コテコテの機能付き冷房が効いた部屋で、横になりながら一冊の本について考え、使い方によっては孤独を埋めてくれるスマホをイジる」という贅沢な日常の中にいては、時代・言語・生活習慣などが自分と異なる筆者の価値観に、どれだけ寄り添えているのか分からないけれども、「愛」という壮大なテーマに関して、自分の理想像もしくは人々への勧めとして、自身の考え方を世に表明する筆者に、尊敬の念です。
    どうしても愛を求めてしまう自分が嫌で、それを改善しようと努力し思考して導いた理想像を実現するべく、世に本という形で実現を宣言した。一方で、その宣言の中には、世に承認されたいと思う自分がいて、結局「愛されたい」という人間の本質的な部分は変わらないのか、という筆者の自覚もあった。だからこそ題名に、‘art’と付け、できるだけ生来の人間の性質に上書きする形で、愛を求めるよりも相手を愛す努力をすべきだ、というメッセージを示唆したのでは、という気がしました。
    時代が違えど、食べて飲んで寝て笑う同じ人間の気持ちが、はっきり分からないというのは、とても不思議だなと感じます。
    そう考えると、愛するために必要不可欠なのは、「相手を知ること」なのかなと、個人的には解釈しています。

  • 「愛は技術である」「The art of loving 」という出だしがまず印象的で、後半では、現代資本主義によって、消費生産活動のみに従事する大衆が人間的な豊かさを失っていることを指摘するとともに、人間の人を愛するという本性的な営みと社会的生活が一体化するような社会システムが必要とされると主張ししている。

    結局今の社会では、集団/慣習/信仰に基づいた同調意識によって、人間の根本的な、孤立を克服したいという欲求に応えようとしているものの、仕事/娯楽の内容も画一的で、本質的な人間同士の一体感という満足を得ることができない。

    それの大きな原因は資本主義的なシステムにあり、人間ではなく経済発展にスポットが当たっており、人間のロボット化が進んでいるからだ。

    最後に、愛とは、自分の生命の息吹ー知識、喜び、興味、ユーモア、理解ーを与えることであるとともに、世界全体に対して、自分がどう関わるのが決定する態度および性格の方向性のことである。

    自分自身の生産的な観察と思考に基づいた、他の一切から独立した確信を持って生きる態度というのは、映画スターや著名人のように決して称賛され模倣されることはないが、ポスト資本主義時代においては必要な考え方ではないだろうか。

    この本が50年以上前に書かれていて、今なお通じるところが多いことには素直に驚いた。

    面白い本貸してくれた友達には感謝やな

    • さおりさん
      阪急でthe art of lovingの方を読んでる人がいて話しかけたかった、が、やめた
      阪急でthe art of lovingの方を読んでる人がいて話しかけたかった、が、やめた
      2019/05/21
    • egueguさん
      なかなか話しかけるのは難しいですよね。知ってる人ならともかく…!
      なかなか話しかけるのは難しいですよね。知ってる人ならともかく…!
      2019/05/24
  • 頭の中を言語化されているようで、読んでる間終始不思議な気分だった。怖いような、ムカつくような。

    愛は美しいものじゃない、ほんとは痛みも苦しみも伴うものだとずっと感じてきてたのに、あっさり言語化されちゃった。

    わかってくれる人に出会ったことないけれど、これがわたしの愛の真実。

  • 愛されたいばかりで、愛したいという気持ちが少ないから恋愛がうまくいかないのでは?という動機から読み始めました。

    結果的に、わたしは自分を愛していると思っていましたが、フロム的解釈ではそれは思い込みであり、全く愛せていなかったのだと認める結果となりました。。。残念、もう何年も自分を愛そうと努力してきたつもりなのですが...(努力が間違ってるのか、忍耐の時期なのか...。)

    はじめ、「愛は技術」という説明文にやった!練習すれば私も人を愛することができるんだ!と希望に満ちて読み進めました。が、まずは宗教の話で気持が遠のき、さらに実践方法でハードルの高さに途方にくれました。ちょっと仏教の修行に似てるような気もします。

    そして、寂しがり屋のわたしには悲しい内容でもありました。ひとりでいるのもいいけど、人といるのも幸せなんだけどな〜そんなに好んで孤独と仲良くしなきゃいけないのかしら?

  • 名著とは思いません。色々突っ込みどころ満載で、イライラしたり吐き気を催したり「許さんぞ!」とキレたくなったりというのが私は読んでいて割とあった本でした。

    もっといい本があるような気がします。
    より正確に言うならば、この本を日本語で読むよりも、もっと日本の現状にフィットした「愛するということ」について語られた本を読んだ方がいいように思います。
    というかそもそも、日本で「愛」がどう捉えられているかを考え直すことの方が一番大事であって、こういう本は「へぇー、フロムさんとこの国の文化ではそう考えるのねー」程度に留めておけばいいように思えてなりません。

    散々なことを言いましたが、結局、
    「英語圏じゃないかつキリスト教徒じゃない自分が読んでどこまで分かる話だろうか、これ?」
    というのがこの本を読んでの正直な感想です。

    そのくらいゴリッゴリの欧米人向け、キリスト教徒向けです。だって、p.77の兄弟愛の話とかもろキリスト教の「隣人愛」の話ですよ。その意味での“brother”ですからね。「お兄ちゃんやお姉ちゃんを敬いましょうね。弟や妹には優しくしましょう大事にしましょうね」なんてことは書いてない訳です。「私のいう兄弟愛とは、あらゆる他人にたいする」(p.77)愛だと、しかもすぐ後に「「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という聖書の句が言っているのは、この種の愛のことである」(同頁)とバッチリ書いてありますでしょうが。

    そういうイライラがある。この本には。
    まず、
    ①宗教の違いからくる実感のかけ離れ具合
    ですね。これはさっき言いました。加えて、
    ②訳語というか翻訳の問題
    もあると思います。鈴木晶さんが非常に努力して翻訳なさったということは勿論認めます。ただ、初っ端の第1章のタイトル「愛は技術か」からもうイライラします。「「技術」てアンタ……“art”でしょ?! “technique”でも“technology”でもないわけじゃないですか?!(怒)」とツッコミたい欲がムクムク湧いてしまいます。もっといい訳語ないんかと。難しいところなのは分かりますけれどね。
    ただやっぱり一番抵抗感を覚えるのは、
    ③ジェンダー観が堅苦しい、古い
    これに尽きます。まず、人と人が愛するとはどういうことなのかについて書いた本で「同性愛という逸脱は、この両極の合一の達成の失敗である。だから同性愛者は、解消されない孤立の苦しみを味わう」(p.58)とホモフォビアをかましたことを私は絶対に許しません。他の議論も、異性愛中心主義のキリスト教道徳から一歩も出ることのない典型的な愛に関する議論に終始しています。母性愛だ父性愛だ、母性原理だ父性原理だと書き立てる感じも好きになれません。

    何というか、要するに言ってることは結局、
    「愛のあるセックスが大事やで! 愛があったら一つになれるしな!」
    とか、
    「自分を愛せる人にならな、どうして人のこと愛せんの?」
    とか、
    「ワガママはあかん! 何でも欲しがりはダメ! 与えてこそ愛や!」
    とか、
    「人を愛せるようになるにはな、まず規則正しい生活をすることや! あと、しょーもない事にかまけんと、集中して自分を見つめることが大事やねん! 今を生きる事に全力集中するんやで! ほんでな、あと大事なのは人の話はちゃんと聞くこと! ええか! お前のことやで!!!……」
    とかいう話を、なるべく下世話な言葉を使わずに語っているんだなフロムさんは……程度のことしか、この本から汲み取ることは難しいんじゃないか我々日本人にとっては。そう思えてならないのです。

    本当はもっと難しい“art”について書いてある本のはずなんだけど。それこそ、人間にとっての永遠の課題と言ってもいいような。

  • 文化的素地や宗教観、時代背景を由来とする議論においては多少のわかりにくさはあるものの
    全体を通して平易な言葉で書かれているので“意味を拾うだけなら”そんなに難しくはありません。でも実践しようと思うとなかなかに難しい。

    フロムも言うように
    「愛」という言葉は一瞬私たちを惑わせるというか…
    実態があやふやであるが故に
    「人を好きになったことがあるから、
     私は愛が何かもわかるし、人の愛し方も知っている」
    とどうしても思い込んでしまう。
    本当にそうだろうか?
    友達を作れば、恋をすれば、会社員になれば、親になれば、
    私たちは「愛」を知るのだろうか?
    誰にも教わらずに「愛する方法」を習得できるのだろうか?
    そんなに本能的なものなのだろうか?

    まったくもって個人的な解釈だけれども
    フロムの言う「愛」を「コミュニケーション」と捉えると
    結構合点がいきます。
    言葉を習得しました、人と会話ができました、
    ハイこれで私は人とコミュニケーションがとれました。……。
    確かに
    それもコミュニケーションの一種かもしれないけれども
    それで充分なのか?って話。

    相手の言葉を聴き
    相手のことを知り
    相手の様子を観察し
    相手を思いやりながら
    「こんにちは。元気?」
    って言葉を交わしていく。
    今、私は
    自分の言葉を使っただろうか
    自分のことを充分に知らせただろうか
    自分を偽らなかっただろうか
    そんなことも省みながら
    コミュニケーションを取る。
    簡単かもしれない。けれども
    どれだけの人がその「簡単」を実行しているだろうか。

    人付き合いが難しい、と思う場面に出くわすのなら
    それはコミュニケーションの取り方、すなわち
    「愛し方」を完璧には習得できていない、ということ。
    これに関しては、なかなか合格点を出せる人は少ないんじゃないかなぁ~~??

  • 親しい大学教員に勧められてから、ようやく読むことができた。本書は「自由からの逃走」で有名なフロムによって、タイトルの通り「愛することとは何か」ということを理論的に探究した1冊である。

    まず驚きなのは、読み始めて早々、フロムは「愛とはある日突然「落ちる」ような受動的なものではなく、能動的な技術なのである」と断言することである。これは確かに現代人の多くの認識とは異なっている。

    この前提に立った上でフロムは「愛する」ということを多面的に分析する。そもそも「愛」とはいわゆる異性に対してのそれだけではなく、兄弟、親子、ひいては隣人にまで及ぶ概念であり、これは人間が孤立したくないという最も強い欲求によって突き動かされるものであると言う。また、これは概念として思考して理解できるものではなく、あくまでも「愛の行為」によってそれを体得できるものであるとする。

    そして愛の根幹にあるものは、意志であり、決して受動的なものではない。日々の習練によって体得できるものであり、これが現在では見過ごされている真実である、と。

    また、議論は現在の資本主義社会が、いかに「愛」に対する認識をつくりあげているのか、その結果としてなぜ上記のような認識の差異が生まれるのかという部分にまで拡張される。フロム曰く、資本主義とはいわば交換のシステムであり、労働、モノ、金などの交換に慣れた現代人は、「愛」に対しても交換を求めるようになっている。つまり、本来「愛」とは、能動的な挑戦であり、自分を信じるように他人を信じるという「与える」という行為にも関わらず、現代人は「自分がこれだけしたから、相手もそれに見合うことをしてくれるはずだ」という交換の原理で理解している。確かにこれは納得感のある主張であり、このようなマクロ的視点を取り入れた考察に優れていたからこそ、フロイトの思想にウェーバーの議論を重ね合わせた、新フロイト派の代表として現代にまで読み継がれているのだろう。

    結局のところ、書物の中にも書いてある通り、「愛する」ということは人によって千差万別のものであり、個々人がそれに向き合うしかない。しかし、だからといって個別具体的なものと割り切り、盲目的に「愛」を捉える多くの人々に対して、理論的考察に基づく一種の観点を提示したのが、本書の挑戦であろう。

    確かに本書の中で議論されていることは個別具体的な事象全てに当てはまる処方箋ではないのかもしれない。しかし、まさに「行為」として愛を体得するためには、重要な一つの拠り所となるのではないか。年齢を重ねるにつれ、何度も読み返したい1冊である。

    ==========
    特に印象に残ったのは以下の文章。

    「愛は本質的には、意志にもとづいた行為であるべきだ。すなわち、自分の全人生を相手の全人生に賭けようとする決断の行為であるべきだ。(p.90)」

    「もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。(p.96)」

    「思考はただ、思考によって究極の答えを知ることはできない、ということを人に教えるだけだ。思考の世界は逆説に囚われたままである。結局のところ、世界を知るただ一つの方法は、思考ではなく、行為、すなわち一体感の経験である。(p.118-119)」

    「実際、集中できるということは、一人きりでじっとしていられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。(p.167)」

    「愛の技術の習練には、「信じる」ことの習練が必要なのである。(p.180)」

    「つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。(p.189-190)」

  • 名著であると思う。今まで読んだ本の中でも
    最高ランクに値するくらいのいい本だと思います。
    少し、難解な部分もありますが、久しぶりにひとつの
    本を繰り返して何度か同じ部分を読み理解し進めて
    いけば理解できる、というかそういうふうに読みた
    くなる本だと思います。
    愛は技術であり、能力である。よってそれを得るには
    習練が必要であり、論理が必要である。
    愛することの基盤は、内的能動、つまり自分の力を
    生産的に用いることである。愛は能動である。
    そのほかすばらしい文書。言葉がたくさんある。
    何度も読んでみたい本です。
    周りの方々へ、これを機に、今から私が愛について
    滔々と論じはじめても温かくみまもってください。

  • (p.176)
    ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によって作り上げたイメージと区別する能力である。

    (p.179)
     他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求とを区別できるようにならなければならない。

    (p.183)
     他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。

  • いつか読もうと思っていた本。

    愛することは与えること。
    一人を通してすべての人を、世界を自分自身を愛すること。
    そのためには技術を磨くこと。
    規律、忍耐、集中、信念。

    それは自分自身を人間的に高めていくこと。

    力強い言葉がたくさん詰まっています。
    帯の谷川俊太郎さんの言うように、年を重ねて読むとまた感じ方が変わるでしょうか。

    その時まで大切に書棚にしまっておきます。

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著者プロフィール

ドイツの社会心理学者、精神分析家。1900年、フランクフルト生まれ。ユダヤ教正教派の両親のもとに育ち、ハイデルベルク大学で社会学、心理学、哲学を学ぶ。ナチスが政権を掌握した後、スイス・ジュネーブに移り、1934年にはアメリカへ移住。1941年に発表した代表作『自由からの逃走』は、いまや社会学の古典として長く読まれ続けている。その後も『愛するということ』(1956年)、『悪について』(1964年)などを次々と刊行する。1980年、80歳の誕生日を目前にスイス・ムラルトの自宅で死去。

「2022年 『今を生きる思想 エーリッヒ・フロム 孤独を恐れず自由に生きる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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