言語はなぜ哲学の問題になるのか

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  • Amazon.co.jp ・本 (342ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326152193

作品紹介・あらすじ

ホッブスカらデイヴィドソンまで。近世以降の主な言語哲学の流れを概観、自由な解釈を重ねて背後にある問題意識を探る。

感想・レビュー・書評

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  • 科学理論の方法論。歴史を顧みているという点で現代的著作。考古学。概念→意味→文の系譜。
    ハッキングはいろんな自然科学研究者を発掘してくる。。

    目次
    1 戦略
     a 概念の全盛期
     b 意味の全盛期
     c 文の全盛期
      11 ポールファイヤーアーベントの理論

    言語はシャベルのような道具で、錆びて欠けて、科学革命のときには取り替えられるものに過ぎない。
    我々は科学を理解するために言語の理論を必要とはしていないのである。

    電子や遺伝子といった theoritical entities 理論的存在者
     指差しは不可能
     「使用法」によって与えられる、と口先だけの返答を与えるわけにもいかない
     ⇔なぜなら電子についての複数の異なった理論があるから(理論内での振舞いが使用法である。複数ある場合には、一貫した意味にならない)
      「一つの理論の中では「電子」という言葉の用法が、基本的な措定者を表すことにあるのに対して、
       別の理論の中では、今では時代おくれになった別の見方とコントラストのために使われる、ということもあるであろう。」 ⇒Kuhn、科学史、Popper以降
       ref.1920年 ノーマン・キャンベル minorな実験物理学者 理論の基底部にある観察不可能な理論的存在者を、表面上の観察に結びつける。その演繹的な結びつきのgapを埋めるものとして、dictionary というものを提案した。「理論が正しいとしたら、我々はどのような結果を予測すべきか?」の答えを教える。言語は二分されて一方に観察についての報告があり、他方に理論的言明(理論の仮説 definition by postulate)がある。公理から観察を演繹することを可能にするところの、dictionaryによって結び付けられる。

    互いに両立不可能なT1とT2(パラダイム論始まり)
    それらの理論は、rとr*という反対の観察結果を含意するわけではない      ⇒Popperの反証の形式への批判を前提に議論スタート
    キャンベル的な dictionary を用いることによってのみ(ある種の解釈。ここでは限定された解釈として、参照というべきか)対立した結果を生み出すのである。

     以上のテーゼは最も強い形がウィーン学団によって長い間保持された。特にCarnap。
     理論的用語と観察的用語(プロトコル文)の間には明確な区別が存在するという、時代の潮流と意をともにしていた。
     変化はプロトコル文ではなく、dictionaryの変化として表れる。観察は絶対原子である。

     科学の発展の典型的な形態は2種類とハッキングはassertする:
     1 一つの理論の反駁と別の理論による置き換え    ⇒Popper
     2 一つの理論のより一般的な理論の元への包摂    ⇒ニュートン力学のSTR相対性理論への包摂
     ※どちらも合理主義の伝統に属す



    以上のようなウィーン学団のようなテーゼに対して、アンチテーゼは全てを批判する
     NRハンソン登場
      記述的、観察的言明が theory-laden 理論負荷的であると主張する。(1965 科学的発見のパターン)
       例;陰極の方から見られるX線管、新前でもX線管を加減抵抗器と区別することはできるだろう。
      2つの別個の問題;
       1 目で見ていると言っているものがdoxa、実際には我々の知識によって規定されたものである、という点
          プラトンもテアイテトスでいっている。学者と文盲。学者のほうがより多くを見ている。文盲はもう一度同じものを見せられても同定することができない。
                            モーターバイクの専門家、パイロット、考古学者、現代の物理学の学生の磁場のなかの霧箱の陽電子
         これらは直接的な知覚についての素朴な信念に対する疑問を呼びおこす
       2 直接的な知覚は、たとえそれが存在するとしても、それ自身は言葉の適用にはほとんど関係をもたない、という点。
          レンガ、爆発する、我々の知識には定常的でない
          理論という立派な名前が冠されるのは、こうした自然の内なる定常性についての非常に一般的な記述だけである。

    理論が負荷されていない純粋な「見ること」が存在するのかどうかという論争は、混沌としたものになりがちである。
     <プロトコルのテーゼの側>パイロットと素人はともに同じ揺れを感じているのだ、と主張。パイロットは垂直上昇を「推論」する(観察より一歩進んで)
      +別の論点;「仮説」と「dictionary」による科学理論の再構築 =テーゼの弱点
             科学(史)上の業績がじっさいにそのように二分されているかといえば、そのようなことは決してない。
             理論を仮説と辞書に分割する方法が一つに定まっているかどうかも、ほとんど明らかではない
              理論上の修正は、法則の方を保持したまま辞書を変える場合と、
             or 同一の辞書を使用しながら法則の方を変える場合とがありえる
    どちらが正しい再構成といえるだろうか。

    ある文の意味を決定するのはその文の真理条件   Frege
    ある用語の意味を決定するのは、その用語を含む文全体の意味によって決定される、ということはきわめて当然のことに思われるだろう  ⇒Holism

     テーゼの土台が危うくなる:もし以下の区別が人為的であるなら。一組の観察文、真理条件が理論とは独立な文が存在する。
                  辞書さえ与えられるならば、理論的仮説の真理条件もまた決定することができる。
                  テーゼにとっては、観察文と理論文の区別、および辞書と仮説との区別は決定的に重要である。

                  その場合には理論的用語を含む分の真理条件それ自身が、それらが生じる理論的文脈に依存することになるからである。
                   「電子の分布は、50%が上向きスピンであり、50%が下向きスピンとなっている」という文は、量子理論の一つの特定な
                   形式以外においては、何の標準的用法ももってはいない。それは理論を離れては何の真理条件を持っておらず、
                   したがってFregeの理論を単純化した形で適用するかぎり、何の意味も持たないことになる。というよりも、我々は
                   こうした結論に達するために、何も特定の意味理論を前提とする必要もないのである。たとえば、再びキャンベルへ

    テーゼを破壊する言葉:ファイヤーアーベント
     「いまや決定実験は不可能ということになる。それが不可能なのは、実験場の道具立てがあまりにも複雑になるとか、効果になるといった理由からではなくて、実験上の観察が何であれ、それを表現することができるような普遍的に受け入れられている言葉が存在しないからである。」

     =incommensurable 通約不可能

      この言葉は1960年代から使われ始めた。KuhnとFeyerabendによって。Kuhnを評価「卓越した科学史家」

      反証は起こりえないという主張。

    こうした意味にかんする結論はとんでもないことのように思われる。
     人は「同じ領域」に属しながらも通約不可能であるような理論につして、その例を2,3思い浮かべることはできる。
      フロイトの精神分析と行動心理学の刺激−反応説とは、等しく人間の心理現象を研究するものである。
       しかしフロイト主義者たちとS-R説の理論家たちとは文字通り口をきくことができない。
       彼らは互いに相手のいっていることが理解できないのである。
      同様に、中国の外科医たちは現代の鍼治療術によって患者に麻酔をかけずに大掛かりな手術を行うことができる。西洋では全身麻酔。鍼治療については西洋の理論外。
      人類学者はアザンデ族呪術を理解しようとすれば、我々は彼らの言語を学ばなければならず、ひょっとすると彼らの背活様式を採用することさえ必要かもしれない。

    しかしテーゼはこうした奇怪な例によって同様を受けることは少しもないであろう。
     大部分の秩序だった発展は、互いに通約可能な理論間での競合や累積ということに関係しているのが科学だと主張するのである。

     ⇒Whig史観

     我々のこれまでの思考上の慣習は、この点でテーゼが正しいものとすっかり納得してきた。しかしあいにくなことには、慣習は必ずしも完璧なガイドであるとは限らない。
     科学史の分野での最近の研究は、通約不可能性が予想以上に広範囲に存することを見出している。            ⇒村上先生の諸仕事、美添さんの仕事
      Feyerabendの説得力のある議論といえば、ニュートン力学の中の諸概念とアインシュタイン相対性理論の表現の不可能さだ
      とはいえ、新しい理論の登場のあらゆる場合が通約不可能性を生じさせるわけではないということも、これもまた自明のことといわざるを得ないであろう ⇒Fは部分的真

    我々のテーゼとアンチテーゼは二律背反アンチノミーの関係にある
     Fは我々の注意をここに向けることに貢献した
     しかし近年彼の研究はここに関心を示さない
     そもそも彼のこの問題との出会いは、量子力学におけるコペンハーゲン学派の解釈に対する不満に端を発す
      「対応原理」が研究に対する抑圧−不条理な方法論的制約であると
     この二律背反の両陣営は意味という概念に訴えてその論陣を張っている。
     しかしを残したFは近年次のような態度を取っている。
    意味に関するすべてのおしゃべりはただのゴシップにすぎない、と(practicalでないという意義であり異議か)

    テーゼを成立させるために;
     理論を通じて中立的な意味、それによって一方は真であり他方は偽であるような文がなければならない

    アンチテーゼは;
     我々がもっている最良の意味理論によれば、そうした文は成立しえない。
      但し、Fは理論におけるいあなる相違も意味上の相違を引き起こす(中立の意味はない)と言ったわけではない
       たとえば基本的な定数の値が変化することだけからは、こうしたことは生じる必要がない(だんだん一般性がなくなっていく)
       ただ新しい研究の方法を決定するような重大な新発見は、通約不可能な概念を生み出すのが通例である(通常科学と異常科学)

    最近のほとんど全ての哲学者たちは;
     これに対処するためにより優れた意味の理論を考案しようと勤めている
      しかしFはもっとラディカルであって、二律背反が生じるのは意味の理論の<不備>のためではなくて、意味の理論一般のためである、とほのめかす
       根本的な誤りは、意味の理論を手に入れようとすることそのものにある。我々は意味に見切りをつけて、文だけを考察しなければならない。
       我々が何を意味するかではなく、我々が何を言うかを考察せよ、statement 言明 すなわち意味を付与された文で誰がそれを意味しているのかという(細部への文脈依存性をもつもの)ではなく、sentences 文を考察せよ
       決定実験が不可能であると主張した箇所のすぐ後で

    「人間の経験はそれでもなお、一つの現に生じている過程としては存在しているし、それは依然として観察者に何らかの行為を遂行させる原因となっている。
     それはたとえば、ある種の文を発するといった行為である。…経験が一般的な宇宙論的観点に対して裁きを下す唯一のあり方は、このようなあり方である。そうした宇宙論的観点は、観察言明が何らかの経験が生じているはずであると言っているのに、そのような経験がじっさいには生じていない、という理由からでは排除されない。…それが排除されるのは、その観点からいくつかの観察文が生み出されているのに対して、観察者の方ではそうした文の否定を生み出している、という場合である。」

     観察者とその実験とは、意味を媒介にして作用しあうのではない。…ただ文だけが存在するのである。

    知識をめぐる新しいアプローチとして、ただこの理論はこれまでにも曖昧さが指摘されてきたが、多くの賛同者をひきつけてきた。

    とくに注目すべきなのは、これと類似した考え方が別の問題領域からも出現してきたことである。
     意味の全盛期では常に何らかの意味の理論が捜し求められてた。ここでは常に、語られているものの底には何かがあると想定されていた。すなわち、語られているものに加えて、意味されているものがある、と。

    Fは新しい鉄面皮な実証主義を唱える者の一人である。言語にとって、語られていること以外に、それを超えた何者も存在していはいない。
     こうして意味の死が訪れるのである。  ⇒後期Wittgenstenへ
    別の動機をもった意味の暗殺者が、Fがこの暗殺劇のキャシアスだとすれば、ブルータスであるデイヴィドソンである。
     


      12 ドナルド・デイヴィドソンの真理

    今日の分析哲学で論議されているトピックの2,3の入門となる。






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著者プロフィール

トロント大学教授。
1936年カナダ生まれ。専門は科学哲学。ブリティッシュコロンビア大学卒業。ケンブリッジ大学にて博士号取得。ブリティッシュコロンビア大学准教授、スタンフォード大学教授などを経て1991年より現職。2001~2006年にはコレージュ・ド・フランス教授も務めた。
日本では以下の翻訳が出ている。『知の歴史学』(岩波書店、2012年)、『何が社会的に構成されるのか』(岩波書店、2006年)、『偶然を飼いならす――統計学と第二次科学革命』(木鐸社、1999年)、『記憶を書きかえる――多重人格と心のメカニズム』(早川書房、1998年)、『言語はなぜ哲学の問題になるのか』(勁草書房、1989年)、『表現と介入――ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』(産業図書、1986年)など。

「2013年 『確率の出現』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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