フィクションの美学

著者 : 西村清和
  • 勁草書房 (1993年3月発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (329ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326152759

作品紹介・あらすじ

悲劇、グロテスク、崇高、悔恨、はたまた殺し、極悪等を快とする我々の美的経験の奇妙な逆説。

フィクションの美学の感想・レビュー・書評

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  • 「フィクションの快楽の逆説とは、一方で悲痛や恐怖、嫌悪といった不快と、他方で美的な快との同時存在、つまりはアンビヴァレンスの逆説である」

    悲痛なことを楽しめるあの心情というのは、どうして現実世界での出来事に適用しにくいと一般的に考えられているのだろうか?

    そうして考えてみたときに、現実の出来事であっても、自分から少し離れたところでの出来事はすべて大体フィクションのようなものであるため、まあ実際はあんまりフィクションでもノンフィクションでも変わらないというのは事実だと思う。

    ただ、「楽しめる」という感情を社会的に押しつぶすというのは言うまでもなく重要で、それはひとえに、それを楽しめない人が存在するということが仮定されやすいからにほかならない。

    だとすればフィクションとノンフィクションの境目はさらに曖昧になるのではないか。なぜなら、たとえフィクションの中の世界の出来事であっても、それを「楽しめない」人は確実に存在するのであり、特にネットが普及したことでその可視化が行われているからである。

    無論、悲しむ人の分母が異なるだとか、あるいはその度合はフィクションとノンフィクションで異なるというのは言えることかもしれないけれども、ゲームやらアニメやらが持つ没入性を考慮していえば、あんまりフィクションだからといってバカにできたものでもない。

    フィクションの権威を強くする装置がどんどん整いつつある現代において、フィクションに対しても、社会的に喪に服したポーズを取ったほうが良いということが今後広まるのかもしれない。(ここまで書いて思ったけど多分ない)

  • 悲劇やグロテスクなもの、そういった一見美とは結びつかないものに快を覚えるのは何故か、という疑問をもとに練られた論文集。分析美学はこういうことをやってるのねぇ


    序盤の章ではフィクションの存在論を展開する。ラッセルやフレーゲの議論を手綱に虚構文の「意味」と「指示」の差異を明らかにする。虚構文は現実世界ではなく「虚構世界」を指示するものなのだ。
    そしてそこで問題になるのは、それと「読者」が如何に向きあうか、つまり読者の存在論と読書行為の現象学へと向かわなければならない。読者が現実存在としてフィクションの登場人物に「同意」するのではなく、「読者」として特別な観客席に身を置きながら「共感」するのであるが、それを可能にするのはフィクションのドラマトゥルギーないしストラテジーなのである。
    以上を前提として、西村は悲劇の快・殺し・グロテスク・崇高の美学などを分析していく。


    フィクション論でも読むか、と思い買った書物だが実際に得るものは想像より多かった。美的概念に興味がある人間におすすめ。崇高概念の理解も深まった。カントの「無関心性」を「美的距離」で捉え直せ無いかなあ。西村先生は美的距離にはあまり関心がなかったようだけど自分としてはそこに注目したい。

  • 文学や演劇などのフィクションを理解してそれを享受するとは、いったいどのような営為なのかを考察している。フィクションの存在論的分析では三浦俊彦『虚構世界の存在論』(勁草書房)という名著があるが、本書の主題はこれとは異なっている。あくまで個人的な理解にすぎないのだが、フィクションを享受する際に私たちがとっている態度を、D・デネットの「志向的スタンス」に並ぶ独自のスタンスとして認めようとする試みにも読めた。

    ストローソンやサールは、世界について真正な主張をおこなう文に寄生するものとして虚構文を理解している。だが著者は、真正な主張をおこなう文と寄生的な文との違いが何なのかが明確になっていないと批判し、じっさいに殴ることと殴るふりをすることとは、まったく異なった意味と実質を担う振舞いだという。同様に、「フィクションを語る」というのは何ら寄生的なものではなく、「現実世界を指示する主張をおこなう」行為とはべつの、独自の行為と考えなければならない。

    そうした虚構文からなるフィクションを理解するためには、現実世界を指示する主張を理解することができなければならないだろう。だがそれは、虚構テクストが、読者が持っている信念や知識、慣習についての一定の想定のもとで書かれたものだということによるのであり、それらは虚構テクストを理解するための一つの条件にすぎない。私たちは「虚構テクストを読む」という行為の中で、現実世界についての主張として理解しつつその主張するという行為だけを宙吊りにするようなことをおこなっているわけではない。

    その上で著者は、虚構テクストの読者であるということは、けっして作者との対話をおこなうことを意味していないと論じている。イーザーのいう「内包された読者」とは、虚構テクストに設定されている観客席なのであって、読者である私たちは、テクストの指定する読者の視点に美的なスタンスで立つことで、その作品の美的品質を享受するのである。

    著者はこうした立場から、悲劇やグロテスクの美的体験がもたらすパラドクスを解こうと試みている。私たちは、作品に描き出されている場面に苦しみや悲しみや醜さを認めるが、それは私たちの感情ではなく、その作品の美的品質の評価語なのである。さらに著者は、こうした美的スタンスの例として、悲劇やグロテスクの美だけでなく、「むかし」を懐かしむ態度や崇高の美的体験についても興味深い議論を展開している。

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