- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784326101498
作品紹介・あらすじ
「現象する」ことをめぐる明晰でしなやかな思弁。心の哲学、精神病理、プラクシス、芸術等に関わらせ紡ぐ、哲学の原風景。
感想・レビュー・書評
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以下引用
私たちの意識の起源をその身体へと降下してゆことによって探り、語る思考の底に、すでに暗黙の内に世界と接触し、それを経験している「沈黙の思考」があることを突き止め、「語る思考」と「沈黙の思考」との関係を提示した
沈黙の思考から、いかにして語る思考が出現してくるのか、沈黙を破る言葉のはたらきとは何か。そもそもいかなる意味でも言葉と無縁の思考など可能なのか、を解明すること。解明しなければならないもの、それは言葉以前の存在の内に言葉を導きいれるところのあの転倒
わたしたちが語るまさにそのときに、思考もまた姿をあらわすということ。つまり表現の活動は、軽率に言われているように、思考と言語との間で営まれているのではなく、思考する語り、と語る思考との間で営まれている。
わたしたちが何事かを語りだす、そのことがあらゆる表現のもっとも基本的にして根本的な出来事
読書の場合、あたかも書物の中の言葉が自ら語りだし、私たちの中に飛び込んでくるようになる。表現の瞬間とは、関係が逆転し、本が読者を所有する瞬間。、、、、どこでの中心をなす出来事は、何事かが言葉としてみずからを実現するこのはたらき
★★生きた精神がそれを目覚めさせに赴かない限り、化石化した意味、沈黙した意味、潜在的ないし眠れる意味にとどまる
私たちが芸術作品に心底感動したとき、すなわち作品の受容において自身の存在の根底から揺り動かされたとき、その体験の実相は何か、自分自身よりも大きなものに、つまり自身が受容できるもの以上の者に、とうの自分がすっぽりいと包み込まれ、運び去られてしまったかのような様相をていしている
受容してるはずの自分自身が、むしろその作品の中へと吸い込まれてゆくような思い。自分がうけいれているはずのものに、逆に完全に包摂され、受容されてしまった
享受とは、色や音を受け取る誰かの主観的状態ではなく、むしろ色そのものがきらめき、音それ自身が響き渡ることそのことと
受容における受けてであるはずの私たちは、色や音たちのこの自己受容の中でまさしくおのれを喪失しており、すなわち脱自。もはや享受の主体として立つことができない。そこにおいて享受しているのは、みずからをあらわにした色や音たちの方
表現において表現されているものは、先の例でいえば、個々の色や音であり、さらには形態や匂い、あるいは特定の感情が表現の客体になることもある
世界がおのれを色として、音として、感情として、数として、思想として、表現にもたらし、このことをとおして、おのれに目覚めるのである
世界の自己へのこの覚醒がそこにおいて生ずる場所を提供しているのが、通常の意味で受け手である私たち自身。世界はこうして自己覚醒の場である私たちのもとで、実に多様な仕方で自己に目覚める
★あきらかにわたしは思考の対象とすることのできないものに対峙している
いまだ何ものも現象していないが、そこに亀裂が入り、分割線が引かれることで何者かが現象するにいたるこの次元に、潜勢態という名を与えることは許されるだろう。これは時間的ー空間的広がりを押し開く力に満ちているが、それにもかかわらず、それ自体はいまだ何ものでもないもの、すなわち充満する空とでもいうべきもの。
力の内部に、その充満のあまりに乱れが錯乱が生じた。この錯乱が力に対して、潜在態としてのおのれの在り方の破棄を命じた。この破棄において、いまや何者かが現象している。これが先にいう、亀裂という事態であることは言うまでもない。
ここであらためて注目したいのは、力の充満である空n亀裂をもたらす隙間は、それが力自身の過剰の中から生れ出たものであるにもかかわらず、もはや力ではないということ
★★力の内に現象の場所を押し開く隙間は、もはや力ではない。それは力の内から生じたものでありながら、もはや力ではない。このときはじめてそれは、我部に接しているのではないか。それ自身はもはや力ではない隙間とは、力の外部の反映ではないか。力というある連続体の内に、外部が何らかの仕方で接触することによって、あるいは力が外部へとあふれ出ることによって、そこに分割の切断線が走り、かくして何ものかが、現象する新たな次元が、新たな場所が開かれたのである。しかし、この超越は、いったい力の内部から生じたのか、それとも力の外部から到来したのか。
→うちは結局ここを扱いたい。この「外部」との接触という瞬間事態を、扱いたい。
超越において、そのまま自己のもとに安らっていてもよかったはずの現象しない次元に生じたある<亀裂>である。なにものかが現象するとは、自己同一的なものの出現としての分節化であった。この亀裂の中で見えるのは、この亀裂の結果としての自己同一的なもの、つまり現象するものの方であり、亀裂の方は現象する「自己同一的なもの」の上にいわばかすかにその「痕跡」をのこるのみである。
★★だがこの亀裂こそが、現象しない次元から現象する次元への移行という決定的な事態の端緒を開く突破口をなしている。
→この亀裂をつくるという仕事をうちはしていたい
いまだ何ものも現象していないが、そこに亀裂が入り、分割線が引かれることで何者かが現象するに至る次元。=充満する空:潜在勢の内に、顕在へと赴こうとする力があるが、しかしそれ自体ではまだ何ものでもないもの。これを顕在へと、すなわち現象の秩序へとおのれを乗り越えるためには、すなわち超越が生起するには、この力の充満の内に亀裂が入らなければならない。
潜勢態と顕在態の間にはある決定的な溝があり、現象するものは、この溝を乗り越えることによって、すなわち飛躍を遂げることによって、何ものかとしてみずからを確立するにいたる。この溝を隔てた向こうのある顕在態へのこの飛躍を、本書では充溢と呼んだ
潜勢態なものから、顕在態への移行においての非連続
★★それはそれ自体ではいまだ何ものでもなかった。すなわち充満する空である。ここに現象への飛躍をもたらすものがあるとすれば、それは力の内部で生じた、衝突、交錯以外にはない。力の内部での力同士のこの衝突は、充満した力の内に何らかの仕方である隙間を生む。充満のうちに生じたこの隙間を介してはじめて、力同士は、交錯する。そこに力ならざるものは生まれ、これを突破口にして、潜在態としてのおのれを破棄する。力の内部に、その充満のあまりに乱れが、錯乱が生じる。この破棄において、いまや何者かが現象している。これが先に言う、亀裂という事態。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
前著『思考の臨界』(勁草書房)で展開された思索を引き継ぎ、西田幾多郎やハイゼンベルクの議論も参照しながら、「現象すること」を徹底的に問い抜こうとする試み。「現象すること」からいっさいが始まるという事態に迫る。著者の立場は、「現象すること」について徹底的に考えることは必然的に「現象しないこと」について語ることを要求すると考えているのだと思われる。また、その思考はけっして現象の背後に回り込むことではなく、「現象すること」そのものの現場に目を凝らすことだとも述べられている。ただ個人的には、「現象学的」と呼ぶには議論が思弁的にすぎると感じてしまった。
私たちの現実においてはいつでも、何ものかは何ものかとして、つまり経験の対象として姿を現わしてしまっている。端的に「存在」するだけで「現象」する必要などまったくなかったにも関わらず、すべては経験の対象として「現象」してしまっているのである。著者はこの事態を解きほぐしてゆく。
まず、何ものかが現象しているということは、それに居合わせている「私」がいるということにほかならない。すべては、ただ存在するのではなく、「私」に味わわれ、「享受」されている。次に、何ものかが何ものかとして、つまり「自己同一的なもの」として現象するとは、どのようなことなのかと著者は問う。すべては時間の流れの中で現象するが、ひとときもとどまらずたえず流れ去ってゆく時間の中では、「自己同一的なもの」が成立しえないはずだ。何ものかが現象するということは、流れゆくものを一瞬押しとどめて自己自身を「反復」することによって初めて可能になる。こうした事態を、著者はフッサールの「生き生きした現在」のアポリアとそれを引き継いだデリダの「差延」の考えを援用しつつ考察している。
こうして、「流れ」が一瞬押しとどめられることで、初めて何ものかが現象する。逆に言えば、「流れ」のうちに「流れ」自身との「間隙」が生じなければ、何ものも現象しない。いまだ何ものも現象することのない潜勢態としての「充満する空」が、みずからのうちに「亀裂」を走らせることで、そこから「現象」へ向けての「充溢」が始まると、著者は論じている。