ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

  • 紀伊國屋書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314011600

作品紹介・あらすじ

ドキュメンタリー映画「ゲッベルスと私」が、2018年6月16日(土)より岩波ホールほか全国劇場にて順次公開(岩波ホール創立50周年記念作品)!

ハンナ・アーレントのいう”悪の凡庸さ”と”無思想性”は、アイヒマンよりもむしろポムゼルにこそあてはまる――

「なにも知らなかった。私に罪はない」
ヒトラーの右腕としてナチ体制を牽引したヨーゼフ・ゲッベルスの103歳の元秘書が、69年の時をへて当時を回想する。
ゲッベルスの秘書だったブルンヒルデ・ポムゼル。ヒトラーの権力掌握からまもなくナチ党員となったが、それは国営放送局での職を得るための手段にすぎなかった。ポムゼルは、「政治には無関心だった」と語り、ナチスの所業への関与を否定し、一貫して「私はなにも知らなかった」と主張する。
解説を執筆したジャーナリストは、このような一般市民の無関心にこそ危うさがあると、ナショナリズムとポピュリズムが台頭する現代社会へ警鐘を鳴らす。
子ども時代から始まるポムゼルの回想は、30時間におよぶインタビューをもとに書き起こされ、全体主義下のドイツを生きた人々の姿を浮かびあがらせる。

書籍版では、映画では語られなかった事実も明かされている。

20か国以上で刊行が決まっている注目のノンフィクション

「ヒトラーの時代がまたどこかで、かつてとまったく同じように繰り返されることはないだろう。だが民主主義体制の下でも、主権者である国民が、ポムゼルのように世の中の動きに無頓着で、権力の動きに目を向けず、自分の仕事や出世、身の回りのことばかりに気をとられていれば、為政者は易々と恣意的な政治、自分本位の政治を行うだろう。それに批判的精神を失ったメディアが追随すれば、民主主義はチェックとバランスの機能を失い、果てしなく劣化していく。これは、他でもない現在の日本で起きていることである」
――東京大学大学院教授 石田勇治

感想・レビュー・書評

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  • 先日の『祖父はアーモン・ゲート』に続き。
    本書と同名のドキュメンタリー映画(2016)も製作されており、その情報はTwitterに流れてきた関係で知った。

    繰り返される「あの頃は無頓着だった」「知らなかった」発言。彼女のことを傍観者と取る人もいるかもしれない。
    でも誰が彼女を咎められる?自分では何の思想も持っていない。祖国が世界から孤立する中で関心があるのは自分や家族の生活だけ。後は周囲の流れに沿ってしまえば忽ちこうなる。咎めるのではなくそう認めなきゃいけない。

    「私たち自身がみな、巨大な強制収容所の中にいたのよ」

    第一次世界大戦で国中が疲弊していてもポムゼルさん一家みたいに余裕のある人達はいた。今から見れば随分ささくれ立った家風だが、子供達に「お金がない」と言って聞かせる教育にはまだ同調できた。

    そして暗黒面を殆ど目にしないまま、深い意味も持たずに入党。それでも国営放送局時代がどこよりも眩しかった。ありえない程の優遇もしかり、本物の働く喜びを目一杯満喫している。
    これじゃ自分の世界しか見えないはず。周りの死イコール前線に派遣された職場のジャーナリスト達というのがそれをよく表している。

    副題に秘書とあるが厳密には速記タイピスト。そして実際は宣伝省の事務員みたいな業務で事件性の高い重要案件に携わる、或いはその関係の書類を見ることすら出来なかったという。おまけにゲッベルスとは数える程しか言葉を交わしていない。それでも彼の人間性は充分な程伝わってきた。(極め付けは演説の場面…)

    インタビューが終わっても、何も言わずその場を後にすることしか出来なかった。ショックだとか心を掻き乱されたとか感覚が一切残らず、只々放心状態。こういう人間から乗っ取られていくのだろうな。
    どこへ向かっているのか自問する日々が訪れると今は予感している。

  • とても考えさせられました。ヒトラーの右腕としてナチ体制を牽引したゲッベルスの元秘書ポムゼルさんの独白。すべてを正直に語っていないと評されていますが、それが人間というもの。「なにも知らなかった。私に罪はない」という主張も、賛同とはいわずとも共感しました。「人間はその時点では深く考えない。無関心で目先のことしか考えない。」そのとおりだと思いました。念頭にあるのは自分の利益ばかりで、それ以外のことにはご都合主義をとってしまう。人間は、少なくとも個人はそんなに強くありません。では、どうすれば・・・?ひとつの解として、こうした歴史に学んで同じ轍を踏まないようにする、ということがあると思いました。人間の、自分たちの在り方について考える機会を与えてくれる、貴重な一冊です

  • 彩瀬まるさんが紹介していたので読んでみた。

    ゲッベルスの下で秘書官や書記を務めていた女性ポムゼルは言う。


    私は何が行われているか本当に知らなかった。
    だから、私には罪はない。
    罪があるとしたらヒトラーを選んだ全員にある。


    筆者には、言い訳だとか陳腐だとか、割と酷い言われ方をするポムゼル。
    彼女の言う〝知らなかった〟は、きっと〝知ってはいたけど、知ろうとはしなかった〟でもある。

    「生きていること、命こそ何より尊い」と言う。
    ポムゼルが、真実を知ろうとし、それを糾弾したところで、待っていたものは粛清の死だったはずだ。
    その背後に、未曾有のジェノサイドが起きていたとして、私はどの地点に立てば、彼女に「命を投げ出してでも、ホロコーストに立ち向かうべきだった」と言えるだろう。

    話は逸れるが、不特定多数の正義の声は、どの地点からどの地点に向けて投げられているのだろう、と最近よく考える。

    「たとえば環境保護プロジェクト賛成、あるいは集約的畜産反対といった意見の表明は任意であり、署名した人がなんらかの義務を課されることはない。オンライン請願のような活動は、「ちょっとだけ参加してみよう」というこの世代の感覚に合っているものの、快楽主義的な消費行動の一種にすぎないと言えよう。」

    「不公平だと感じると、人は反射的にスケープゴートを探したくなり、手軽ですぐに結果が出る答えを渇望するものらしい。それは生存本能のようなものなので、コントロールがむずかしい。」

    ポムゼルを、悪によって富を得た者であり、今やマイノリティと見なし、正しい力で排除しようという構図はただの繰り返しでしかないと分かる。

    そして、その構図はすぐそこに口を開けていることも。

    ひと一人の失態に、姿を見せない大観衆がオンラインで糾弾し、署名活動をする。
    ある人は真面目に、ある人はノリで、ある人はそんな誰かに付き添う形で。

    グローバリズムは、視野を広げた格差を維持するだけの機能に成り果てているのかもしれない。
    そこに、均質性は不要である。
    あくまで差異は、自分の今の生活と精神的安寧を成り立たせるためだけに存在する。

    だから、日本は平和で安全で倫理的と言える。
    だから、私は世界で起きていることなど無関心で、ニュース以上のことを知ろうとはしない。

    そして、知らないのだから、私には罪はない。

    ……やっぱり、私にはかけるべき言葉も地点も見つからない。でも、ポムゼルには語る言葉と地点がある。
    それが、この本の意味のような気がする。

  • 第二次世界大戦末期、ドイツ宣伝相ゲッベルスの部下として働いていた著者の回想録です。
    筋金入りの党員ではなく、政治や社会に無関心だった若者の視点で当時を語ります。
    個人的な事柄以外への関心の無さにおいて、海外よりも日本人に通じる心境ではないかと思えました。
    必要以上に関わらないでいたら社会が激変していた…、これは著者に責任があるのでしょうか。
    自分には責任が全くないことを堂々と発言しています。
    激動の時代を生きた一庶民の気持ちが綴られた一冊。

  • ナチスの中枢で働いた秘書の回顧を通して、当時の大衆の政治的無関心や個人主義の影響が、ファシズムの台頭にいかに影響したかが語られている。

    さらに今日の政治的無関心や諦観が、1930年代の状況をなぞる様に、ポピュリズムの台頭を許しており、民主主義の崩壊の危険性を指摘している。

    民主主義の崩壊を防ぐためには、個人主義に陥るのではなく、マイノリティの救済をはじめ、真に連帯された社会を目指すべく、個々人が政治参加を試みる必要性が語られている。

    一方で、昨今はさまざまな技術やサービスの高度化や、個人情報意識の高まりにより、連帯することのメリットが薄れているようにも感じられる。

    そのような情勢の中、個人としてどのように社会とかかわっていくべきなのか、非常に考えさせられる。

    自信がポムゼルと同じ立場だった時、真実に目を向けるだけの勇気があるのか、一庶民としては複雑な気分にさせられる内容だった。

  • 全体的に「身近で恐ろしいことが起きていたのに、何も知ろうとせず、自分は無関係で罪はないと言っているなんてけしからん」というトーンだけど、果たしてそうだろうか。寧ろポムゼルの方が普通というか一般的な行動のように思う。
    例えばクラスでいじめがあったとして、多くの人は見て見ぬ振りをする。それもイジメに加担していると言われるが、自分がイジメられるかもというリスクを犯してまでその人を助けられる人はなかなかいないのではないか。
    同様に、ナチスのユダヤ人迫害も、今日明日自分が生きるのに精一杯な状況で、ユダヤ人のために立ち上がることは難しかったのではないか。誤解を恐れずに言えば「自分でなくて良かった」という優越感や選民意識も存在していたはず。当時のドイツ人が悪いのではなく、人間というのはそういう生き物のように思う。

    とは言え、ホロコーストを肯定してはならない。歴史が繰り返されないためにはどうしたら良いか。本書に示されているような「政治に関心を持ち、行動すること」に尽きるけど、実際行動に移すのは難しい。自国第一主義の風潮でかなり怪しい雲行きの昨今、私達が本気で取り組まなければならない課題に思う。
    そして、結局私も問題提起に終始する訳で、ほらやっぱり、私達の多くはポムゼルと同じ人種なのだと思う。

  • 現代社会において“政治的無関心”は罪に相当するのか?

    ナチスドイツの重鎮の一人だったゲッベルスの下で秘書として働いていていたブルンヒルデ・ポムゼン。彼女は、自身の生活を少しでも上をいく暮らしを目指し、ナチ宣伝省で働き続けた。戦後明らかになるユダヤ人浄化、その具体的な内容は知らず、あるいは知ろうとせず、あくまで自身の生活、人生を基準に。

    戦後彼女は戦犯として収監され、またおそらくその後も、もとナチスとして非難される人生を送ったものと思われる。しかし、戦中の彼女は決して熱心なナチ党員ではなく、前述の通り自分の人生、生活をまず基準として働き、政治とは一線を画していた。上司からの命令は、(彼女が知らなかった)非人道的なことにまつわる出来事の補佐、としてでなく、自身が「一生懸命仕事をする」ためのものに過ぎなかった。

    タイトルからは、かのゲッベルスと彼女が、非常に密接につながっていたような連想をさせるが(なのでこの邦題はあまり良くないと感じるのだが)、実際は雲の上の上司、接する機会は何度かあったようだが、ほぼ直接に話しかけられた経験はない。「熱心なナチの指導的政治家」以上の存在ではなかった、しかし戦後にユダヤ人殲滅のための彼の具体的な働きを、ポムゼルは知ることになる。その時に彼女はゲッベルスを断罪するわけだが、しかし自身に関しては、「一生懸命に働いていただけ」、かつ当時の状況からはそれを拒否することは到底かなわなかった、ゆえに彼女自身には罪はないことを暗に主張しているといえる。

    現在のポピュリズムの台頭と、当時のナチス政権との状況を重ね合わせ、編者のハンゼンは警告を発している。政治的無関心というものが、次第に社会の情勢を歪ませる方向へと導き、気が付いた時にはポムゼンのようにいつの間にか情勢に取り込まれ、意図するしないに関わらず罪に相当する出来事の一端を担う(担わされている)構図ができあがるだろう、ということ。

    それを防ぐためにどうしたらいいのか、具体的には自分には見えない。例えば「投票に行こう」なんて言っても、今の日本政治の状況から選挙で何か変わるかとも期待できない。それでも「何とかなるだろう」「そんなに悪くはならないはずだ」と傍観しているだけではいけないのだな、なんてことを感じました。

  • 読むかどうか、ずっと迷っていたけど、雪で外出出来ないので読む事にした。

    ゲッベルスの秘書の語りと言うよりも、ナチ側の大多数の時代に飲まれた弱き大衆による語りだった。

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    私たちはただ、規定された筋書き通りに考え、新聞やラジオの伝える通り思考していただけだった。

    ゲッベルスについて私が言えるのは、彼は卓越した俳優だった、それだけよ。
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    我々は総力戦に突入するぞ!の演説に、熱狂しながら「ヤー!」と騒ぎ立てている大衆、けれど彼らはゲッベルスが何を言っているのか、理解していなかった。恐ろしいけど、それがいつも真実なんだろう。

    ユダヤの人々の事にもあまり触れられない。
    だって「知らなかった」から。

  • ポムゼルの語りをほぼ喋ったままを書いているのか、ちょっとまどろっこしいのだが、それがかえって生々しい。
    宣伝局で俳優を見たとか、家具が素敵だったとか、無邪気に語っていたりする。そして「何も知らなかった」「仕方なかった」という言葉が何度も何度も出てくる。

    70年前の記憶にしてはとても鮮明だと思うが、執筆者の記述によると、思い違いや故意にあるいは無意識に語られていない部分もあったりするらしい。

    昨今の世界情勢との類似点を挙げたのち現代人への警告として、歴史的な反省と情報テクノロジーの発達を考えれば、ポムゼルの時代のように「知らなかった」では済まされないぞというメッセージが強く込められていた。

  • 2021/10/12 読了

    読んでいて悲しくなってしまった。
    そしてそれと共に、現代社会に対して恐怖を覚えた。

    以下はあくまで私の主観である。
    この告白をした人はただ純粋に上司の命令に従い、勤務を全うしていただけだった。

    例えば、あなたは今の仕事が誰かを多少不幸にする必要のある仕事だとして、すぐにその仕事を辞められるだろうか?明日からの生活はどうなる?
    そういった不安から働き続けていた。

    さらに、この経験と自身の折り合いをつけるために70年間ほどかかった。語ったのは70年後だから。そんな彼女の人生がただ悲しかった…

    今、現代は当時と同様に「断絶」が始まっていると感じる。
    当時のドイツでは「ユダヤ人」が断絶対象であったが、今は「移民」や「難民」になっていないか?

    自分が不幸なことを第三者のせいにすれば、自己肯定感を損なわずに生きていられる。だがそれは争いの始まりだ。

    難しいが、人々が今の自分に満足をし、自分の不幸を他人のせいにしないで辛くても前向きに生きる、それが平和な世界への一歩ではないだろうか。

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著者プロフィール

【著者】 ブルンヒルデ・ポムゼル (Brunhilde Pomsel)
1911年生まれ。1933年にナチ党員になり、ベルリン国営放送局で秘書として働く。1942年に国民啓蒙宣伝省に移り、ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書の一人として終戦までの3年間勤務。総統地下壕の隣にある宣伝省の防空壕で終戦を迎えてソ連軍に捕えられ、その後5年間、複数の特別収容所(旧ブーヘンヴァルト強制収容所など)に抑留。解放後はドイツ公共放送連盟ARDで60歳まで勤務。2017年1月27日、国際ホロコースト記念日に106歳で死去。

「2018年 『ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ブルンヒルデ・ポムゼルの作品

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