構造と力―記号論を超えて

著者 :
  • 勁草書房
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本棚登録 : 997
レビュー : 51
  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326151288

感想・レビュー・書評

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  •  日本におけるポストモダンの代表作、1983年に上梓された「構造と力」。学生時代はチンプンカンプンでしたが、今読み返すととても面白いです。まあ、とはいえ、読み返した今でも僕には難しすぎてついていけない所も多々ありましたが。
     なんか記憶ではチャラチャラした本というイメージでしたが、そうでもないですね。定型的で閉塞感のあった60年代、70年代の日本の価値観から自由になろうという浅田彰のまじめさが伺い知れます。「軽さ」の中にもしっかりとした強固な意志を感じ、それはニーチェへのシンパシーからも伺い知れます。受験戦争、偏差値重視、チャート式といった(今から見ると)時代のかかった言葉が連呼されるのも浅田がこのような定型的な世界観(モダンなアカデミズム社会)を軽蔑し、憎悪しながらこれらの世界観から自由になりたかった(でもなれなかった、たぶん)ことを暗示しているような気がします。時代の感性を信じ、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という浅田の態度はニーチェ的な真剣なるユーモアという意味だと思うのですが、80年代のバブリーな日本ではお気軽な現状権威全否定にしか見えなかったのかもしれません。
     確かに、嫌味なくらいたくさんのオーソリティーの名前を引用し、難解な用語のじゅうたん爆撃を行い、ほとんどの人が知らない(であろう)ことを「余りにも有名である」「周知の通りである」と繰り返すのは若気の至りという気もします。自身の主張を理解してもらおうというより、「理解できねえだろ、俺の言ってること」と主張しているのですね。それに、

    感性によるスタイルの選択の方が理性による主体的な決断などよりはるかに確実な場合は少なくない。その意味で、ぼくは時代の感性を信じている。(5ページ)

    みたいな文章は、冷静に考えると論理的には無理があります。難解な文章でその辺の弱さがごまかされている感じもしないではありません。
     浅田はスタティックな構造主義を否定し、それを乗り越えるべくダイナミックなポスト構造主義の普及を提唱します。レヴィ=ストロースたちがそういう観点から批判されるのですが、構造主義そのものがダイナミズムを否定しているかというと、僕はそうは感じていません。まあ、ここは浅田の言う「狭義の構造主義」が何をさすのか、による(定義の問題)ので、水掛け論かもしれませんが。また、「構造主義が明らかにした<構造>が物理的世界や生物的世界において見出されてきたシステムとは違う」(42ページ)とありますが、実際には物理学においても生物学においても構造主義はアプライ可能で、そこでも差異の共時的体系としての象徴秩序、例えば言語(112ページ)であることには変わりありません(池田清彦「構造主義科学論の冒険」参照)。これもまあ、「俺の定義する所の構造主義」的、水掛け論でしょうか。
     バブルもはじけ、311以降右肩上がりの社会に対する幻想も(ほぼ)断ち切れてしまった現在、ゲマインシャフトからゲゼルシャフト、プレモダンからモダン、ポストモダンといった線形の変遷はあまり現実味を帯びなくなってきたように思います(むしろゲマインシャフトへの回帰すら感じられます)。構造主義を乗り越えて、ポスト構造主義という浅田の主張は、今の眼から見るとあまり実感を持てませんが、右肩上がり絶頂期の80年代にはとてもフィットしていたと思います。そして、本書が時代にフィットしにくくなり、小気味よい文章にもドライブされなくなったであろう現在でこそ、難解な表現に振り回されずに本書を丁寧に読み直し、浅田がなぜ「力」という言葉をタイトルに入れたのか、クールに振り返ることができると思います。

  • 一見難解な本である。構造主義/ポスト構造主義の入門書として紹介されることもあるが、新書などによくある「○○入門」みたいな内容を想像して本書に取り掛かると、少々面食らうだろう。著者は参照するタームについて言葉を尽くして説明したりしないし、議論はシャープな文体でテンポよく進められる。思想書に縁遠い人などは、馴染みのないタームの乱舞に目を回してしまうかもしれない。

    しかし、慌てる必要はない。本書は全編にわたって同じモチーフを反復している。出てくる固有名は変わる。だが、言っていることは変わらない。したがって、どこかで理解に詰まってしまったとしても、我慢して読み進めていけばそのうち視界も晴れてくるだろう。むろんこれは本書の議論に発展性がないという意味ではない。だが、新たな一歩は常に議論の起点たる問題意識を確認したうえで踏み出されるため、しっかりと読んでいけば階段を踏み外すことはそうそうないだろう。

  • 佐藤優の著書に触発されて、大学時代には全く理解できなかった本書を再読。
    構造主義については全く知識がないため、理解不能の部分が多いが、後半の国家、あるいは資本主義の本質について語っている部分は圧巻であった。既成観念を打ち破ろうとする考察において、今日のネット社会やグローバリゼーションを予見しているところが凄い。また、近代の資本主義は非常にストレスフルな社会であることも明示している。
    構造主義に対する批判により、これらの内容が演繹されているにも関わらず、資本主義に内在する課題への対応策が今日に至っても新たな理論として確立されないのは何故なのだろうか。

  • ニュー・アカデミズムの火付け役となった本。岩井克人や柄谷行人の貨幣論などの成果を踏まえつつ、ドゥルーズ=ガタリの資本主義分析の有効性を検証している。

    現象学的なまなざしは、サルトルが描き出したように、他者との間でどちらが相手を対象化して〈主人〉の坐につくことができるかをめぐる相克を生み出す。この相克を乗り越えて社会的秩序を編成するために私たちは、あらゆる他者の〈奴隷〉となることで、かえって秩序を作り上げることができる支点、精神分析でいう「父」をもたなければならなかった。こうして形成される秩序が、ラカンの「象徴界」だ。だが他方、象徴的秩序にすくい上げられないで残るものが無意識を形作ることになる。そして、無意識に押し込められたカオスが噴出するとき、秩序が新たに編成しなおされることになる。エリアーデやバタイユの理論は、このことを明らかにした。

    ところでこうした議論は、象徴をいちおう完結した共時的な秩序として捉え、その外部を「外部」として輪郭づけることができるということに何の疑問も持っていないように見える。著者はこうした発想を批判している。ただしその批判は、秩序の側から秩序の外部のカオスへと遡行する否定神学的な発想よりもむしろ、現代の資本主義の分析に有効性を持たないという点に向けられている。

    資本主義において貨幣は、たえず再投下されて商品へと化身し、売れることで貨幣に戻るという運動を続けることによって、はじめて資本として生きることができる。つまり貨幣は、あらゆる商品に対するメタ・レヴェルの位置からオブジェクト・レヴェルへと自分自身を回送することで、たえまない資本の流通を作り出してゆく整流器の役割を演じているのである。著者は、こうした資本主義の構造を、外部がそのまま内部に接続されるクラインの壷のモデルによって描き出している。

    その上で、資本主義の外部に出るのではなく、それを内部から撹乱する「逃走」という戦略を採って、あらゆるものを一定の方向へと回路づける資本主義の内で多様性を享受する可能性を探ろうとしている。

  • 遊園地という場所に曰く言い難い違和感を覚えるようになったのはいつからだろう。チケットを買って囲い込まれたら「さあ楽しみなさい」とばかりに様々な遊具をあてがわれる。そう、まるで涎掛けやオムツのように“あてがわれる”というこの感覚。娯楽欲求は受け皿がなければ“失禁”してしまうしかないものなのか。遊園地に限った話ではない。人間の欲動が遍く資本経済に絡め取られ、ハムスターの回し車のようにグルグルと消費の連鎖に囲い込まれる違和感。こうした、現代人としてもはやあまりにもありきたりな違和感に、四半世紀前、弱冠26才の若者だった著者は本書で明快に答えてくれている。レヴィ=ストロースの構造主義以降、ポストモダンと総称される一連の思想潮流を通じて明らかにされた“クラインの壺”としての高度資本経済社会。貨幣も欲動も果てない差異を追いかけるパラノイア的無限循環に陥っている。そこから抜け出すためにスキゾフレニックな逃走が高らかに提唱される。あらゆる差異が複雑に絡み合いつつどこへ伸びていくかはわからない地下茎=リゾームとしてのポストモダン社会を、軽やかに逃げろスキゾ・キッズ、というわけだ。実に爽快。ただし、当時そうして逃げ出したキッズ達が今、ネットカフェ難民に象徴される“壺の底にこびり付いた澱”と化している事実は事実として受け止めなきゃいけない。何がいけなかったのか。どこで間違ったのか。答はまだ出ていない。思想はまだ、死ぬわけにはいかない。

  • その昔20世紀のフランスには、人間と世界を考えるとても偉大な思想があった。しかしそれは同時代の共産主義のような政治性もプラグマティズムのような経済性も持つことはなく、つまり現実にたいする働きかけが欠けていたのでついにお坊ちゃまの趣味の世界を出ることはできなかった。そして彼らの資質がおのずからはらんでいたオタク性によって、この流れはサブ・カルチャーというこちらは現場主導の世界に思想を無理やり持ち込むことによって受け継がれてきた。
    しかしもうそれもいい加減飽きられているようだ。國分さんとか千葉さんとか、改めてドゥルーズに向き合おうという動きは何かの予兆を感じさせないこともない。
    武力で世界と肩を並べる普通の国がお望みなのだったら、その知力は?(クール・ジャパン???)
    21世紀のニッポンは後世に何を残そうというのだろう。

  • オリジナリティやアクチュアリティがあるとは思えない。現代思想家の断片的な言葉がたくさん出てくるので、一種のまとめとして楽しめる。衒学的なテクニカルタームがちりばめられているが、それらの基礎的な意味を押さえておけば、内容は決して難しくはない。

    と思いながら、読んでいた。

    しかし、最終章までいたって、現代に生きる、または生き延びるにはどうしたらよいのか、そのヒントはニーチェとその後継であるドゥルーズ=ガタリの思想にある、とのしなやかな論であった。

    というわけで、当初の一文は撤回する。

  • 明晰。

  • 少なくとも今は本の意味をくみ取る事はできなかった。

  • 請求記号:801/A81
    選書コメント:
    当時の大学生がこぞって読んだそうですが・・・。
    サブカルのキーマン代表作。
    (東松山図書課 整理担当)

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