社会学的想像力

著者 :
制作 : Charles Wright Mills  鈴木 広 
  • 紀伊國屋書店
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本棚登録 : 65
レビュー : 5
  • Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314007030

作品紹介・あらすじ

本書は、現代アメリカ社会学で異彩を放ち、ラディカル社会学の先駆をなしたミルズの代表作のひとつである。マルクスとウェーバー、フロイトとミードを綜合するという社会学理論の構想に集中していたミルズは、本書において社会学の主要な潮流の徹底批判とともにたくましい構想力でもって、これからの社会学のあり方を追求する。

感想・レビュー・書評

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  • 身の回りで起こる諸問題と社会構造との関係性を読み解く力(社会学的想像力)の大切さを教えてくれた本です。
    社会学的想像力とは何なのか、その欠如がどのような問題を生み出すのか、私たちはどう振る舞うべきなのか、そんなことを考えさせてくれます。

  •  社会学は何をすべきか、という問題を考えるにあたってミルズは社会学とは社会科学な個人生活史と歴史、および社会構造内におけるそれらの相互浸透を考察の対象とするということを念頭に置いて、50年代から60年代にかけてのパーソンズ批判の文脈に則った形で社会学の潮流を批判する。 抽象化された経験主義によってなされた研究では、「彼ら自身」が関心をもっている実質的な問題を研究しなかった、とか彼らは大部分の社会学者が重視している問題を研究していない、ということ述べるにとどまらず、彼らの勝手に「科学的方法」だと信奉している一つの科学哲学によって奇妙にも自己閉鎖的に制限された枠のなかでしか自分の問題を提起し解明することができず、問題選択や問題設定が厳しく制限された方法論的禁制に陥っていた。 新しい実用主義は社会学者の位置をアカデミックな位置から官僚的な位置に変化させることを、改革者のグループから政策決定グループを相手にする傾向、自分自身で選択した問題から新しい顧客の問題に、学者自体が知的に剛直でなくなり官僚的実際家になり現在の状況を一般的に受け入れることによって管理担当者たちが当面するだろうと思っている大小様々な問題のなかから問題を取り出そうとし、彼らが絶えずイライラとしてモラルのない労働者や人間処理関係を理解しない経営者を研究し、マスコミ産業や広告会社の営利目的や企業目的に丹念に奉仕するようになることを批判した。  
     社会学の混乱は「科学」の性質を巡る長期的論争と深く関係し、「科学的経験主義」という意味内容に関して自明とされる一つの解釈が存在しないことを根拠に、全く異なった探求のモデルとして職人の意味が認識されてよいとする。社会学のなかにいくつかの研究スタイルが存在することを認めると多くの研究者達は、それらを統合すべきだと考える。社会科学の研究にとってそうした研究がなんらかの有効性があることが疑われるわけではない。実際それを意識することによって私達は概念の構成や研究の手続きに関してますます意識的になりそれを研ぎ澄ますことができるようになるが、それはあくまでも一般的な性質のものにとどまらざるを得ないため、社会学者はそのようなモデルを過度に深刻にとる必要はむしろないと主張する。 ミルズは「社会科学」の名のもとに探求すべき問題を制限することは単なる奇妙な臆病としか思われないと述べる。
     社会学的想像力を所有しているものは巨大な歴史的状況が、多様な諸個人の内面的生活にとってどんな意味をもっているかを理解することができる。社会学的想像力をもつことによって、いかにして諸個人がその混乱した日常経験のなかで、自分たちの社会的な位置をしばしば誤って意識するかに、考慮を払うことができるようになる。日常生活のこの混乱のなかでのみ、近代社会の構造を探求することができ、またその構造の内部でさまざまな人間の心理が解明される。このような方法によって、人それぞれの個人的な不安が明確な問題として認識され、また公衆の無関心も公共的な問題との関連のなかに設定されるようになる。社会学的な問題設定とは常に私達と世界との接点に考察対象が存在する故に、方法論のための方法論に陥ることなく私自身の実存的な問題について思いを馳せ続けなくてはならない。古典的社会科学観は私達が常日頃生活していくなかでの疑問を社会や歴史の中に位置づけることに関して非常に示唆的であるといえよう。

  • この本は社会学ばかりでなく、学問するうえで結構必要なエートスを体現している本です。

    エートスというのは、私なりの解釈だと、「態度」みたいなものと考えてもらえるとよいのではないかと思います。

    ミルズはいろいろとこの本の中で述べているのですが、なかでも読んでほしいのは第1章の約束という章ですね。彼はそのなかで、社会学的想像力という考え方を提唱しています。

    ここで彼が述べているのは、社会学的想像力は「われわれ自身の身近な現実を、全体の社会的現象とのつながりの中で理解することを、もっとも劇的に約束する精神の資質である」(P.20)ということです。

    たとえば、昨今の就職活動を見るとよくわかる。今の就職活動は非常に厳しい。それは企業の業績が悪く、新卒の採用を控えている、もしくは縮小しているからです。

    でも、よくよく考えると新卒ががんがん採用される時期もある。なぜこのような違いが生まれているのだろうか。

    この違いを生み出すもの、それは社会構造です。ここでの社会構造というのは、経済状況だったり、法律体系であったり、私たちが生きているうえであまり変化しない関係性の束が寄せ集まったものとでも考えてもらえばいいです。

    ミルズの考え方を応用すると、学生が就活で苦しんでいるという状況は、日本社会における企業が今までの新卒一括採用という採用システムがうまく機能していないのに無理にそれを使っているために起こっているのです。

    これを読んで、「当たり前やん」と思う人も多いと思いますが、ミルズのいうエートスを持っているということですね。

    で、そこからが本番です。
    では、なぜこのような新卒一括採用という日本独自のシステムは作りだされたのでしょうか。

    会社の業績が悪い時に、非正規社員の人々はすぐに解雇され、新卒者の内定取り消しなどが起きるにもかかわらず、なぜ正社員の人々は解雇されにくいのでしょうか。

    なぜ「大卒」が一括採用されるのでしょうか。「高卒」ではなぜ駄目なんでしょうか。「中卒」は?

    時代によって新卒者の雇用なりやすさが異なってしまうことはよくないことではないのか。
    もう少し、形式ばった言い方をすると、採用の配分が年次世代によって異なることは正義にかなうことなのか。

    というような疑問を発することがこの状況を変えることにつながるのではないでしょうか。

    ミルズが社会学的想像力という考え方はこのような個人と社会との関係性の認識とその関係性への疑問を持つことの大切さを示唆してるのではないかと思います。

  • 法政大学の学問を変える。大学まで来て学校で勉強することを選んだ志士達が集う、多摩初の読書会。その記念すべき一冊目の課題文献である。
    学問への基本的姿勢を問うた本である。俗に言う「教科書に書いてあることなんか役に立たんよ」ということに対する考察を示した教科書。産業化する科学に対して痛烈な批判を浴びせ、科学と言うものの正体を浮き彫りにしていく。その上で、学問とはなんぞやという事を問い、社会への批判として結ぶ。
    ユーモア交じりの痛快な批判は落語を聞くよう。結構笑えたりする。批判の対象に名前を付けて整理するのは、ミルズの思考、世界観だろうか。律義さと大胆さをかねそなえた(たぶん)社会学者の問答は現代人の「無関心」を貫き、「社会学的想像力(社会の構造的理解とでも呼ぼうか)」を呼びさまし、孤高の連帯へとさそう。
    孤高フェチ、反権威フェチ、要するに目立ちたがり屋の僕をこれでもかというほどくすぐる一冊だった。ミルズが生きていたら、間違えなく、サインを貰いに海を渡っていたはずだが、それは権威主義的反応によるものではないことを断わっておく。
    だから批判してみよう。時代だろうか、エリートのエリートのためのエリートによる啓蒙といった感じが否めない。権力に対する批判も、結局のところ権力作用に還元される。彼の社会のとらえ方は「一部の人間が全ての権力を掌握してしまっている。我々が権力に批判的でなくては、いつか大衆がみんな官僚化されて『1984』みたいな世界が到来する」という危機感が根底にあるのだが、まったく極端なものの見方と言える。本当にそんな世界が成立するのなら、よっぽど頭がいいのか、そうでなかったら実はもうとっくになっているのか、どれかである。
    人間はどんなに従順になっても、言われたことを完全にこなすほど賢くはなれない。従順になっていたつもりが、知らずにそれと反する行動を取っていたりもする。そもそもそんなことが可能な権力組織が有るのなら、冷戦なんか起こっていなかったはずである。
    権力にとってむしろ厄介なのは「社会学的想像力」を全く持ち合わせない人間であったりするのではないか。エリートには予想もつかないような行動をとる人間の及ぼすインパクトである。前に観たソ連の映画には、共産党体制下でどんなに規制されても、やはり人間的な無秩序を抑えきれない人間の姿があった。それはソ連を崩壊に導く要因にもなったのだ。その権力を崩壊させたものはいわゆる「自由と理性」と呼ぶにはさほど遠いものである。それを超えた「野生」だろうか。そして複雑なことには、そんな人間が秩序を求めて権力を承認するのである。秩序とは常に、その矛盾のイタチごっこによって成り立つのではないか。
    これについて教員と話す機会が有ったのだが、彼はミルズの考察を「ジャンプ的」と評した。まさに!当時はナチス的国家再来への恐怖心から、ミルズのような言説が評価を得ていたのだという。
    ミルズ批判に向けて問うべきことは、あの大戦期のドイツは「ナチス」のみによって作られたのだろうかということだ。「ナチス」は諸要因の中の小さなひとつにすぎなかったのではないか。権力と言うものがどのように作られ、権力と「呼ぶべき」ものとなり、どのように支配力を有するのかという大きな問いである。
    ―と、批判することもミルズの「自由と理性」による批判精神にのっとることなのであるが。ミルズはどこまで本気で「ジャンプ的」世界を想定していたのであろうか。それは自らの政治的スタンスを確保するという正義にのっとったものなのであろうか。文書の向こう側に生々しさを感じる。

  • やすやすと受け入れるな。疑問を持て。そのために資質を持て、ファイルを作れ。

    今後の勉強に活かしますよ。

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