アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

制作 : 大門 毅 
  • 勁草書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326154166

作品紹介・あらすじ

二一世紀の世界は暴力に満ちている。はたしてこれは、「文明の衝突」なのか?西洋とイスラムは対立するしかないのか?ひとは宗教や文明にもとづいたアイデンティティしか持てないのか?本書では世界史、哲学、経済学などの豊富な知見をもとに、現代世界を読み解く新たな枠組みを提示する。アイデンティティは与えられたものではなく、理性によって「選択できる」のだ。

感想・レビュー・書評

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  • 印英にルーツを持つ経済学者、哲学者の著者が「アイデンティティとは、一人の個人が一つのアイデンティティを他の属性よりも優先して宿命的に「発見」して持つのではなく、複数のアイデンティティを理性によって「選択」することができるものだ」といったことを繰り返し説く本。単一的なアイデンティティ(特に宗教的な共同体への帰属)の植え付けが暴力を伴う対立にいかに簡単に利用されやすいか、文学や政治形態、数学・科学といった東西の「文化」「文明」の、決して対立的ではない複合的に結びついた関係性も持ち出しながら「西洋と非西洋」を脱力させる。

    選択された複合的なアイデンティティとは、著者によれば「私はアジア人であるのと同時に、インド国民でもあり、バングラデシュの祖先を持つベンガル人でもあり、アメリカもしくはイギリスの居住者でもあり、経済学者でもあれば、哲学もかじっているし、物書きで、サンスクリット研究者で、世俗主義と民主主義の熱心な信奉者であり、男であり、フェミニストでもあり、異性愛者だが同性愛者の権利は擁護しており、非宗教的な生活を送っているがヒンドゥーの家系出身で、バラモンではなく、来世は信じていない(質問された場合に備えて言えば、「前世」も信じていない)。これは私が同時に属しているさまざまなカテゴリーのほんの一部にすぎず、状況しだいで私を動かし、引き込む帰属カテゴリーは、もちろんこれ以外にもたくさんある(P39)」といったもの。

    インドは「ヒンドゥー文明」だというよくされがちな分類は、世界最大規模のイスラム教徒がいるという点を考慮していない大雑把な言い方だし、イスラムが排他的だというのも、他の宗教を認めたアクバル大帝と認めなかった他の皇帝の例を出してどちらでもあり得ると言う。現代で「西洋」の専売特許のように認識されている「民主主義」も、「自分たちの村はどんな立場の誰もが集まって発言をし、それを長老が聞いた」というネルソン・マンデラの言や聖徳太子の十七条の憲法がマグナ・カルタよりも600年も前だということで西洋だけのものではないと述べる。当然、ヨーロッパの自然科学の功績はイスラムやインドの数学がなければあり得ない。西洋・非西洋という「対立」を前提とした見方が間違っているのだと。

    著者は特に、イギリスへの移民の共同体のためにイスラム教の学校を作るべきというような、「宗教」を第一意・第一義の帰属共同体とすることに異議を唱える。この根底には「イギリスを代表する食べ物はカレー」とイギリス人が言うといったように、移民がもたらした「文化」がすでにイギリスの文化となっている現状で、宗教だけが唯一のアイデンティティではないということがある。

    セン先生の言わんとすることはとても普遍性のあることではないかと思った。
    日本列島のことを考える。
    例えば、部落や在日コリアンの子どもたちは宿命的なアイデンティティ以外の選択肢と出会う機会がない(少ない)のではないか。あるいは、文化的・経済的な境界線とずれた地方自治体アイデンティティや政治党派的アイデンティティによる囲い込み(「市民」と非「市民」の発言の重みの違いとか、フェミニストや「文化知識人」なら反原発、反戦、反企業で当然、とか…)。

    開発の達成度は所得水準ではなく、自由の達成度によって評価されれるべき、それによって人間が潜在能力(ケイパビリティ)を発揮できるし、それが発揮できないのが「貧困」だというセン先生の考えとともに、「魚の目」の肥やしになった。

  • 私達は、自分達が日頃感じているより遥かに多くの共通点と、相違点を、他人に対してもっていることに気が付かなければならない。私達は他人と多くの点で似ているし、多くの点で異なっている。

    センが「アイデンティティ」という表記で意味している概念は、エリクソン考案の「アイデンティティ」が意味する概念と大きく異なり、H.タジフェル・J.C.ターナー考案の「社会的アイデンティティ」が意味する概念と一致する。混乱を避けるため、以下の文では「社会的アイデンティティ」という表記で統一する。

    個人は複数の異なる集団・属性に属している。そのため複数の異なる社会的アイデンティティを有することができる。実際、私たちは、自らが属する集団・属性について、どれを、より優先的な社会的アイデンティティとするか、を選択している。より厳密にいうと、①自分の目に映る自分の社会的アイデンティティ、と②他人の目に映る自分の社会的アイデンティティ、を選択している。尚、選択には常に制約が伴う。特に②の選択に関しては、選択の余地がないほど自由が制限されることもある。例えば、アメリカの南部で暴徒にリンチされかけているアフリカ系アメリカ人が、暴徒を説得して、彼らの偏見を取り除くことはとても難しい。しかし、その説得に失敗しても、絶望に暮れる必要はない。その「1つの選択」に対する制限の大きさは「その他のすべての選択」に対する制限の大きさに直接的な関係を持たず、「その他のすべての選択」を行う自由については、まだ余地があるからだ。
    それにも関わらず、「1つの選択」に対する制限の大きさを「その他のすべての選択」に対する制限の大きさに過大適用してしまい、「その他のすべての選択」を放棄してしまうことは愚かだ。ましてや、自ら放棄した選択が故の結果を「アフリカ系アメリカ人の運命」などと呼び、責任を、自分→自分が有する社会的アイデンティティの集団・属性に転嫁してしまうことは、世界規模の暴力の引き金になりうる。私たちが、世界平和への見通しを立てたいのなら、以下、AとBの相互に関わりをもつ問題について、論理的に考えた上で①と②を選択しなければならない。

    A:自分にとって、いま関連性のあるア社会的イデンティティとはなにか(複数可)を決めること
    B:それ(ら)の相対的な重要性を考えること

    尚、A及びBについても、常に「実現可能性」という制約が伴い、Aに関しては大きな制約が伴うことがある。例えば、アフリカ系アメリカ人が、自分に関連性のある出生地を決める際に、日本という選択肢を入れることは難しい。

    また、Bの「相対的な重要性」は理性による固定的・絶対的な価値づけ、だけでなく、社会的な背景や偶発的な妥当性による流動的な価値づけ、にも影響されることを考慮に入れなければならない。
    社会的な背景による価値づけの一例として、ウェジタリアンであり、言語学者である人のことを想像してみよう。彼が夕食に出かけるときの社会的アイデンティティの優劣は ウェジタリアン > 言語学者 だろう。しかし、言語学研究の講演を行うときは、ウェジタリアン < 言語学者 であるはずだ。
    次に、偶発的な妥当性による価値づけの一例として、先着300名のコンビニアルバイト募集について想像してみよう。本来1から300の数字のグループが社会的アイデンティティを有することは少ない。しかし、先着300名のコンビニアルバイト募集が掛かった途端に、そのグループは「コンビニアルバイト合格者」の社会的アイデンティティを有することとなる。つまり、先着300名という偶発的な妥当性が、1-300に「コンビニアルバイト合格者」という価値づけを行ったというわけだ。

    以上が本書の主張と核となる部分。残りは、以上のことを十分認識し、実践すれば回避できたであろう「世界中の“運命”的な暴力」と、それについて一般的な支持を得ている既存の考え方(文明の衝突論など)などについて、「社会的アイデンティティ」をキーワードに再点検している。尚、センが強く非難している「運命」とは、「『個人は選択の余地なく単一の社会的アイデンティティしか有することができない』という幻想を信仰する人が抱く選択への誤認識」のことである。

    ・二種類の還元主義への批判
     現代の社会や経済には以下の二種類の還元主義が蔓延している。
    ① 社会的アイデンティティ軽視・・・個人の行動原理は利己性のみであり、その人が
    有する社会的アイデンティティは行動に影響は無視できる程度のものであるという考え
    ② 単一帰属・・・個人はただ1つの社会的アイデンティティのみを優先的に有するという考え

    ① については、社会的アイデンティティが行動の動機と成りえる現実を無視している点に問題がある。ひたすら私利を追求する経済行動という仮定は、アダム・スミスを含むさまざまな人の一般的な批判に加え、ゲーム論的な実験結果からも批判が出てきている。人には帰属が1つしかなく、首尾一貫して利己的であると仮定したときの行動様式と、実際に観察された人の行動様式には隔たりがあることが分かってきたのだ。今後の経済学理論には、社会的アイデンティティの概念を取り入れる必要がある。

    ② については、個人が複数の異なる社会的アイデンティティを有し得ることを無視している点に問題がある。人はどんな状況でも複数の異なる集団・属性に属している。それにも関わらず、常に1つのみの帰属先しか持てないというのは明らかに無理がある。
    ・コミュニティ系社会的アイデンティティ至上主義への批判
     コミュタリアニズムで前提となっている、コミュニュティに関連する社会的アイデンティティが常に最も重要なものとなるという主張だが、そうとは限らない。社会的アイデンティティの相対的重要度の決定は、個人個人の裁量に任されている。しかし、コミュタリニズムは、前述の前提のもと、人は自らが属するコミュニティ内でのみ論理的・道徳的な判断が可能であり、そのコミュニティ外ではそれらを判断できないと主張する。この主張は、「無謀な交流による争いをなくすために、この世界をコミュニティごとの小さな島々に分割しべき」などの政治的な目的を達成するための根拠として利用されることがある。

    ・文明の衝突論への批判
     文明の衝突論には以下の2つの問題がある。
    ① 単一帰属という還元主義的な見方(幻想)を前提としている点
    ② 世界の文明の分類が雑である点(実証分析が示す傾向よりも、各々の文明は過去から現在間において同質であり、異なる文明間ではかなり異質なものであると把握している)

    ① は本来多元的である人を一元的な存在に押し込め、人々の連帯を脆弱なものにする。
    ② は各々の文明内部の多面性と、異なる文明間にある幅広い交流を無視することで、異なる文明間の人々の健康的な交流を阻害する。

    例えば、ハチントンは「文明の衝突」で、インドをヒンドゥー文明として分類したが、これには多くの問題がある。インドにはヒンドゥー教徒だけでなく、1億4500万人以上のイスラム教徒(ムスリム)がいる。彼らを抜きにして、現代のインド文明(特に美術、文学、映画、料理など)は語れない。加えて、ムスリムだけでなく、シク教徒、ジャイナ教徒も同様に大きな存在感を示している。また四世紀からキリスト教の大きなコミュニティもある。こうしたヒンドゥー教徒以外の多様性を無視したハチントンの分類はお粗末と言わざるを得ない。こうした雑な分類は政治的な火種を作り続けるものになる。実際、ハチントンは、ヒンドゥー原理主義運動の多くの指導者によく引用されている。
    加えて、ハチントンを含む「文明衝突」論者が用いるヨーロッパ=「西洋文明」という分類もヒンドゥー文明の時と同様の雑さがある。彼らは、寛容性(これは文明の衝突を実証するのに重要な価値観であるとされている)、自由、民主主義、西洋科学などを近代化以前から「西洋文明」独自のもとだと主張するが、そんなことはない。
    第一に、政治的な自由と宗教に関する寛容性が、今日のように支持されるようになったのは、世界のどこの国でも、どんな文明でもそう古いことではない。プラトンもトマス・アクティスも孔子も専制的な考え方をしていた。1590年代のヨーロッパでは異端審問が盛んになっており、異端者は火あぶりの刑に処されていた。
     第二に、近代の民主主義制度はどこにおいても比較的新しいものであるし、国民参加や公共の論理(公共の場における議論や対話に基づく統治)という形態による民主主義の歴史は古代ギリシャだけでなく世界各地にみられる。例えば、インドの結集(最も古い一般集会の1つである仏教会議)・紀元前3世紀のアショーカ王による公共の議論のためのルール制定・、7世紀日本の17条憲法中の「それ事は独り定るべからず、かならず衆とともに論うべし」、10世紀コルドバのアブド・アッラフマーン三世による公共の議論の擁護などがある。以上から、欧米諸国がイラクなどに民主主義を「押し付ける」ことができるのか?という疑問は、民主主義は西洋のものだという所有概念を前提としている時点で、民主主義の歴史に対する誤認識を育て、民主主義の将来的な普及に悪影響を与えるため、悪質である。
     第三に、西洋科学は西洋だけでなく、世界中の知的関係の連鎖によって発展したものである。例えば、西暦最初の数百年にインドで発展した十進法は10世紀末ごろからアラブ人を介してヨーロッパに伝わった。また、様々な非西洋社会(中国、アラブ、イラン、インドなど)が輩出した多くの貢献者が、科学、数学、哲学に影響を及ぼした。それらは、ヨーロッパのルネサンス時代や、その後の啓蒙主義の時代に主要な役割を果たすことになる、

    ・宗教的アイデンティティ偏重への批判
     近代の文明の衝突論は、文化の違いを表す重要な特徴として、宗教的な差異に依存しがちであり、これには先ほどの①、②の問題に加え、以下の③の問題が加わる。
    ③ 文明内には、1つの宗教だけでなく多様な宗教が存在していることに加え、同じ宗教内でも文化・政治・社会の諸問題に関する考え方は個人によって多種多様である点を見逃している点。

     この問題は、宗教的な帰属先をもつ個人に対する理解を著しく阻害する。例えば、たまたまイスラム教徒である人がもつ多様な社会的アイデンティティと、イスラム教徒としての特定の社会的アイデンティティと、を区別することを困難とする。この区別はイスラム原理主義やイスラム過激派が有力になっている今日の世界においては尚更重要になってくる。彼らに対する西洋側の態度には、イスラム教徒全般に対する強い疑念が含まれている。しかし、イスラム教徒と一口にいっても、政治や社会への信条に関しては十人十色であり、その背景には多様な非宗教的な社会的アイデンティティがあることを認識しなければならない。テロリスト全員がイスラム教徒であったとしても、イスラム教徒全員がテロリストであるとは限らないのだ。そして、イスラム系過激主義への対処は、イスラム教徒の宗教的アイデンティティではなく、政治的、社会的アイデンティティに目を向けた方策をとる必要があった。しかし、その認識が薄いばかりに、宗教権力者を味方につけてイスラム系テロと戦うという的外れな方策をとってしまった。それは、宗教的権力者の発言力を、宗教と無関係な政治的、社会的な問題において増大させる効果をもたらし、イスラム過激主義がイスラム教徒市民達の政治的、社会的アイデンティティを軽視することを強化した。
    ・西洋コンプレックに基づく反西洋志向からの脱却
    被植民地意識からくる反西洋志向のような、「外部のものに対する、反発的な自己認識」
    は自分を理解するための土台とはなりえず、以下の3つの問題を含む
    ①  民主主義や個人の自由といったグローバルな考え方に対し、「西洋的な」考え方であるという間違った認識を植え付け、不要な敵意を誘発する。
    ②  世界の哲学や科学の歴史の見方を歪める。
    ③ 宗教的原理主義を拡大させるだけでなく、国際テロに加担しがち。

    ・多文化主義、複数単一文化主義、文化的自由の区別
    複数の文化が交わることなく、並列して共存することをよしとするスタイルは、多文化主義ではなく、複数単一文化主義である。また、文化的自由(個人が文化を選び取る自由)が奨励され、多くの人達によって実践されれば、結果として多文化主義を生み出すであろう。しかし、多文化主義がもてはやされた結果、文化的自由が産まれるとは限らない。むしろ、多文化主義、特に複数単一文化主義を強制することは、文化的自由を阻害する可能性がある。

    ・単一帰属という還元主義の悪用
    暴力をあおることを専門とする人々は以下の2つの手順で、人々の自己認識の意識を殺害の道具に変える。
    ① それ以外のあらゆる帰属と関係の重要性を無視させる。
    ② 唯一の社会的アイデンティティの要求を、さらに好戦的な形に再定義する。

    ① の例として、「よく、そんなよその問題について語ることができるね? 同胞の女性たちはレイプされているというのに?」という文言があげられる。

    • lacuoさん
      いやーもう、分析が細かすぎて、びっくりした。

      オレは、ここまで細部までしっかりと読めていなかった。
      サササッって、目を通しただけだっ...
      いやーもう、分析が細かすぎて、びっくりした。

      オレは、ここまで細部までしっかりと読めていなかった。
      サササッって、目を通しただけだった。

      オレが特に注目したのは
      ・文明の衝突論への批判
      の、ハンチントン批判だけで。

      というのも、ハンチントンの歴史観は、なんだかイカガワしいなあって漠然と思っていたのを、セイが、インド人の立場から明確に批判してくれてて、あ、やっぱ、そーだったのか、って納得したから。

      「インドにはヒンドゥー教徒だけでなく、1億4500万人以上のイスラム教徒(ムスリム)がいる。彼らを抜きにして、現代のインド文明(特に美術、文学、映画、料理など)は語れない。加えて、ムスリムだけでなく、シク教徒、ジャイナ教徒も同様に大きな存在感を示している。また四世紀からキリスト教の大きなコミュニティもある。こうしたヒンドゥー教徒以外の多様性を無視したハチントンの分類はお粗末と言わざるを得ない。こうした雑な分類は政治的な火種を作り続けるものになる。実際、ハチントンは、ヒンドゥー原理主義運動の多くの指導者によく引用されている。」

      それ以外の部分は、あまりよく理解できてなかった。

      この書評読んで、よく分かっていなかったことが、よく分かった。

      「エリクソン考案の「アイデンティティ」が意味する概念と大きく異なり、H.タジフェル・J.C.ターナー考案の「社会的アイデンティティ」が意味する概念と一致する。混乱を避けるため、以下の文では「社会的アイデンティティ」という表記で統一する。」

      すごいイロイロ知ってる人なんだなーってビビるよ。
      オレなんか、エリクソン考案の「アイデンティティ」が意味する概念、も知らなければ
      H.タジフェル・J.C.ターナー考案の「社会的アイデンティティ」が意味する概念についても、なんにも知らなかったもんね。

      この本って、こうやって、読まれるべきものだったかーって感心した。
      2022/10/01
    • metasekoiyaさん
      lacuaさん
      コメントありがとうございます。コメントなんて初めて貰ったので、驚きながらも喜んでいます。恐縮ですが、何かしらの役にたったよう...
      lacuaさん
      コメントありがとうございます。コメントなんて初めて貰ったので、驚きながらも喜んでいます。恐縮ですが、何かしらの役にたったようで何よりです。
      2022/10/04
  • 年明け早々難しい本を読んでしまった。津村記久子のエッセーで紹介されていたこの本。布団に寝転んで読むには少々ハードだったが、それでも非常に興味深い本だった。

    我々は複数のアイデンテティを持ち、その中のプライオリティ度合いを順位づけるのは、独立した社会人であるなら個人の自由であらねばならないこと。
    他人あるいは他の勢力が、誰かのアイデンテティを「こうであるべき」と強制する事はあってはならないこと。
    同時に他人あるいは他の勢力のアイデンテティを「あいつらはこうである」と一つにカテゴライズしてはならないこと。

    国家論、文明論において語られる本書だが、俺個人としても大いに考えさせられることがあった。人の個性の中から一つを抜き出して、その人の人格を決めつけてはいないか?勿論好悪はあるにしても、その評価だけをもってその個人を格付けしてしまってはいないか?

    「山好きに悪い奴はいない」「ゴルフは紳士のするスポーツ」これらの戯言に対する違和感も、この本に化kれている事に由来するのではないか、と思っている。

    白黒はっきりなんてつけなくていい。色んな色のまじりあったグラデーションで世の中は出来ている。それをゼロサム的に区分けしようとするから、境界線が出来て争いが起こる元になるわけだ。

    単一アイデンテティをもって、誰か(何か)を評価することは止めようと思ったし、それを勧めてくる存在からは距離を置くことを推せてくれた良作。

  • アマルティア・センは「アジア人であると同時に、インド国民でもあり、バングラデシュの祖先を持つベンガル人でもあり、アメリカもしくはイギリスの居住者でもあり、経済学者でもあれば、哲学もかじっているし、物書きで、サンスクリット研究者で、世俗主義と民主主義の熱心な信奉者であり、男であり、フェミニストでもあり、異性愛者だが同性愛者の権利は擁護しており、非宗教的な生活を送っているがヒンドゥーの家系出身で、バラモンではなく、来世は信じていない(質問された場合に備えて言えば、「前世」も信じていない)。
    これらは著者の属するカテゴリーの一部分でしかない。その中のどれに帰属意識を感じるかは選択の問題だ。
     一人の人間を一つのアイデンティティに押し込めようとする還元主義を批判する。インドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立やルワンダの虐殺は一人の人間の多様な側面を切り捨て、一面的な属性を押しつけた結果だ。
    「一つの集団への強い―そして排他的な―帰属意識は往々にして、その他の集団は隔たりのある異なった存在だという感覚をともなう。仲間内の団結心は、集団相互の不和をあおりやすい」
    ヒトラーがユダヤ人を過度に単純化してののしったように、昨今日本でもよく見られるヘイトスピーチも特定の集団を均一化し、さまざまなアイデンティティを無視して憎悪をあおる。
    それらに対抗するために、「お互いが持つ多くの共通したアイデンティティを確かめられる世界」を心に持ち続けたい。

    • lacuoさん
      わー、内容がうまくまとまってて、分かりやすかったです。
      わー、内容がうまくまとまってて、分かりやすかったです。
      2016/05/28
  • 「人間のアイデンティティを『単眼的』に矮小化することは甚大な影響を及ぼす」

     アマルティア・センの関心は一人ひとりの個人にある。それが氏の人間の「生存」と「生活」を重視する「人間の安全保障論」の根柢にある。故郷インドで経験した飢餓の経験や、ムスリムだというだけで目の前で殺されたカデル・ミアとの出会いがその出発点なのだろう。多発する紛争の多くや残虐行為は、選択の余地のない唯一のアイデンティティという「幻想」を通じて発動・拡散・継続させられている。
     本書は憎悪をかきたてる「アイデンティティ」をキーワードに、テロと暴力の連鎖にどう向き合ったらいいのか、ひとつの処方箋を示した渾身の一冊だ。
     アイデンティティとは、自分を自分と認識する際の拠所のこと。ふだん私たちは様々なアイデンティティに織りなされ一人の私を形成している。性別や年齢、職業や居住地、そして所属する国籍や文化など単一の事象に還元されて生きているわけではない。時と場所、そして優先順位によってその強弱を選択することで、生活を柔軟で潤い豊かなものにしているのが日常生活だ。
     アイデンティティ意識は人間と人間を接続させる連帯感を形成するという意味ではプラスの側面を持っている。しかしそれはとりもなおさず他者への排除としても機能する。人とつながる感覚は容易に仲間と敵の分断へと転変するからだ。本来人間は複数のアイデンティティを選択している。にもかかわらずそれが一元的な単純化へ傾くとき、それは世界と個人を分断する。センはこの「単一帰属」という「幻想」に断固として反対するのだ。
     現代の世界における紛争のおもな原因は、人間は宗教や文化、所属する民族にもとづいてのみ分類できると仮定することにある。本書でセンは自らのアイデンティティをめぐる自己との対話ともいうべき腑分けをしながら、狭隘な単一帰属幻想を打ち壊そうと試みる。そしてその叙述が心をうつ。そもそも全てのアイデンティティなど「幻想」にすぎないとポスト・モダンを気取るわけでもなく、グローバル化の必然に無力な沈黙を決め込むわけでもない。人間の矮小化に抵抗するセンの力強さはその現実主義にあるだろう。単純化を回避するためには常に複数性への選択へと眼差しを向けなければならない。
     アイデンティティに起因する暴力の連鎖は、現代日本においてはどこか無縁な対岸の火事のような感覚が広く浸透している。しかし一皮剥けば、決して他人事でない。本書を読むことで自身を点検するひとつのきっかけになればと思う。


    「人間のアイデンティティを『単眼的』に矮小化することは甚大な影響を及ぼす。人びとを柔軟性のない一意的なカテゴリーに分類する目的のために引き合いにだされる幻想は、集団間の抗争をあおるためにも悪用されうる」(アマルティア・セン)。

  • 自由主義的平和論。ぼくにとっては当たり前の考え。これが世界中に広がれば。みんな読んでほしい。

    単一のアイデンティティという幻想を掻き立てることで、暴力を煽る。

    多文化主義の本質は混ざり合い。分離して保全しようとするのは複数単一文化主義と見なさなければならない。

    ポストモダニズム文脈で安易に「西洋-反西洋」と分類したり、それを前提とした「脱西洋」という言葉を使ったりするのも考えものだと思った。

    p.157に「1906年から1911年までに、日本の市町村の予算の実に43%が教育に費されていた」とある。

    その直前、木戸孝允の教育思想「決して今日の人、米欧諸州の人と異なることなし。ただ学不学にあるのみ」の引用は公文俊平先生の共著論文。

  • 今回紹介する本は、ノーベル経済学賞を受賞した学者さんが書かれた本です。

    アイデンティティと言うと、民族紛争や宗教対立とか、何かと国際政治というイメージで、難しい、縁がないイメージがあると思います。

    実際、この本では国際社会の中で起こる様々な対立をどのように解消するかということがテーマです。でも、この本で用いられる、「アイデンティティは理性で選択できる」ということは、私達の日常、人生の中で活かせることだと思いました。

    そういうわけで今回は、「物事を様々な視点で見るために」をテーマに、この本を紹介したいと思います。

    そもそも、アイデンティティとはなんでしょうか。
    私達は、様々な面を持っています。会社員としての自分、サークルの一員としての自分、日本国民としての自分、友人(恋人)としての自分、家族としての自分、人間としての自分――。自分をどの面で見るか。この自己認識のことを、この本では「アイデンティティ」としています。

    何かものを言ったり、行動したり、考えたりする時は、必ず、何かしらのアイデンティティの下にそれをしています。アイデンティティは、自らに価値観や行動の指針、「ものの見方」を与えるものだからです。「私はこの人の母親なのだから、叱らないと」であったり、「私はこの会社の社長なのだから、辛いがこう決断しよう」であったり。アイデンティティは、日常生活において身近に感じることができます。

    様々な面、アイデンティティを持っているということは、物事を多角的に見ることができるということ。これは、とても良いことです。物事を色んな立場から見つめるとことで、良い面、悪い面、自分の人生に行かせる所が見えてきます。人と衝突した時も、見方を変えれば和解、共生の道が見えてきます。1つのアイデンティティだけで物を見るのではなく、その時々に合わせたアイデンティティを通して物を考える。「アイデンティティを理性で選択する」状態とはこのことだと思います。

    この状態を維持するのは、簡単に思えますが意外とそうでも無かったり。身の回りで、会社で、よくケンカする人たちがいたとして、「あの人たち、目的は同じなんだからもう少しうまく折り合えないのかなぁ」と思うこと、ありませんか?

    このとき、人は単一のアイデンティティでしか物事を考えられなくなっています。つまり、「相手を憎む自分」にアイデンティティをもっているわけです。この延長線上に、民族紛争や宗教対立があると思います。

    別に、喧嘩の場面に限られません。私達は、日々たくさんの情報の奔流にさらされている中で、耳触りのいいスローガンに載せられたり、過激な言葉に載せられて特定の価値観を知らず知らずに刷り込まれたり、押しつけられたり、思いこまされたりしています。そして、いつの間にか相手が望んでいる価値観(もっといけばアイデンティティ)で物を見るようになっていることがあります。

    対処法としては、「アイデンティティを選ぶ理性」を鍛える他ないと思います。具体的2つあげれば、外からの情報を元に物を判断する時は、人から与えられた答えに乗るのではなく自分で考えて結論を出す。それと、日ごろから異なる価値観に触れ、自分を客観視する努力をする。なんか、どっかで言ったようなフレーズだなぁと思ったら、これって、感性・知性を鍛えるプロセスと変わらないですね。

    人間関係は、人を豊かにもしますが、自分を食い物にする人間関係があることも確かです。自分にとって良い人間関係を築くためにも、この本は一度読んでほしいです。


    まとめます。今回シェアしたかったことをもう一度。

    ・私達は、複数のアイデンティティを持ち、その時々にあったアイデンティティをもとに物を捉えることができる。

    ・その状態を維持するために、「アイデンティティを選ぶ理性」を鍛える。


    【お勧めしたい人】
    ・人間関係を広げようと思っている人
    ・最近誰かと対立している人

  • センの著作は色々読んだけど、その中でもかなり読みやすく、一般向けに書かれた本だと思います。とはいえ、センの理論や文章は難解なので、訳者が「上手に」訳したのだろうと思います。どの程度意訳されているかは、原著と照らし合わせて読んでみないと分かりません。

    人は、本来複数のアイデンティティを持っているにも関わらず、殊に宗教や文化などを唯一のアイデンティティであるとすることで、画一化され、単純化される。その結果として、対立関係が容易に生まれ明確化され、暴力が発生する。例えば、A氏は複数の帰属集団(インド国民であり、ベンガル出身であり、男性であり、経済地位では中間層に位置し、教師であり、ヴェジタリアンであり、ムスリムである)があるにも関わらず、ヒンドゥー・ムスリム間の対立が先鋭化すれば、他のあらゆるアイデンティティが無視され、ただ「ムスリム」という単一のアイデンティティがまるでA氏の全てを語るアイデンティティであるかのように扱われ、ヒンドゥーの攻撃対象となる。

    本書におけるセンの主張は「アイデンティティに先立つ理性」という一言に代表されるでしょう。センは、人間は複数のアイデンティティを持つこと、そして、場面に応じてどのアイデンティティを優先させるか理性的に「選択」できることを主張します。宗教や文化が生来的なもので、いずれのアイデンティティにも優先されるということはなく、人は自ら理性を通じてアイデンティティを正当化し、必要に応じて拒絶することができるといいます。それが「人間の矮小化」への抵抗であり、人間が主役として考える自由を回復する術なのです。

    センが生まれたベンガルのこと、そして、セン自身の少年時代の体験(ムスリムというだけでカデル・ミアはセン少年の眼前で殺された)などから、センの理論・思想のルーツを垣間見ることもできます。センの著作の中では読みやすい一冊だと思うので、おすすめします。

  • アイデンティティは与えられたものではなく、理性によって「選択」できるのだ。(巻頭)

    世界の人々を文明ないし宗教によって区分することは、人間のアイデンティティに対する「単眼的」な捉え方をもたらす。p2

    運命という幻想が、なんらかの単一基準のアイデンティティ(およびそれが意味するとされるもの)が醸しだす幻想であった場合はとくに、[見て見ぬふりをする]怠慢(オミッション)だけでなく、[自ら手を下す]遂行(コミッション)を通じて、世界中の暴力を助長することになる。
    →アイデンティティの負の面に着眼p5

    人を矮小化することの恐るべき影響とはなにかを考察することが、この本の主題である。そのためには、経済のグローバル化・政治における多文化主義・歴史的ポストコロニアリズム・社会的民族性・宗教的原理主義・および国際テロリズムといったすでに確立されたテーマを再検討し、再評価する必要がある。p9

    排他性がもたらす災難は、包括性がもたらす恵みとつねに裏腹なのである。p18

    アイデンティティは暴力や恐怖の源であると同時に、豊かさやぬくもりの源にもなる。p19

    【文明の衝突論に関して】
    たちまちのうちに多面的な人間を一元的な存在へと単純化し、何世紀ものあいだ国境を越えた豊かで多様な交流ー芸術、文学、科学、数学、娯楽、貿易、政治など、人類共通の関心事ーの場を提供していたさまざまな関係を封殺するものとなる。世界平和を追求するための善意の試みも、人間世界を根本的に幻想によって解釈した試みであれば、きわめて逆効果となるだろう。p29

    多様なアイデンティティはお互いを縦横に結び、硬直した線で分断された逆らえないとされる鋭い対立にも抵抗する。お互いの違いが単一基準による強力な分類システムのなかに押し込められれば、われわれが共有する人間性は苛酷な試練を受けることになる。p35

    【アイデンティティが作為的に生み出される例として】
    競争試験がまさにその好例である。(300番目の入学志願者はまだ大丈夫だが、301番目は不合格になる)。つまり、社会に差異があるのは、単に差異を考案しているからなのだ。p50

    コミュニタリアニズムのアイデンティティと選択の可能性 p56

    マイケル・サンデル「コミュニティは、人々がその一員としてなにをもっているかだけでなく、彼ら自身がなにであるかをも説明する。それは彼らが選んだ(自発的な付き合いのような)関係ではなく、彼らが発見する愛着であり、単なる属性を超えて、彼らのアイデンティティの構成要素となっている」p61

    おそらくより重要なことは、われわれが同時にもつさまざまなアイデンティティに優先順位をつけるうえで、十分な自由があるかどうかだろう。p63

    人生は単に運命で決まるわけではないのである。p65

    文明論的な手法は、単一基準の分類という仮定に無理なかたちで依存しているうえに、分類されたそれぞれの文明内の多様性を無視し、異なった文明間にある幅広い交流をも見逃しやすい。p75

    宗教的アイデンティティからのみ織り上げられた単一基準の帰属という観点で人々を分類することから生じ、恐ろしいものになりうる結果である。これは現代社会における世界的な暴力とテロの本質と力学を理解するうえで、とりわけ重要になる。世界を宗教によって分割することは、世界の人々や民族間の多様な関係を大きく誤解するだけではない。それにはまた、特定の個人間の相違を、その他あらゆる重要な関心事を忘れさせるまでに拡大する効果もある。p113

    多様なアイデンティティを認識し、宗教的帰属を超えた世界を認めることができれば、信仰心のあつい人にとっても、われれが暮らすこの問題の多い世界になんらかの違いをもたらす可能性があるだろう。p116

    【哲学者アキール・ビルグラミの論文「ムスリムとは何か」】
    つまり彼らはおもに西洋人とは異なるという観点から自己のアイデンティティを定義するように仕向けられているのだ。こうした「他者性」の一部は、文化的・政治的ナショナリズムを特徴付けるさまざまな自己認識として出現するだけでなく、その反動的な見解が原理主義に寄与することすらある。p132

    リーとその支持者の論文に書かれたアジア的価値観の分析は、西洋こそ自由と人権の発祥の地だとする西洋の主張に対する反動的な風潮の影響を明らかに受けている。p137

    文化とはなにかはっきり理解しないまま、文化の支配的な力を運命だと受け止めているとき、われわれは実際には、幻想の影響力に囚われた空想上の奴隷になることを求められているのだ。p148

    文化決定論に頼りたくなる誘惑はおおむね、高速で進む船を文化の錨でつなぎとめようとするような望みのない形態をとる。p159

    社会的な抑圧が文化的自由の否定となりうるように、自由の蹂躙は、共同体の構成員にほかの生活様式を選びにくくさせる大勢順応主義(コンフォーミズム)の横暴からもまた、もたらされるのである。p164

    シェイクスピア「生まれながらにして偉大な人もいれば、努力して偉大になる人もいるし、偉大であることを強いられる人もいる」p167

    反グローバル化による批判こそおそらく、今日の世界において最もグローバル化した倫理運動なのである。p174

    【グローバル経済にみられる不平等】
    正すべきは重大な怠慢オミッション(やるべきことをやらない過ち)に加え、基本的なグローバル正義のために取り組まれなければならない遂行コミッション(すべきでないことをする過ち)による深刻な問題もある。p193

    【多文化主義ふたつのアプローチ】
    1. 多様性の促進そのものに価値を見出して、それに専念する方法
    2. 論理的思考と意思決定の自由に焦点を当て、文化的多様性は関係する人々ができるだけ自由に選べる限りにおいて称賛するものだ、というもの p208

    インド・アクバル帝「信仰は理性に優先することはできない」p223

    【単一基準のアイデンティティを培養し、その自己認識を殺害の道具に変えるためになされること】
    1. それ以外のあらゆる帰属と関係の重要性を無視
    2. 「唯一」のアイデンティティの要求をことさら好戦的なかたちに再定義すること p243

    コミュニタリアニズムの思想でも、少なくとも一部では、アイデンティティへの建設的なアプローチとして、人をその人の「社会的文脈」のなかで評価しようとし始めたことは興味深い。p245

    【コスモポリタンとして】
    グローバルなアイデンティティの要求を考慮する必要性を認めることは、地元や国内の問題に多くの関心を払う可能性を排除するものではない。優先順位を決める上で論理的思考と選択が果たす役割は、そのような二者択一の形態をとる必要はない。p251

    【以下、解説】
    センにとってアイデンティティとは一個の自由な個人が有する、多面的・複層的な概念であり、個人が単一的(たとえば文化・宗教のような)「アイデンティティ」に拘束されるのではなく、複数のアイデンティティのなかから、個人が理性により「選び抜く」ものである。p259

    (マイケル・サンデルをはじめとする)コミュニタリアンにとってアイデンティティの「認識」は、「発見」から出発しているのに対し、センにとっては「選択」から出発している。p260

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著者プロフィール

1933年、インドのベンガル州シャンティニケタンに生まれる。カルカッタのプレジデンシー・カレッジからケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進み、1959年に経済学博士号を取得。デリー・スクール・オブ・エコノミクス、オックスフォード大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、ハーバード大学などで教鞭をとり、1998年から2004年にかけて、トリニティ・カレッジの学寮長を務める。1998年には、厚生経済学と社会的選択の理論への多大な貢献によってノーベル経済学賞を受賞。2004年以降、ハーバード大学教授。主な邦訳書に、『福祉の経済学』(岩波書店、1988年)、『貧困と飢饉』(岩波書店、2000年)、『不平等の経済学』(東洋経済新報社、2000年)、『議論好きなインド人』(明石書店、2008年)、『正義のアイデア』(明石書店、2011年)、『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)などがある。

「2015年 『開発なき成長の限界』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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