- Amazon.co.jp ・本 (311ページ)
- / ISBN・EAN: 9784326101467
作品紹介・あらすじ
無政府市場社会の可能性と望ましさに関する大胆な思考実験。予備知識など一切不要、「考えようとする意欲」をかきたてられる、リバタリアニズムの現代の古典。
感想・レビュー・書評
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リバタリアニズムを突き詰めた結果としての「無政府資本主義」の思考実験。面白い。セコムは準暴力装置だと思った。
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この本は、ロスバードやアイン・ランドに対する歯に衣着せぬ攻撃が面白くなく不愉快。
これには「自由の倫理学」第四部で、ロスバードがハイエクやらノージックやらを切りまくった痛快さが足りない。
なぜ足りないのか?
いや、足りているのかもしれないが、ウィットに富んだ文章なのかもしれないが、ロスバードファンの私には響かない。
[P214]
なるほど確かに隣の家にレーザー光線を照射するのが侵害なら、我が家に明かりを点ける事さえも侵害になるのではなかろうか?
そこに恣意的線引き(少量は侵害に当たらない)をしていしまうと、折角のリバタリアンとしての単純ルールが台無しになる。
これは確かに難問のように思う。
が、そういう些末な内容に答える必要があるだろうか?
そのような事例はコモン・ローで積み重ねていけば済む話で、このロジックで自然権がおびやかされるとは思わない。
[P219]
血迷った男がマシンガンを乱射しようとしている時に、『彼を阻止出来る唯一の方法は、群衆のうちの何人かの私有財産のライフルを奪い彼を狙撃する事』
という前提で論を進めていく。
結果が分かっているならこれはフリードマンの言う通りだろう。彼は喧嘩が上手い。
だがなぜ唯一の方法をリバタリアンが知り得るのか?
そのような極限の未来を予見した設定がどうにもおかしいのだ。
完全経済人のような前提を置くことがいかにもシカゴ派らしいといえばそうだけど。
だが実際我々はいつも未来のぼやけた場所に立ち、常にそこから行為する。
これに対して、例えばロスバードの提示する例は、
トルストイ=ガンジー主義者の非暴力の主張に対して、
『その主張を突き詰めると、いかなる犯罪者も罰することはできない』
という反論を行う。
これは未来予見できる完全経済人の話ではなく、倫理である。
フリードマンが、『あらゆる他者の財産を侵さないならば、何も出来ない』と主張した事とたしかに似ているが、
自然権というものは、侵さない事を突き詰めるのではなく、自然権がある事を突き詰めるものだと言う事。
人は常に侵す。
それは認めて、だからこそレッセフェールに備わっている調整能力が、フリー判事などを生み出し、平和裏に解決したんじゃないだろうかな?
だから非暴力を突き詰める事と、自然権を「侵さない」ことを突き詰めるのは違うのではないかと思われる。