マンゴーと手榴弾: 生活史の理論 (けいそうブックス)

著者 :
  • 勁草書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (344ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326654147

感想・レビュー・書評

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  • あらかじめ聞き取り内容など決めず取り止めのない話を通じてそこに生きる人の民俗を記録に残す生活史。ヤンキー文化や、地元の友人との繋がりは日本どこでもそんな気がするけど、戦争にまつわることや基地の騒音は沖縄ならでは…と思う。フィルターを通さない調査の難しさもわかる。書籍としては意味付けや注目箇所は書いても研究としてはただ記すのだろうか?いやそんな論文ないよなぁ…?本件の場合回答者がこちらの意図に合わせてしまうことのむつかしさも際立つ。直前読んだ心理学の本とも思いがけずつながった。

  • 社会学においての調査。
    質的調査と量的調査がある。

    質的調査→興味深いが曖昧である
    量的調査→つまらないけど確か

    岸さんの聞き取り調査は、個人の語りに注目した質的調査であり、曖昧さの解消のためにそれをどうやって調べていくかを詳細に記述していた。

    この調査には、事前のアポから、調査後のお礼も含め、人と人との繋がりの中で本が生み出されていくのかなと。

    戦時中のおばーおじー達のリアルな声を、
    こうやって残してくれる著者に、
    ありがとうといいたくなった。

  • 質的調査の語りについての理論書。
    2章。櫻井厚の所謂「対話的構成主義」批判。
    櫻井の方法論が結局、語りを「括弧をはずさない」で保留することで、語りを無視したメタ解釈を忌避する余り、逆に語り手の事実への配慮もなし得ない、つまり、書けない状態に陥ることを指摘。デヴィットソンを引用しつつ、命題は真偽それ自体に翻訳可能性が前提とされていることから、語りをおおよそ理解可能なものと想定すること、そして括弧を外し、分析者自身が書く(語る)ことの可能系を解く。語りの向こうに実在性を想定する。読んでいてこれは、メイヤスーの思弁的実在論の問題意識とよく似ていると思った。かれが「相関主義」と呼ぶものがまさに櫻井の「対話的構成主義」。著書は語りを聞き、書くことの可能性を語りの実在への触手みたいなものを前提に括弧を外すことにみている。語りを聞くという方法論についての形而上学、といえる。

    6章「調整と介入」は量的調査と対比しながらその「正しさ」の根拠を論じた本書でも表立って一番理論的な内容。データをめぐる「社会的相互作用」の介入の必然性、対自的、動的なプロセスの中にしか暫定的な正しさを想定し得ない点では、量的、質的調査とも変わりない、共に必要という感じ。統計至上主義者にとっては一番受け入れ難いところかもしれない。

    7章「爆音のもとで暮らす」は、基地周辺に事後的に移住した人達の自己責任論をネタに論じたもの。全体的な課題に対する生活者としての個人に自己責任を被せていく論理を批判する。一見、受け入れ難い論旨に感じられるが個人史の観点から構造的な大きな状況と個人史的な生きる条件、選択を対比させる視点は、今の状況で帰って新しくかんじた。優しい。

    8章「タバコとココア」は本書の中でも一番感銘を受けた章だ。著書が構想する「新たな人間に関する理論」はナイーブで文学的ですらあるがそうしたものをなお超えて魅力的である。ディテールを大枠の歴史観へのカウンターとして考えるのではなく、複数のレベルの複雑さを消去することなく捕まえたいという熱意が伝わる感動的で、理想主義的な論考。

    装丁が著者の社会学に対する態度を表している様で美しい。社会人、ビジネスの現場でも読むべき本の様な気がする。経営者受けはしない気はするが(笑)

    しかし、特殊的な真理、理解にかかるものは、
    反復、説明にかかる方法にはなり得ないとする、ガダマーの実証主義と歴史理解の論争への主張からすると、著書の立論はかなりロマンチックなきがする

  •  前回読んだ「断片的なものの社会学」で岸政彦氏が好きになって、「マンゴーと手榴弾」「街の人生」の二冊を図書館で借りた。「マンゴーと〜」は、社会学の理論についての本。いろいろな人たちの生活史を語りとして聞いて、その分析や解釈のあり方について考える。

     印象に残ったのは、「鉤括弧を外すことーポスト構造主義社会学の方法」という章。この章は、①被差別部落で生まれ育った年配女性と、②沖縄から本土へ出稼ぎに出て後にUターンした人々の、「自分は(被差別部落出身であること、あるいは沖縄出身であることを理由にした)差別を受けたことがありません」という語りについて考察する。差別は本当になかったのか、実はあったけれど、本人たちが感じ取っていなかっただけなのか。

     社会学者Aは、差別されたことがないと言うのは、実は存在する根深い差別によって差別を受けたことに気付く能力すら剥奪されてしまっているためだ、と言う。社会学者Bは、彼らが差別されたことがないと言うのであれば本当に差別はなかったのだ、と言う。社会学者Cは、AとBの論はいずれも、語りが「差別-被差別」という文脈でしか解釈されていないことに問題があると批判した。さらにCは、差別とはある人々に対する「カテゴリー化」や「一般化」であるとし、解釈や理解の工程には多かれ少なかれ「カテゴリー化」や「一般化」が欠かせないため、結果的に差別・暴力となり得ると結論づけた。

     Cの理論について岸氏はこう述べる。

    「いかなる一般化も禁止すること、つまり語り手の語りを引用符のなかにいれたままにしておくということは、それを全面的に翻訳不可能なものとすることと同じことなのである。(中略)他者の語りの(対象言語から主体言語への転換としての)翻訳を不可能なものにすることで、私たち社会学者に、その語りを受け取ったあと、それに続けて何かについて「書くこと」あるいは「物語ること」を禁止したのである。(p.105-106)」

     では社会学者に求められることは何か。それは、聞き取りを通じて事実を蓄積し、その都度、自分の理論を変遷させていくことである、と岸氏は述べる。たとえば出稼ぎののちに本土からUターンした沖縄の人びとは、差別があったからUターンしたと考えられてきたが、彼らの語りからその事実はないことがわかった。

    「私はこのことを、差別ではなく、『他者性』あるいは『他者化』という概念で捉え、紆余曲折を経て、最終的に『同化圧力が強いほど、他者化される』という仮説に至った。(p.111)」

     沖縄で生まれ育った人びとは、自分が生まれ育った地への帰属意識が非常に高いので、そこから離れたときに、沖縄以外の地への「他者性」が強く意識される。だから、出稼ぎという目的を達成したら沖縄に戻ってくるという選択をしたのだ、というふうに、それまであった理論の変遷を行なったのである。

     自分の意見を変えるということは、社会学者ではなくとも、なかなか容易なことではない。私自身、ずっとそうだと信じてきたから、この方針を変えたら過去の自分を否定することになるような気がするから、といったような理由から、固執してしまうことも少なくない。けれど、語りという形で伝えられた事実が事実として目の前にある以上、それが自分の理論にそぐわないからといって、捻じ曲げたり、無理矢理な意味付けをしようとしたりすることは、横暴である。自分という人間の根本的な信念を変える必要まではないにしても、事実を事実として、いったん受け止めようとする姿勢を持ちたいと思った。

     生きてきた道筋が全く違う他者の語りというものは、常に、自分がこれまで当たり前だと思ってきた価値観や世界観を揺るがす可能性を持っていると思う。たくさんの揺れが起こるのを自分の内側で感じながら、他者の語りを、口を挟んだり批判したりすることなく、ただ聞くというのは、大変な作業に思える。揺れの一つ一つを全てまともに受け取る必要はないし、いちいちそんなことしていたら、自分ってなんなんだという崩壊に繋がる。他者の語りと、自分の持っている価値観を切り離して、なお聞き続けるということができるようになるのには、相当の時間と経験が必要だったのではないかと、根拠はないけれど勝手に推測して、社会学者って、岸氏ってすげえ、と今なっている。

  • 「マンゴーと手榴弾-生活史の理論」https://www.keisoshobo.co.jp/book/b372622.html 読んだ、良書!社会学のフィールドワークの手法と潮流について、実際のエピソードに沿って論じている。調査の哲学や葛藤を知るのはおもしろいし、何より調査時の個々のエピソードが生々しい。「みんな」ではなく一人一人なんだよね(おわり

  • ふむ

  • 語りはどこから始まってるのか。

  • 20/05/07。

  • 優れた随筆家・作家としての顔も持つ岸政彦の本職は、社会学者である。社会学にもその研究の流儀によって様々な学派があるわけだが、彼はいわゆるフィールドワーク的にある特定のテーマについて体験した個々人の話を傾聴してそこから理論を構築する生活史調査と呼ばれる方法論を得意としている。

    本書は、彼が社会学の方法論としての生活史調査について、その方法論としての課題や可能性について綴った小論で構成されている。彼の生活史調査がいかなるものなのかは、沖縄から本土に就職したものの沖縄へUターンしていった人々をテーマとした「同化と他者化-戦後沖縄の本土就職者たち-」を読むとよく理解できる。そこでは話のディテールも含めて細かいエピソードが丹念に綴られ、数十人のエピソードがポリフォニックに重なり合う。そうした重層の中から、個々のエピソードの持つ固有性を生かしながら、理論として一般化できるギリギリのラインを抽出することで、同作は社会学研究と呼ぶにふさわしい洞察を得ることに成功している。

    なお、本書の幾つかの小論はかなり理論的な叙述も多く、社会学に関して一定の関心を持たない読者でないと読むのは厳しいかもしれない。それでも、また幾つかの小論では、実際の生活史調査によって得られたインタビューから、その語りのディテールをうかがい知ることができる。表題の「マンゴーと手榴弾」とは、沖縄で集団自決を迫られ、手榴弾を受け取った少女が、不発であったことから辛くも生き延び、数十年後、この聞き取り調査に訪れた著者や学生らに凍ったマンゴーをもてなす、という様子を表わしている。我々は、ほぼ同じくらいのサイズであろう2つのオブジェクトー手榴弾は少女に手渡され、マンゴーはその元少女から手渡される-の奇妙な連鎖が持つ不思議さに、生活史の持つディテールを感じるのである。

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著者プロフィール

岸政彦(きし・まさひこ)
1967年生まれ。社会学者・作家。京都大学大学院文学研究科教授。主な著作に『同化と他者化』(ナカニシヤ出版、2013年)、『街の人生』(勁草書房、2014年)、『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015年、紀伊國屋じんぶん大賞2016)、『質的社会調査の方法』(石岡丈昇・丸山里美と共著、有斐閣、2016年)、『ビニール傘』(新潮社、2017年)、『マンゴーと手榴弾』(勁草書房、2018年)、『図書室』(新潮社、2019年)、『地元を生きる』(打越正行・上原健太郎・上間陽子と共著、ナカニシヤ出版、2020年)、『大阪』(柴崎友香と共著、河出書房新社、2021年)、『リリアン』(新潮社、2021年、第38回織田作之助賞)、『東京の生活史』(編著、筑摩書房、2021年、紀伊國屋じんぶん大賞2022、第76回毎日出版文化賞)、『生活史論集』(編著、ナカニシヤ出版、2022年)、『沖縄の生活史』(石原昌家と監修、沖縄タイムス社編、みすず書房、2023年)、『にがにが日記』(新潮社、2023)など。

「2023年 『大阪の生活史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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